キ/薬姫/ティル
≪2/4≫
1.
「相席、構わない?」
すぐ近く、頭上から明るい声が聞こえて七瀬司(ななせつかさ)は顔を上げた。午前11時、街中のファミレスでのこと。
司は顔を上げても相手の顔を認識することができない。しかし健常者の相手からすればこれが普通の反応になる。自分の視力を気取られないよう、彼のこういった動作は無意識のうちに行われていた。
声は女のものだった。推定年齢20歳前後。自分より年上だろう。記憶している声と一致するものは無し。
他人だ。
さらに司はアンテナを広げ、周囲の雑踏から店内の人口密度を計った。
測定が済むと、声が発せられた高さへ司は笑顔を向けた。
「遠慮してください。───僕に用があるなら別だけど」
店内の人口密度は40%以下。席が無いわけじゃない。
この時点で、女は不審人物になった。店内は空いているのに相席を求めてきた───声をかけてきたその意図は?
「ツレナイなっ。こんな若いコがナンパしてるのにサァ、もぉ!」
素直な怒気を含んだテンションの高い声を聞いて、司は少しの安堵と大きな失望を感じた。安堵というのは、少なくとも害意があるわけではなさそうだということ。失望というのは、知的な駆け引き(ゲーム)を期待できる相手ではなさそうだということだ。
(なんだ、ただの馴れ馴れしい人か)
「おいくつなんですか?」
「乙女にトシ訊くなんて失礼だよ」
と、窘められて、司は苦笑する。
(さて、どうやって追い払おうか)
ただのナンパなら長居はして欲しくない。
「僕の彼女はもっと若いよ」
あはっと女は笑う。
「10歳くらい? …じゃなくて、もう11歳になったんだっけ」
司は笑わなかった。わずかに身構える。
「───僕に用があるなら、先に名乗って欲しいな」
ただの変人だなんてとんでもない。この女は司を知っていて、狙って声を掛けてきたのだ。(誰だ?)司が言った「彼女」のことも知っている。
「あ。アナタ、目が見えないんだ」
「!」
司はさらに驚いた。女は司の目のことを知らなくて、たった今気が付いたのだ。そのことに驚いた。
「と、ごめんなさい。アタシ、クチが悪くて。いつも怒られてるんだ。さっきみたいな言い方、ヤだった? 目が不自由? 視力が弱い?」
「…どれも、少なくとも差別用語じゃないけど」
司が指摘したいのはそんなことじゃない。「どうしてわかったの?」
「ん? なにが?」
「目が見えないって」
さっきまで読んでいた点字本は閉じているし、杖もしまってある。盲目であるような素振りはしてないはずだ。どこか自分に落ち度が? そんなことは無いはずだ。
女が事前に知っていたということはない。先ほどの台詞からそれは読みとれた。
「あ、それ? 答えはカンタン」ふふふ、と女は笑った。「アタシの左腕ね、んーと、えっと、薬師如来の刺青があるんだ。大抵のヒトはビックリするから───…プッ、あははすげー、刺青だって」
自分の台詞に自分で笑っている。その笑いが収まるまで少し時間が必要だった。
つまるところ、刺青云々は嘘なのだろう。
盲目であることを見抜かれた理由を問いたかったのに、答えを曖昧にされて司は面白くない。
すとん、と女は図々しくも司の向かいに腰を下ろした。じゃらじゃら、と、キーホルダーかアクセサリーが鳴る音がした。
「あの子の連絡先、教えて?」
初めからそれが言いたくて、近寄ってきたのだろうか。
「あの子って?」
「アナタの彼女。この間、ここで一緒にいるの、見た」
「知り合い?」
「アタシのこと、薫が忘れてなければ」
そこまで聞いて、司は脱力感と疲弊感を覚えた。
「そういう名前の人物を、僕は知らない」
単なる人違いか。しかし女は退かなかった。それどころか、
「うあっ、えぇえ? じゃあ、今は何て名乗ってる?」
とまで言ってくる。思いこみが激しいのではないだろうか。
「誰かと勘違いじゃない?」
「ずるい、教えてくれたっていーじゃん!」
「人違いだって認めたら?」
司は考えていた。
目の前の女が言う「薫」と、司が今待ち合わせをしている「彼女」が、同一である可能性を。
その可能性が高いのか低いのかさえ判らない。
もし全くの勘違いなら、この勘違い女を説得して追い返すための労力が必要になる。それを思うと今から疲れた。
もし同一人物だとしても連絡先を教えるつもりはさらさら無い。ただ「彼女」に、この女を会わせるほうがいいのか、会わせないほうがいいのかという疑問はある。
「彼女」は、それを望むだろうか。
「薫の本名、アタシ、知らないの!」
その台詞を聞かなくても、司は気付いていた。もし同一人物なら、「彼女」は、以前(もしくは現在)、偽名を使っていた(使っている)ことになる。ともかく、同一人物かどうか決定しないことには話は進まない。
(そろそろ別の手がかりを口走ってくれないかな)
こちらから不用意に喋ることは無いのだから。
「あ、でも…あのヒトの娘だから、“芳野(よしの)”!」
どうだ! と自信満々で言われた。
(また別の名前が出た)
これは勘違いのほうかな、と司は嘆息する。
「…っと、それは名前だっけ。えーとえーと…」
と、また悩み始める。
司は呆れた溜息を吐いたついでに、冷めたコーヒーを口に運んだ。
「わかった!!」
女が叫ぶ。今度は何だろう。
「“島田”」
* * *
待ち合わせのファミレスが見えた交差点で、三佳は足を止めた。
車道の向こう側、歩道に沿う窓際の席に座る司の姿が見えたからだ。でもそれだけじゃない。
司の向かいに若い女が座っていた。若い、と言っても三佳のような子供ではなく、10代後半、司と同世代の女だ。
(誰…?)
