/ノエル/お題180
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*  *  *

 少し辺りに目をやれば、ジンの部下と思われる黒服が数人、他の客に紛れてこちらを窺っている。そしてやはりジンの姓(なまえ)に惹かれた客たちも数人、興味深そうに視線を向けていた。
 ハルはやれやれと溜め息を吐く。
 このやたらと目立つ男の周辺で騒ぎを起こせば、耳や鼻の利く人間が嗅ぎ付けてなにを触れ回るか分からない。厄介は避けたいのに。
 ハルは表向きは記憶喪失ということになっている。初めて会ったときハル自身がそう説明した。これから先もそれを否定する予定はなかった。
 過去と再会せずに済むならそれが一番面倒がない、むしろそれを望んでいた。もしかしたらいつかは、過去の誰かと会うこともあるかもしれない、とは考えていたけれど。
 だから、それがこうして現実になったとしても、ハルは驚かなかった。しかし。
(よりによって…)
 運が悪い。
 こうして出会ってしまった「誰か」は、しらを切ったり無視したり、その他ハルが得意とする小細工が通用する相手ではなかったからだ。
 今日、ハルはジンに対してまだなにも言ってない、言葉が解らない、人違いだと突き放して去りたかった。
 けれどジンはもう、確信をもって、ハルにハルの国の言葉を投げつけてくる。にこにことしか表現できない表情をこちらに向けて。
『変わった娘と一緒にいるね。ああいうのが好みだったとは驚きだ』
「……」
『ずいぶんハルくんに懐いてるみたいだったし。微笑ましいなぁ』
「……」
『あぁ、ノエルを怒らせてまで僕から逃げなかったのは正解。だって口止めしておかなかったら、あちこちで「ハルくんに会ったよ〜」って言い触らすかもしれないからねっ』
「……」
『ところで、昔、ハルくんと僕がよく顔を合わせていたのもこういう社交の場でだったよね。ハルくんはまだ10代(ティーン)でお父さんと一緒で。いや〜、ほんと懐かしいなぁ!』
「……さっきの電話はあんたの部下の仕業か」
 ジンの独り言を無視してハルは言った。
 さっき、ハルはスタッフに声を掛けられた。宿泊しているホテルから連絡が入っていると耳打ちされ、ノエルを残してスタッフが案内するフロントで電話を取った。すると、受話器から聞こえてくるのは機械的な音のみ、通話は切れていた。スタッフに言えば平謝りするばかり、念のためホテルに掛け直してみると特に連絡事項は無い、もちろん電話もしてないという。そしてノエルの元に戻ればジンがいた。あの電話が、ノエルとハルを引き離す意図があったのは明白だった。
『えー? なに〜? 英語じゃわからないな〜』
「ノエルになに言ったんだ」
『だから、わからないって。ノリ悪いなぁ』
 らちが明かない。この時点でハルのほうは大声を出したいくらいだが、それが何の効果も無いことはジンの余裕を見れば明らか。
 ジンはハルにその言語を喋らせたいのだ。折れない限り一向に話は進展しないだろう。
『ノエルになに言ったんだ、晋(ジン)さん』
 ハルが母国語を苦々しく口にすると、ジンはしてやったりと笑った。
『あっはは。そういえばハルくん、うちの弟妹のことは数字で呼ぶくせに、僕のことは名前で呼んでくれてたよね。嬉しいなぁ』
 わざとらしい、とハルは舌を打つ。
 ジンに対する態度に敬意を付け忘れると、ジンの弟妹(末っ子は除く)から総攻撃を受けるはめになる。それにいちいち応戦するのが煩わしくてハルは屈したのだ。その経緯を本人も知っているはず。
『おっと、せっかく訊いてくれたんだから答えなきゃね。ノエルにはなにも言ってない、安心していいぞっ』
『それはどうも』
『あ、でもひとつだけ教えたかな。どこかの国ではハルくんの名前の季節に、地味な花が咲くんだよって』
『…おい』
『花の名前は言ってない』
『…』
『あの様子じゃ、ノエルはハルくんの身元を知らないのかな』
『あんたには関係ないよ』
『───ハルくん』
 ジンは相変わらずの笑顔のまま声だけを硬くした。その声だけでばっさりと流れを切った。
『あんたっていう二人称で呼ぶのやめてくれるかな? ハルくんが以前の名前と立場を棄てたからといって、ハルくんと僕が対等になったわけじゃない。敬語を使わないのは許すとしても、あまり礼儀を欠いた態度は僕の姓(なまえ)を軽んじられているようで不愉快だ』
『……』
 そういえばこういう人だった、とハルは思い出した。
 初めて会ったときのジンは、今日よりずっと穏やかな笑顔と今日よりずっと少ない口数で、「絵に描いたような立派な」青年であり、それぞれクセのある弟妹たちを従えていた。仲が良いとは思えない弟妹たちもジンの言葉には逆らえない。畏れではなく、彼が持つ「長男」という肩書きとそこにある人格に忠誠心を持っているかのようだった。家名意識が強いのだ。
 といっても一歩外に出れば、今日のような口数で周囲を振り回していたけど。その変わり身の鮮やかさには嫌味すら返せなかったほどだ。
 それを言うと、ジンは口調を戻して笑う。
『こっちが地なんだよ。家の中ではしょうがないんだ。あの一癖も二癖もある弟妹を押さえなきゃいけないのと、それ以上にあの子らの母親を黙らせないといけないからね。大きすぎる組織をまとめているのに、中枢(うち)で内紛なんか起きたら統率が執れなくなる。そのためには身内であっても、足元を掬おうものなら蹴飛ばして返し、下克上を企てようなら完膚無きまでに叩き潰す。僕は万人に認められて、文句の付けようがない跡取りとして君臨してなきゃいけないわけさっ』
『……ずいぶん殺伐とした家庭環境だな』
『そう! 稼業のある長男は誰しもエキサイティングな立場なわけだよ! 君のところもそうだったじゃないか』
『…っ』
 まさか振られるとは思っていなかった話題にハルは表情を崩した。しかもジンが言外に匂わせたのは非公式な事件だ。どこから知り得たのだろう。
『晋さんのところとは、…事情が違う』
 しかしここで掘り返す必要もないことだ。ハルが収束方向へ言葉を流すと、ジンはにやにやと笑っていた。

