/薬姫/無落日
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 1.

 とん、と目の前にコーヒーカップが置かれた。
「……は?」
 何が起こったのか判らなかった。書き物をしていた9班副班長の丸山は、背筋を走った寒気の激しさに恐怖すら覚えた。まるで目の前で時限爆弾をセットされたときのように顔を引きつらせた。
 同時に、室内の空気が凍る。作業中だった他の班員は、無言で、それぞれ試験器具を手にしたまま、丸山から放射状に避難した。
 それもこれも、丸山の前にコーヒーカップを置いた人物が、9班班長の柳井恵だったからだ。
 恵はいつも大きな熊のぬいぐるみを抱えている。それを右手に抱えて仁王立ちし、座っている丸山を見下ろした。 ふたつの長い三つ編みが揺れて丸山の肩を叩いた。
「アタシがいれたの。呑みなサイ」
「え…?」
 ひとり逃げ遅れた丸山は恵の命令をうまく聞き取れなかった。…いや、聞きたくなかった。
「呑め」
 さらに恵の口調に強みが入る。
「ちょっと待て。…え? どうしたんだ、急に」
「いーから!」
 びしっと強く言われて、丸山はそこで初めて手元に置かれたカップの中を見た。カップの中はどうやらコーヒー、…の……ようだが、混ぜ切れていない螺旋状の分離層が見てとれる。それが白色ならばミルクだと思い込むこともできるが、この場合、なんと緑色だった。見るからに怪しいそれを呑めと言う上司。この現実から丸山は逃避したかった。
「…ヤバいもん、入ってない?」
 確認せずにはいられない。というより、見るからにヤバくないはずがない。なによりヤバい薬だらけのこの職場ではシャレにならない。
 恵は少々気分を害したようで「むか」と意味不明な言葉を呟いた。
「じゃ、アタシが毒味しよっか?」
「いや、おまえじゃ意味ないし…」
 恵は体質的に毒が効かないのだ。
 恐々とカップを見つめるだけの丸山に頭にきたのか、とうとう恵がキレた。
「もーッ! 呑むのか呑まないのかはっきりしなサイ!」
「…できれば呑みたくない」
「じゃ、ハンチョー命令」
「結局呑ませるんじゃないか!」
「マル!!」
「…」
 譲歩を知らない班長としばし対峙した副班長は諦めの境地で溜息を吐いた。
「早まっちゃダメ! 丸山さん!」
「丸山さんがいなくなったら、オレら困るんですけど…」
 部屋の離れたところから、物騒なことを言われる。(いなくなったら、ってなんだ…)
 丸山はさらに深い溜息を吐いた。
「骨は拾ってくれ」
 そう言い遺して、丸山は震える手でカップを取り、その見るからに怪しい飲み物を。
 呑んだ。

 机に伏す。
 その瞬間に、気を失ってしまいたいと願った。
「………まずい」
 そう言いたかったが、口の中に広がる言葉では表せない味に舌を動かすことができなかった。
「呑んだ? …呑んダ!?」
「おまえ…本当になにも盛ってないだろうな…」
 まず甘いのか苦いのかすら知覚できない。舌が灼ける、というのは覚えがあるが、舌が融解しそうだった。
「呑んだよねッ!!??」
「…ああ」
「じゃ、あと一週間、毎日ね」
 と、カップを持って踵を返した恵。
「はっ!?」
 恐ろしい言葉を耳にして丸山が振り返った。
 そのとき。
 恵がなにもないところで躓いた。「ぎゃん!」派手に転んで、ぶんと空を飛んだカップからは、ぴっと飲み残しが飛び散り、びしゃっと試験中の机の上に飛び散った。ごとん、とカップは割れずに落ちた。
「うわぁぁぁあ!」
「きゃーっ!」
 離れていた班員が一斉に頭を抱え悲鳴をあげる。試験管やシャーレのなかに琥珀色の染みが広がっていく。そのなかにはひと月かけて面倒を見ていた試験体もあり、それまでの苦労が無に帰した班員は卒倒しかけた。
「う…わ、これ、明日が納期だったのに!」
「こっち、パソコンにもかかった!」
 地獄絵図と化した室内のあちこちで事の甚大さを語る被害報告が叫ばれる。
 当の恵は床からむくりと顔を上げ、
「ひつじはっ!?」
 と、空気を読まない声をあげた。
 果たして恵が空気を読んだことがあっただろうか。
 班員の厳しい視線は恵を刺すことさえできなかった。


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