/薬姫/ティル
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 三佳は空を仰いだ。
 空が青い。雲は白い。7月に入り、梅雨明けが近い。もう夏だ。低湿度の心地良い暑さに確かな季節を感じて、自然と微笑んでしまう。
 目的地があるのかないのか、恵はスキップしそうな足取りで歩道を歩いていった。三佳はその後を付いていく。
 前を歩く恵は白いワンピースを着ている。昔はツナギばかりだったので、ずいぶん印象が変わった。それだけじゃない。三つ編みをしていた髪は解かれ、ゆるいウェーブの髪が腰まで流れている。化粧もしているし、指先の爪はきれいに整えられていた。いつも手放さずにいたナイフと熊のぬいぐるみはもう無い。それはふたつとも恵があの部屋に置いていった。恵のへらへらした笑顔は相変わらずだが、少し突けば爆発しそうな気性の危うさは今は無い。ずいぶん穏やかになったように見える。
 本当に変わった。3年も経っていれば当然かもしれないけど。
「薫とこんな明るいトコロ、一緒に歩けるなんて夢みたいだね」
 澄み渡る晴天のした、恵が振り返って笑う。
 昔、恵と三佳がいたのは薄暗い地下施設だった。恵は4年、三佳は5年、そこにいた。一度も外に出なかった。恵の言うとおり、こんな風に青空の下を歩けるとは、あの頃のふたりには想像も付かなかっただろう。
「むぉー」
 恵は両手を上げて大きくのびをした。左腕のブレスレットが二の腕まで下がる。その腕に生々しい無数の傷跡が見えて、三佳は目をそらした。恵は自傷癖があって、以前は腕が乾くことが無く、いつも不器用に絆創膏が貼られていた。今は白い腕に傷跡だけが残っている。「死にたいんじゃないよ。生きるために切るの」とかつて言われた恵の台詞は、今も理解できない。
「それ、隠さないのか。目立つだろ」
 隠そうとしない恵に少しの非難を向ける。
「ん? これ? 隠してるつもりなんだけど」
 十数個のリングを連ねたシルバーのブレスレットを振ってみせる。じゃらじゃらと音がした。
「まだ切ってるのか?」
「んーん。今は切らなくても平気。なんでかな。あの頃は切らなきゃ息できなかったけど、今はそんなことない」
「今までどこにいたんだ?」
「心配した?」
「…あたりまえだ」
「ナナオくんに付いてって、あっちこっち」
「誰だよ」
「国薬連のおねーちゃん」
「!」
 それは予想もしてなかった、と三佳は驚く。国薬連は矢矧義経が地下に潜る前に在籍していた連盟だ。
「ナナオくん、ちょーコワいの。仕事ミスると怒鳴るし、ごはん残すと耳掴むし、床で寝てたら踏むし、門限破ったら平手。でも、矢矧の追っ手から隠してくれた」
 最後のひとことで三佳は笑うのをやめた。恵が地下施設から失踪した日、三佳は矢矧に恵を追うことをやめさせたが、やはりそれを聞く矢矧ではなかったということだ。
「ねぇ。アメリカのどっかの州で安楽死が法的に認められたの、知ってる?」
 今日の天気を話すときのような気軽さで、恵は言った。しかも会話の流れを完全に無視した唐突な内容。
 三佳は軽く息を吐いた。恵との会話に脈絡を望んではいけないことを思い出したのだ。
「…確か、2人の医者に余命一月と診断されたら、行政から薬がもらえるというやつだな」
「そう」
 ヒトの生死が問題なだけに法はもっと複雑だが簡単に説明すると、まず医師の診察を受け余命一月と診断されたとする。次に別の医師の診断を受け同じような結果が出た場合、その2枚の診断書と引き替えに行政から安楽死の薬をもらえる。医師による自殺幇助「尊厳死法」。
 飲む飲まないは自由。いつ飲むかも本人の自由だ。
 この法律が可決されたとき、この州は他州から反感と非難を浴びせられたという。どんなかたちであれ、安楽死などさせるものではない、ということらしい。
「アタシのオトモダチ、末期癌だった。50歳くらいのおばあちゃん。とても優しいヒト」
「…?」
「ミセス・ホリーは薬を欲しがってた」
 恵は足をとめて、ゆっくり空を仰いだ。
「一枚目の診断書はすぐに書いてもらえた。それくらい、ボロボロだったから。でも2人目の医者は、ミセス・ホリーを殺す書類にサインはできないって言って診ずに帰っちゃった。そのヒトはミセス・ホリーの知り合いじゃなかったし、情が移ったわけでもない。ただ、自分のサインがヒトを死なせてしまうことが恐かっただけなの。ミセス・ホリーは苦しみながら死んだわ、“望んだ終わりじゃない”、って」
「…」
「ミセス・ホリーは穏やかに死を迎えたかったんだって。ココロ静かに神サマに祈りながら、アタシにサヨナラを言いたかったんだって。法律はミセス・ホリーのお願いを叶えてくれようとしたけど、医者のほうがそれを受け入れられなかったんだ。アタシは、ミセス・ホリーの意を汲んであげられないこと、すごく悲しくて、ばかみたいで、苦しかった。