『で? 僕はハルくんに会ったことを黙っていたほうがいいのかな』
 からかうだけからかって気が済んだのか、ジンがそう切り出したとき、ハルは重い疲労を抱えていた。
『……そうしてくれ』
『ハルくんもそうだけど、僕も長男なんだよね』
『…?』
 唐突になんだ、とハルが顔を上げると、ジンはやっぱりにこにこ笑ったままこちらを向いていた。
『生まれたときから今の地位を約束されていたし、僕の家はこんなだから、それを守っていく重い責任もある。僕だけじゃない、僕の弟妹は例外なく、その姓(な)を持つことの誇りと重責を知っている。生まれたときから縛られ、その恩恵を与えられ、決して傷つけてはならないものだ。僕という存在から切り離せるものではないし、僕が抱えているもののなかで一番重いものだろう』
 ジンは笑みを消して、ハルに言った。
『だから僕は、自分の名を気安く捨てられる人間は最低だと思う』
『……』
『君の家とは付き合っていかなきゃいけないけど、君が戻るつもりがないならハルくんと付き合う意味も暇もない。───いいよ、黙っててあげる』
『…それはどうも』
『といっても』
 と、ジンは肩をすくめておどけた。
『君の後釜に入った男もその最低の人間なんだよなぁ───』[ほんと、君ら兄弟はよく似てるよね]
『…?』
 後半は聞き取れなかった。発音で、ジンの国の言葉だと判ったが意味は解らなかった。訊き返そうとしたが、それより早くジンが手を挙げてお開きを示す。
『ノエルによろしく。今度会ったらデートしようって伝えておいてくれ』
『晋(ジン)さん、結婚してるだろうが』
『若くてかわいい娘と出歩いちゃいけない理由にはならない』
 あの親にしてこの息子、血筋だな、とハルは思う。声には出さない。侮辱として受け取られるだろうから。
『誰かの妹のせいで、うちの末妹が家出してるんだ。若い娘とふれあう機会がないんだよ! ちょっとは責任感じて融通してくれたっていいじゃないか!』
『お断りだ』
 ジンの末妹は確か中学生、いやもう高校生だろうか。
『それに、ノエルはああみえて俺より年上だよ』
「は…?」
 蓮晋一(レンジンイー)は目を見開き、顎を落とした。