理由のわからない焦燥感が胸を締め付けた。
早足で横断歩道を渡ると、笑いながら司に話しかける女の顔が見えてきた。
腰までのびたウェーブの茶髪、白地に赤い花柄のワンピースを着ている。化粧をしているが、両肘を付いて手のひらに顔をのせて、両足をぶらぶらさせている仕草はどこか子供っぽい。左腕に十個近いリングを重ねたブレスレットを付けていた。その左腕を見て、瞠る。そしてまた顔を見て、三佳は後頭部を殴られるような衝撃に思わず声をあげた。
「ぁ───」
* * *
「そうそう、シマダなんとか。…あれ? シカダだっけ?」
司がどう返すべきか迷うより先に、女はひとりで勝手に考え込み始めたので取り繕う手間が減った。島田と聞いて一瞬は息を止めたものの、司はすでに平静を取り戻している。(さて、どうするか)と一息吐いた、そのとき。
「めぐみッ!?」
店中に響き渡った大声に、司は口を開けてしまうくらい驚いた。突然の大きな声にびっくりしたわけじゃない、彼女───三佳が、公衆の場で叫ぶなんて通常では考えられなかったからだ。
「うわぁ、薫だっ」
と、司の前に座る女が、感嘆詞をつけた割にのんびりした声で言う。それから、三佳が駆け寄ってくる足音。
三佳はテーブルの端を掴むなり言った。
「恵…? なんでここに? …どうして司と?」
「ナンパしてた」
「司っ?」
「ナンパされてた」
「何か聞いたのかっ?」
意外なほど鋭い、切羽詰まったような声。その声から必死さが伝わって、どうやら自分に聞かれたくないことをこの女は知っているのだろうと理解する。
「聞いてないよ、何も」
宥めるようにやわらかく笑ってみせると、三佳は我に返ったようで、
「───ごめん」
と小さく呟いた。
向かいの席から不満げな声が割り込む。
「薫ぅ〜。ヒサビサに会ったのにアイサツもナシってなんだ! ぷん!」
「恵…」
三佳の声は古い知人と再会した喜びや驚きよりも戸惑いを表していた。
「3年ぶりかな。おひさしぶり」
「…本当に、久しぶり───って、おい。だから、どうして司と?」
「さっき言ったじゃん。ナンパ」
「ふざけるな」
「やだ」
よくわからないが、説明するのが面倒くさいとういことだろう。
「ね、薫」
「その名前で呼ぶな」
「だってアタシ、薫の本名、知らないもん。矢矧(やはぎ)も教えてくれなかったし」
「私は」
「あ、本名知らなくても不自由無い。それよりこっちのヒトにアイサツしていい?」
こっちのヒト、というのはやはり自分のことだろう、司は表情をつくってみせた。
それにしても今の会話から、この2人が仲が良いのか悪いのか判断付かない。そして三佳がこの再会を望んでいたのか望んでいなかったのか、も。それが読めないことには司はどう振る舞っていいのか判らないのだが。
「恵でっす。薫の昔のどーりょー」
「七瀬司です」
「薫のカレシさんだよネ」
「おい、恵…」
三佳はらしくなく口が重い。恵と司の会話をハラハラしながら聞いているようだ。おそらく、恵が余計なことを言わないか警戒していて、けれど三佳自身も司がいるせいでうかつに喋れないのだろう。
席を外そうか? と言いかけたとき、恵が先に声を発した。
「ねぇ、ちょっと薫貸してよ」
「ちゃんと、返してくれるのなら」
「あはは。ノシ付けてね。───じゃ、行こっか、薫」
「え? あ、…うん」
「僕が出るよ?」
「あ、ううん。アタシ、外、出たいから」
そう言うと恵は席を立つ。じゃらん、とまた金属音がした。
「外、歩きながら話そう?」
≪2/4≫
キ/薬姫/ティル