 生まれてくるのはどうしようもできないけど、死ぬことだけは自由だわ。アタシは昔からそれだけが希望だった。病気にも事故にも他人にも時間にも殺されたくない。アタシが死ぬときはアタシが決めたいの。それを望んでた。それが一番幸せなことだって、アタシ知ってたよ? ───でもそれはとてもゼイタクな願いだったみたい」
 空から目を離して、次に恵は街の景色を眺める。
「あの日。ひつじを置いて『外』に出たけど、そこはすばらしい世界じゃなかったもん。あそこにいるのがイヤでイヤでしょうがなくて逃げ出したのに、そこはちっともすばらしくなんかなかった。
 外へ出てみたら、毎日、ヒトが死ぬニュースばっかり! アタシ、ガクゼンとしたよ。耳を塞ぎたかった。なんて残酷な世界だろう、事故に巻き込まれたり、誰かに殺されたり。望みもしないのに死んでいく人達がいっぱいいるの。恐くてしかたなかった。───あぁ、アタシは矢矧に守られてたんだなぁ、こんな恐い世界を知らずにのほほんと生きてたんだなぁ、あのまま矢矧といたら事故や他人に殺されることはなかったんだろうなぁ、望み通りの死に方をしてたんだろうなぁ、って」
 街の景色から目を外し、恵は三佳の視線を捉えた。
「ティル・ナ・ノーグ、知ってる?」
「ネバーランドだろう」
「うえぇっ!? ウソっ、ピーターパンなんて読むんだ?」
「外に出たときに、一通り読ませられたんだ」
「へぇ。びっくり。そういうジャンルはさっぱりなのかと思ってた」
 ティル・ナ・ノーグ(tir nan og)とはケルト神話における楽園、遠い西の海の彼方にあるとされる常若の国。光り輝く国とされ、病も苦しみも老いも死も無く、人間たちが永遠に夢見る理想郷である。
「矢矧のトコにいたら、アタシはアタシが願う通りの死に方ができた。───でもね、そんな夢のような場所に長くはいられないんだ。いつかはティル・ナ・ノーグから外に出て、オトナになって、残酷な世界を受け入れなきゃいけないんだなって。そう、ここで生きてるヒトみんなみんな、アタシたちといっしょなの。楽園から逃げ出してきたヒトたちばかりなの。楽園の暮らしがイヤになって逃げ出して、こっちの残酷な世界で楽しく生きてるんだろうね」




「ミセス・ホリーが欲しがってたクスリ、後になってから実物を見る機会があった」
「へぇ?」
 純粋な興味から三佳は先を促す。
「カプセルなんだけど、赤いの。それ」
「───」
 三佳は足を止めた。否が応でも引きずり出される記憶。
 間違いなく人生最大の汚点となる自ら造った薬。それも赤かった。
 唇を噛んだ。どれだけ時間が経っても、その記憶は少しも薄れないし、そのやるせなさに泣かずにいられない。
 どうにか堪えてゆっくり視線を上げると、恵の静かな両眼に捕まった。
「そのクスリを見たとき、薫のこと思い出した」
「……」
「ケーサツが来たっていうのは、日本に帰ってきてから聞いた」
 かつて恵と三佳がいた施設はもう解体されている。それは恵が施設から失踪して1年が経った頃。そのときのことが脳裏をかすめて気が遠くなった。それを振り払おうと三佳は頭を乱暴に振った。
「ねぇ」
「…ん?」
「矢矧。死んじゃった?」
 あまりにストレートな訊かれ方に三佳は苦笑する。
「生きてるよ」
「どこにいるの?」
「ドイツ」
「え? なんで?」
「矢矧は学生時代に留学してそのまま帰化してたらしい。少しの勾留期間後に強制送還された」
 警察が踏み込んできたという、その前後のことを、三佳はあまり覚えてない。明るい部屋のベッドで目覚めて、屋上で司と出会った日までに何日経過していたかも判らない。矢矧の現状も、他人からの受け売りなのだ。今となっては深く知ろうとも思わなかった。
「そっか。マルとかセンセとか、もう、あそこにはいないんだ」
 恵は懐かしそうに笑った。マル、というのは恵の部下だった丸山のことだろう。
「先生? だれ?」
「名前知らない。いーよ、そのうち会うかもしれないし。今日、薫と会えたみたいに」
 あははは、と恵は軽いステップでくるくると回る。初夏の風に髪がなびいて気持ちよさそうだった。
「いいかげん、その呼び方やめろ。私は」
「ぶぶー。いまさら、新しい名前なんか覚えらんない。教えてくんなくていいよ」
「おまえな」
「それに、軽々しく名前を出さないほうがいいと思うよ? コレ、ちゅーこく」
「…なに?」
「芳野博士と矢矧は今でも有名人だよ。芳野博士のムスメさんの存在も有名。変な目で見られたくないでしょ?」
 恵は小走りで駆け寄って、三佳の目の前にしゃがみこんだ。白いワンピースが地面をかすめても気にせず、恵は三佳の目を覗き込む。
「薫、まだ小さいもん。いいじゃん。ゆっくりおいで」
「…恵も、そこにいる?」
「いるよ。みんながね、死にたくなる前に死ななくて済むように、いろんなクスリをつくるの」


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