/薬姫/ティル
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 3.

 七瀬司は公園のベンチに座って点字本を読んでいた。木陰であっても初夏の気温と湿度で背中が汗ばんでくる。でもそれを不快と感じないのは乾いた風が吹いているからだ。司はときおり顔を上げて、その風を楽しんでいた。
 公園の人通りはあまり多くない。けれどそろそろ正午になるので、昼休みの会社員が溢れ出すだろう。
(昼ご飯どうするか)
 三佳はすぐ戻ってくるのか遅くなるのか判らない。さてどうしよう、と考えていた矢先、こちらに近づいてくる足音が聞こえた。知っている足音だった。
 声をかけてくるだろうと思いきや、予想に反して足音は司の前を素通りした。
「恵、さん?」
「ぐはっ! なんでわかった!?」
 相変わらずふざけた物言いで恵は振り返る。
「その金属音。キーホルダー?」
「んーん、ブレス。そんだけ?」
「あと足音。スキップするように歩いているから。左右のバランスがすごく悪いし」
「あー、ひつじがいないからかなぁ」
 またわけのわからないことを言う。
「このまま逃げられたら、やっぱあーげないって思ってたんだけどな。ちぇー。しゃーないか」
 どうやら恵は自分自身で賭をしていたようだ。司の前を素通りできるかどうか。そういう風に自分を試されるのは不愉快だが、相手は他でもない三佳の知人だ。表情には出さないでおく。
「これ、薫にあげて。約束してたノシ代わり。たぶん、あのコは欲しがると思う」
 そう言うと恵は紙幣大の紙片を司に握らせた。硬い紙、おそらくハガキか写真だろう。
 あとね、と恵は低く笑う。なにか企んでいるらしい。
「薫のカレシくん、いじわるだったから、アタシからもひとつお返し」
「なに?」
「ツカサ、芳野博士に似てるよ」
「…それが、いじわるのお返しになるの?」
「さあ? 薫に訊いて。おナカ減ったから帰るね。じゃあね、さいなら」
 言いたいことだけ言って、恵は駆けていった。ブレスレットの金属音が遠ざかっていった。




 三佳は恵と別れたあと、歩道をとぼとぼと歩いていた。
 恵と会えて嬉しかったはずなのに足取りは重い。頭のなかで恵とのやりとりを反芻していた。
 実を言えば、恵が言ったことの半分は理解できてない。
 そもそも根本的に考え方が違うところがあるのだ。三佳は死が自由とは思えないし、自分の意志で死にたいとも思わない。けれど。
(みんながね、死にたくなる前に死ななくて済むように)
 恵と自分の食い違いの多くは、単に、捉え方の違いなのだろう。
 赤ん坊を抱いた女性とすれ違う。三佳は気付かれないように目で追った。
(この世界は残酷だろうか)
 仰ぐと青い空がある。風が吹いている。多くの人が楽しそうで、幸せそうに見える。目覚めた日の夕暮れは泣いてしまうくらい綺麗だった、優しい人たち、手間のかかる奴ら、少しの悲しみや憤りはあるけど、それでも残酷とは思えない、居心地の良い場所。
 地下で生活していたときも我慢できないほどの不満はなかったが、それはこの世界を知らなかったからだ。
 そう、なにも知らなかった。なにも解ってなかった。自分がどんな場所にいるのか、なにをしているのさえも。父の教えも忘れたまま。
 父の顔は今も思い出せない。自分の記憶力が恨めしい。
 せめて残してくれた言葉、教えてもらったことを忘れずにいよう。
「───…」
 待ち合わせ場所だったファミレスの裏の公園で司の姿を見つけた。それだけで、言いようのない幸福感がじわりとやってくる。
 三佳は気持ちを切り替えるために頭を振って、駆け出した。


