キ/ノエル/お題180
≪1/3≫
【スウィート】
「……うわぁーお」
男は間の抜けた声を発した。
さして期待も感動も無く、いつものように数人の部下に囲まれて会場入りしたときのことである。
そんな男の声をかき消すように、男の周囲で下品にならない程度のざわめきが起きた。それもやっぱりいつものことで、男は男が持つ肩書きに擦り寄ってくる他の客たちに囲まれた。だが、そのことに驚いたわけではない。
カクテル・ビュッフェ・パーティなので食べ物の匂いが鼻に付く。取り立てて豪奢ではないが趣のある広間に、カナッペやオードブルが並べられている。そのテーブルの向こう側、会場の奥。多くの人たちに紛れ、顔を寄せ合って声を交わし合う男女。間の抜けた声を発した理由。
* * *
ノエルはショーケースの中に並ぶ宝石のようなそれらを前に目を輝かせていた。
「ステキ……っ」
胸の前で組んだ腕が小さく震えている。
ノエルの前には、照明を受けてキラキラと光る色とりどりのケーキが燦然と整然と並んでいた。イブニングドレスを着ているにもかかわらずノエルは腰を落として、恍惚の表情でショーケースに張り付いている。周囲から奇異なものを見る視線を向けられてもノエルは気にしない。というより解っていない。
このようなパーティでは、通常、食べ物はテーブルに並べられ、飲み物はスタッフが運んでくるものを選ぶ。今日はデザートだけがショーケースに収められていた。スポンジやクリームの乾燥を防ぐためだ。ノエルはスタッフに声をかけて、物色していたケーキのうちいくつかを取ってもらった。
「あと、こっちのチョコのやつも!」
「ベリーのも!」
「おいしい!」
「うわ〜ん、しあわせ〜」
ノエルは言葉どおりの表情でフォークを握りしめる。
その率直な言葉と態度に、スタッフは眉を下げて笑い、さきほどの周囲の人たちも顔をゆるませて苦笑していた。
あまりこういう場が好きではないノエルも今日は上機嫌だった。
どこから入手したのか、マーサは今日のパーティの招待状をマジシャンのように指先で広げ、「営業活動よ」と言ってノエルを連れ出した。よくわからないまま店(ショップ)に連れて行かれ、黒のイブニングドレスを着せられ顔と髪をメイクされて車に乗せられた。その途中、ノエルは駄々をこねたのだが、マーサはそんなのお見通しのようで別経路でハルを呼び出していた。かくして大人しくなったノエルとうんざりしているハルを連れ、自身もドレスアップしたマーサは嬉々としてこの会場に乗り込んだというわけだった。
その後、意外にも、ノエルが挨拶させられたのは主催者だけで、あとは適当にしていればいいとマーサから許可が出た。いつもなら延々と挨拶回りが始まるところだ。同業者が集まるものとは違い、今日の顔ぶれは多種多様な人たちが集まっているらしい。当然、ノエルの顔や肩書きは誰も知らないので、正装はやっぱり肩がこるけど、気を張らずに行動できることが嬉しかった。
マーサはと言えば、相変わらずたくさんの人たちと談笑している。営業活動なんて言ってたけど、マーサ自身のコネを作りたかったのかもしれない(あちこちにいる恋人も含め、マーサは人脈作りに熱心だ)。
ハルはさっきまで一緒にいたけど、スタッフに呼び出されて行ってしまった。ノエルたちが宿泊しているホテルから連絡が入ったとか。
(早く戻ってこないかな〜)
といっても、ハルはケーキ(甘いお菓子)を食べられない。だからこの幸せを分かち合うことはできないのだけど。それでも伝えたいのに。
もう一口。ノエルが生クリームとラズベリーをいっしょに口に入れたとき、ざわめきが起こり、それは来た。
「やぁやぁやぁ! かわいいお嬢さんがいるねっ、こんにちはっ」
背後からクラッカーを当てられたのかとノエルは思った。それくらいの衝撃を背中に浴びて、一歩のめってしまった。
「……?」
フォークをくわえたまま振り返る。するとそこには声の衝撃波を放った当人と思われる人物、白いスーツの男が立ち、背中で手を組んで、細い目でにこにこと笑っていた。どうやらノエルに声を掛けたようだった。
(あ、ハルと同じ)
男の顔に見覚えはない。ただノエルが咄嗟に思ったことは、男の肌と髪と瞳の色がハルと同じだということだった。
年齢はノエルよりは上に見える。30代くらいだろうか。細めの体格と人懐っこい笑顔が、たぶん、余計に若く見せているのだろうけど。
「……あの? …えっと、こんにちは」
口の中にあったケーキを飲み下してから、とりあえず返してみる。
「うん、声もかわいいっ」
男は両手を広げ、はつらつとした様子でまた笑う。歩を進め、ノエルのすぐそばまでやってきた。周囲にいた他の人たちは男を避けるように道を開けたのだが、ノエルはそこまで気づかない。
「やぁ、失礼なことを訊くようだけど、お嬢さんはおひとりかな?」
ノエルの目の前で、男は大きな動作で首を傾げる。声はびっくりするほど太く大きいけれど不思議と威圧感はなかった。癖のない英語。ノエルは男がかなり上等なスーツを着ていることに気付いた。
