キ/薬姫/無落日
≪3/3≫
2.
3日後。
「西山さん…」
丸山は医務室を訪れた。(恵の淹れたコーヒーの「ような」飲み物に当たったわけではない)
医務室のヌシは西山という。所内の最古参のひとりで、丸山から見れば、所長の矢矧義経と同様、気軽に喋れるはずもない立場の人だ。けれど、医務室という一人しかいない部署で、長年、上下関係を意識せずにいた西山は、丸山が気後れするほど気安い。今では丸山も慣れて、たまに世間話をする程度の仲になっていた。
「丸山? 珍しいな、怪我でもしたか?」
「ちょっと訊きたいことがあるんですけど」
「おう」
「恵になにか言ったでしょう?」
「…言った」
「なに言ったんですか?」
「恵のやつもう吐いたのか。この取引は無しだなー」
「取引?」
「聞いたんじゃないのか?」
「恵はなにも言ってませんよ。でもあの子になにか入れ知恵するとしたら、矢矧さんか薫か、西山さんくらいでしょ?」
所内では他に恵とまともにしゃべれる人間がいないのだ。
「取引って言いましたよね。早く折れてください」
「なんで?」
「業務に支障があります」
「支障? 俺は、『1週間、丸山に茶淹れろ』って言っただけだよ?」
「それが弊害なんです!」
声を荒げてしまった。少しバツが悪くなり、声を細めた。「…淹れてきましたよ、ものすごく不味いのを」
「それくらい我慢したら。おまえの上司なんだし」
「ええ、俺の上司は恵ですよ、それが現実です。上司なら、部下の仕事の円滑な遂行に助力するのは当然なことですよね。それなのに茶を淹れては毎回こぼして、回転中の分離器(セパレータ)や取り分け中の試験管にぶちまけられました。パソコンも2台壊れました、買替予算申請中です。班員からも苦情があがっています」
「……」
「西山さん」
「…わかったよ」
観念したようにホールドアップした。西山は書類が散らばっているデスクに戻ると、引き出しを掻き分けて、取り出した紙を丸山に差し出した。
「これ、恵に渡しておいて」
そうしたらお茶汲みはなくなるから、と。
「…写真?」
「ああ」
見ていいのかと視線で問うとOKが出たので、丸山は写真を受け取った。
古い写真だ。
「これは───、…貴重ですね、すごく」
その写真に写っているのは4人。
おおきなぬいぐるみを抱く三つ編みの女の子、その両脇に白衣の男性がふたり。そのうちひとりは小さな女の子を抱き上げている。
丸山はその4人とも、名前を挙げることができた。
「薫を抱っこしてるのは、島田…芳野、博士ですか? 俺は直接面識はありませんけど」
「そうだ」
西山は煙草に火を点けながら答えた。
「矢矧さんも恵も若いな」
「4年前だからな」
「…天気がいいですね。どこで撮ったんです?」
「地上(うえ)のときの、研究室の屋上だな」
西山は懐かしそうな目で笑う。「まるで家族みたいな4人だったよ」
「芳野博士の写真なんてほかに無いだろうな。だから恵も、それに興味を持ったんじゃないか?」
だから俺も手放したくなかったんだけど、と付け加えたあと、西山は煙を吐き出した。
西山に礼を言って医務室を出たあと、丸山はもう一度写真を取り出した。
青空を背景に写っているのは4人。島田芳野、薫、矢矧義経、そして柳井恵。
丸山は目を細めて写真に見入る。
西山は気付かないのだろうか、この写真の違和感に。
恵はこの写真を欲しがったという。
その理由は、よく解る気がした。
島田芳野、過去の薫、過去の矢矧、過去のひつじ、過去の自分。───恵が欲しがったのはそんなものじゃない。
今はまだ、写真で満足していても、いつか、恵は望んだものを求めるかもしれない。
おそらく、そう遠くないうちに。
日が沈まない世界があったと仮定しよう。
やわらかな常光に住まう人々に闇の存在を聞かせたら、彼らは闇を望むだろうか?
その逆は有り得ると、こんなにも簡単に想像できるというのに。
無落日 了
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キ/薬姫/無落日