「待たせてごめん」
 そう言うと司は笑って手をさしのべた。それを取って、司の隣に座る。
(ああ、いつもの空気だ)
 恵と再会したことで昔の息苦しさや地下の空気を思い出したけど、こうして司の隣に並ぶとそれらは遠い過去のことだと身体が納得したようで、そこには懐かしさだけが残った。
「三佳、芳野博士って誰?」
「え!? …あ、恵に訊いた?」
「うん、ついさっき、ここを通りかかったときに」
「あぁ、そう。島田芳野、私の父親だ」
「───ふぅん」
 司は神妙に顔を歪めた。そこに不穏なものを嗅ぎ取って三佳は慌てる。
「え、恵、なにか言ってた?」
「いや、別に」
「…なら、いいけど」
「あと、あの子の左腕に刺青あった?」
「は? …え? 刺青!?」
「ないよね」
 やっぱりね、と頷いてから、司は恵に視力を見抜かれた経緯を説明した。
「入れ墨がなんとかって言ってたけど、要はそれと並ぶくらい派手な特徴に僕が反応しなかったからってことだろ?」
「……」
 三佳は言葉に詰まった。恵の左腕にある特徴、それは入れ墨でもブレスレットでもなく───。
 司の「眼」になるときは嘘を吐かない。三佳は自分にそれだけは厳しく律していた。一度でも嘘の景色を言って、それを見抜かれてしまったら、司は二度と三佳の言葉を信用しないだろう。信用される眼であるために、どうしても嘘は言えない。
 けれど本当のことも、今は口にできそうにない。
 言葉に詰まって長い沈黙をつくってしまっても、司は何も言わずに待っていてくれた。
「あの」
「ん?」
「…嘘吐く」
「うん、じゃあ、騙されるよ」
 と事も無げに笑う。三佳は泣きたくなった。
(甘えてるんだ、私は)
 司は三佳の事情をなにも知らない。訊かないでいてくれて、聞かない振りをしてくれる。それなのに調子のいいときだけ慰めてもらおうなんて、虫が良すぎる話だ。でもそれでも三佳は、「恵の左腕には凄惨なリストカットの後があって、司がそれに目を止めなかったからだ」とは言えなかった。
「…派手なブレスレットを付けてたから。それのせいだと思う」
「そっか。そういえばそんな音がしてた」
 と、頷いて、宣言通り司は騙されてくれた。
「もうひとつ、これ」
 司は三佳のほうへ紙片を差し出す。
「…なに?」
「三佳に渡せって」
 それは古い写真だった。




(そうそう、写真があったんだよ。芳野博士と矢矧さんと、それに恵と薫が写ってたはずだ)
 見たい、と三佳は言った。
(その写真は恵に譲ったんだ)
 そう言って謝った人は、今はもうこの世にいない。
 けれど写真は巡り巡って、今、三佳の下へ。
 写真を見て叫びそうになった。
 それには思い出せずにいた父が写っていた。幼い三佳を抱き上げて、穏やかに笑っている。
(おとうさん…!)
 父の隣には不敵に笑う矢矧、そして熊のぬいぐるみを抱く恵。
 この写真を撮ったときのことなんて覚えてない。けれどこれは父と三佳、矢矧と恵、4人が揃って顔を合わせていた時期があったという確かな証拠だ。今はバラバラになってしまった4人にそんな時代があったと思うと途端に感傷が押し寄せる。憶えていないことが悔しかった。現在の生活を棄てられはしないけど、二度と戻れない時間があると思い知らされて胸が痛くなった。
「三佳…?」
「ごめん。5分、待ってて」
 泣くな、と自分自身に命じても、語尾が震えてしまった。司は気づいただろう。それでも何も言わずに、隣にいてくれた。
 あの頃───なにも知らないでいた時間を楽園と呼ぶなら、それはなんて虚しい楽園だろう。恵の言う通り誰もが楽園からの脱走者なら、それは誰もが世界を知りたがった結果だ。楽園での幸せな生活を棄ててまで。

 今なら、恵が地下施設から失踪した理由が解る。
 三佳も、恵より先にこの写真を手にしていたら、きっと同じことをした。外に出たいと言って矢矧を困惑させたに違いない。
 写真は、抜けるような青空の下で撮られていた。





ティル・ナ・ノーグ 了
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