パーティで男性に声をかけられることはよくあるが(それが礼儀だから)、目の前の男には形式ばった様子がまるでなく、たぶんストリートストールの前で会っても同じように声を掛けるんだろうな、とノエルは思った。
その気安い雰囲気にノエルは気を楽にして首を横に振る。
「ううん、今は外してるけど、ひとりじゃないよ」
「そっか。こんな場で女性を一人にするとはダメな男だな。どうだろう、お嬢さんの彼が来るまで少しお話しても構わないだろうか」
「どうして?」
「お嬢さんの彼の代わりに虫除けになろうと思って」
「虫? 虫なんていないよ?」
キョロキョロと自分の体を見回したノエルに、男はうーんと唸って苦笑した。大きく手を振り上げこめかみを掻く。
「いや、そうじゃなくてね。うん、僕がお嬢さんとお話してみたいんだ」
「いいよ、どんなお話?」
「そうだな、例えばそのケーキについて、なんてどう?」
「これ?」
「そう。おいしそうだね。僕もひとつもらおうかな」
男は慣れた挙動で軽く手を挙げてスタッフを呼んだ。ノエルは慌ててショーケースの中を指し示す。
「あのね、これがおすすめ」
「どれ? チーズのやつ?」
ノエルと並んで男もショーケースを熱心に覗き込んだ。
「そっちはお酒が強いの。あ、でもそういうほうが好き? こっち、イチゴのもおいしいよ」
「せっかくのおすすめだからイチゴのほうにしよう! それを頼む」
「あたしも!」
「本当だ! おいしいね」
「でしょでしょ!?」
「甘いものって不思議だねぇ! 幸せな気持ちになるよ」
「そうなの! とくにケーキは並んでるのを見るだけでも幸せ!」
「わかるわかる!」
2人は興奮して熱の入った言葉で盛り上がる。取り皿を持っていなかったら飛び跳ねていたかもしれない。
「そうだ、お名前を伺っても良いかな」
「ノエル!」
普通は苗字を答えるところだがノエルは深く考えずいつものように答えた。男はにこやかに笑い、大きく頷くと、ノエルに合わせて名乗った。
「僕はジンだ。よろしく、ノエル」
「僕はね、今日やっとこっちでの仕事が終わって、これが終わったら家に帰るんだ。そうだ! このホテルのケーキを買っていこうかな」
さすがにパーティ(ここ)でテイクアウトプリーズなんて言えないからねっ、とジンは耳打ちして、ノエルを笑わせた。
「おうちの人におみやげ?」
「そうだとも!」
「奥さま?」
「うん、それと一緒に住んでいる弟妹たちに。今は一番下の妹が家を出ているけどね。他にも結婚したり仕事で飛び回ってるのもいるけど、その家族がみんな近所に住んでるんだよ。ほとんど一緒に暮らしているようなもので、かなりの大所帯なんだ、ノエルが来たら絶対びっくりするぞ!」
「あはっ。いいね。にぎやかで、楽しそう」
「うん、僕にとっては自慢の家族なんだ!」
「本当にいいね! ステキだね!」
「ノエルは?」
よくぞ訊いてくれました! とばかりにノエルは胸を張った。
「あたしの家族はいつも一緒だよ! マーサとハル!」
「どんな人たち? よかったら教えてよ」
「マーサはあそこにいるよ」
「ん? どの人?」
「柱のところでお話してる、ピンクのドレスの」
「おぉ! あのマダムかっ」
「一応、独身」
「おっと失礼」
「マーサはね、口煩くて怒ってばっかりで、あたしはいつも叱られてるんだけど、でもそれってあたしのこと気に掛けてくれてるってことでしょ? たまに大っ嫌いになるときもあるけど、やっぱり、大好きな人!」
「うん。いいね」
「ありがと!」
「うん!」
「もう一人、ハルはね、…ん〜、なんでか勘違いされやすいんだけど……、そりゃ仏頂面だし愛想も無いし酷いことも言うしケンカになったら容赦ないし自分にも他人にも社会にも厳しいから他のヒトとよく衝突するし」
「えーと」
「でも、やさしいよ」
「ふぅん、───そういう男なんだ」
「ジン?」
ノエルはジンの顔を覗き込んだ。
突然、ジンの声のトーンが落ちたような気がして。
ノエルからの視線に応えてジンはにっこりと笑った。その笑顔はさっきまでと少し違う違和感があって、ノエルは笑い返すことができなかった。
「ノエルの彼、ハルっていうんだ?」
「…うん」
無意識のうちに一歩離れた。わからない。見えない気配に取り込まれそうな感覚。
「いつから付き合ってるの?」
「───」
どうしてそんなこと訊くの? 聞き返すことはできない。
ジンの口調にはさっきまでは無かった確かな威圧感があった。
「…ずっと前、だよ」
「長い付き合いなのかぁ」
「そう」
ふぃ、と視線が逸れた。奇妙な開放感があって、ノエルは息を吐く。そこで初めて緊張していたことに気づいた。
「ハル…、ハルね。ふぅん、意外と捻りがないなぁ」
「ジン?」
「おっと失礼」
ジンはノエルのほうに向き直って、またにっこりと笑った。どうしてか怖くなって、逃げ出したくなった。
「知ってる? 僕のおとなりの国ではね、ハルは春(Springtime)という意味なんだ。ちょうどその季節にその国で一番愛されている花が咲くんだよ。僕は地味な花だと思うんだけどね。ノエルは見たことあるかい?」
≪1/3≫
キ/ノエル/お題180