*  *  *


 パーティはまだ続行中。ロビーはしんとして人気(ひとけ)が無い。時計の音が聞こえてきそうな静かな空間で、ノエルとマーサは丸テーブルに座っていた。
 ノエルは化粧が崩れるのも気にせず、テーブルに伏している。マーサは一度注意したが、ノエルは聞かなかったので諦めた。暴れたせいで髪もぐしゃぐしゃになっている。どうせもう、会場に戻ることはないし、構わないだろう。
「いきさつは解ったけど…」
 伏したままのノエルに声をかける。
「あの人がハルを連れて帰るって言ってるわけじゃないんでしょう? ハルはすぐ行くって言ったんだから、素直に待ってたら?」
 は〜ぁ、とマーサは息を吐く。もう冷めてしまった紅茶を口に運んだ。ノエルのカップは一口も付けられていないままだ。
 実際、ノエルは余計な心配のしすぎだとマーサは思う。
「ノエルだって、ハルの記憶喪失は嘘だって気付いてるんでしょう?」
「…っ」
「事情は知りたくもないけど、ハルが自分の立場を棄ててノエルといることを選んでるならそれでいいじゃない」
「…ちがうよ」
「え?」
「だってハルはまだ未練があるもん。なにか、捜してるもん」
 伏したまま籠もった声でノエルは不満げに呟く。
 けれど遠くから足音が近づいてくると、ノエルは勢いよく立ち上がった。
「ハルっ!」
 静かなロビーにノエルの声はよく響いた。歩いてくるハルに向かって駆け出し、そのまま抱きつく。というより単にぶつかりにいったように見えた。
 その様子を見て、マーサは溜め息を吐く。
「待たせたな。帰るか?  マーサはまだ顔売りたいなら残ってていいぞ」
「そんなことより、ハル、蓮家と繋がりがあったの?」
「あったとしても、マーサの人脈作りの役には立たないな」
「ハナから期待してないわよっ」
「どうだか」
「ハルっ!」
 いつもの憎まれ口の応酬を中断させたのはノエルだ。ハルにしがみついたまま、強い声をあげた。
 ハルがその頭を撫でる。
「…なに?」
「これからも一緒にいてくれる?」
 ハルは、思い掛けないことを訊かれたという表情で息を止めた。そこには「なにをいまさら」という思いが読みとれて、マーサは(勝手にやってなさい)ノエルとハル、両方に呆れる。
 マーサは肩をすくめて、片手を振って、なにも言わずに会場の方へ戻って行った。

「邪魔なら離れてるけど」
「そうじゃないっ!」
 噛みつくような勢いで顔を上げ、ノエルはハルを睨み付けた。
「邪魔とか離れててとか、あたし言ってないじゃん! どうしてハルってそう、自分にも他人にも逃げ道つくるような言い方するの?」
「先に逃げ道を作る質問をしたのはノエルのほうだよ」
「…っ」
「…なにを不安がってるか知らないけど、俺は今の生活から離れる気はないよ」
「…ほんとに?」
「あぁ」
「うん。…じゃあ、いい」
 なにがいいのか、やはりハルには判らなかったがノエルの気が済んだならそれでいい。
「帰るか?」
「うん!」
 自然に手が繋がれる。
「ケーキ食べていこっ」
「ちょっと待て。さっきまで食べていたものは一体なんだ」
「まだ食べたいのたくさんあったもん。ホテルの近くにも、目を付けてるお店があるんだ、そこに行きたいの!」
「……」
 ハルは諦めの溜め息を吐き、強引に手を引くノエルに、大人しく引きずられていった。


END

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