/海還日/序話
≪序話

 年表が空白になった数年間があった。
 後に、その時代は「THE VOID(ボイド)」と呼ばれることになる。


 それは突然に訪れた。
 公的に残された記録によると、一人目の発病者はブラジル在住のアメリカ人男性である。
 二〇二一年七月三日。
 南米の小さな町の一人が倒れた。
 急激な発熱、下痢と嘔吐、肺炎、気管不全。
 町の医師はインフルエンザと診断。
 男は発病後五日で意識不明。
 二十日後に死亡。
 さらに七日後、世界四ヶ国十七ヵ所で同様の症例が確認される。八日目にはWHO(世界保健機関)への報告件数は三桁にのぼった。
 ニュースを見て、それを他人事だと思えたのは一週間だけだった。
 誰もが懸念しながら、誰も口にしなかった。
 ほら、そこに迫っている。背中に気配を感じる。
 こんなに嫌な、「嫌な予感」ははじめて。
 脅威の罹患率。絶望的な致死率。

 名前を付ける暇も与えない程の速さで、そのウィルスは全世界的に繁殖を始めたのだ。
 はじめは抵抗力のない老人と子供。ジャンクフード生活で栄養が偏っている現代人、発展途上国でろくに食べ物を与えられない幼子は抵抗策もないまま死に至った。
 ウィルスを解析しようと奔走する学者も例外なく冒され、不安が広まる国民をまとめるべき国の要人も次々と倒れた。
 病院はパンクし、自治体は対策を迫られたがどうすることもできない。
 世界は混乱した。


 各国は感染経路である空海陸の港を閉鎖した。しかしすぐに国内で感染者が発見される。
 一人見つかると発病者は爆発的に増加し収集が付かなくなった。
 同様に、感染者の隔離は無駄でしかなかった。
 言葉通り、「手遅れ」なのだから。

 国連機関が非常事態宣言を発表したのは、アメリカ人が倒れてから4ヵ月後だった。

 ニュースは状況しか語らなかった。原因も、解析も、解決策も、何も教えてはくれない。インターネット上で流れる情報はデマか宗教めいた啓示だけ。
 感染者の遺体はすぐに処理された。感染元を断つ意味も勿論あったが、何よりも放っておけばすぐに死体の山ができてしまうからだ。それを視た非感染者から不要な絶望が生まれないよう、遺体は即処理するように政府は教えていた。



 そして、人々は震撼する。
 少なくなっていることに気付き始めるのは、半年後だった。
 それは恐怖だった。
 気のせいなどではない。
 減っているのだ。───ヒトが。

 人類が初めて体験した恐怖だった。


 社会基盤の崩壊、という言葉で済むだろうか。
 産業や流通は完全にストップし、物資不足のために各地で暴動が起きた。そして何よりもウィルス感染に恐怖した。毎日そんな気持ちと戦わなければならなかった。
 一年も経った頃、テレビは何も映さなくなった。そのことについて騒ぐものはいなかった。この状況を理解している証拠だ。それでも、遠くで起こる出来事を知ることができたのは、通信衛星と各地の電波塔がどうにか稼働していたからである。けれど半年もすると、通信衛星は何も応えなくなった。
 当然、仕事どころではない。勉学どころではない。
 人々は感染を恐れ家に篭り、食料調達のために傷つけあった。
 所々で火災が起こった。死体を焼いたためだ。
 有機物が焼けた匂いと、腐臭。最低限の環境さえ守れない。
 政治家も医者もウィルス研究者も例外なく感染した。国民を守るべき強者はいなかった。
 明日は見ないかもしれない隣人と日々1日を静かに迎えるしかない。
 夜が明けるのを待ちながら。


 三年後。
 正確性に欠けるが世界規模の調査が行われ、国連発行の人口推移白書が公開された。
 二〇二四年。
 このウィルスによる死亡者は確認されただけでも四一憶八四0一万三八七二人。
 この数字の意味が分かるだろうか。
 たった三年。
 たった三年間で、七〇億の世界人口は三分の二に激減したのだ。

 さらに二年後。
 二〇二六年。
 国連とWHOはウィルスの死滅を宣言。
 もう発病を恐れることは無い。

 しかし。
 二十世紀最大の戦争もそうであったように、終戦宣言をしたからと言って物事が収まるわけではなかった。
 
 極東・日本の行政機関の一つ、厚生省が提出した 年間死亡原因推移の例がある。内容は左記の通り。

 二〇二一〜二〇二三年 調査不能
 二〇二四年 ウィルスによる病死
 二〇二五年 餓死

 暴動や混乱が起きた。これは当然のことだろう。
 必死で生き残らなければならなかった。各地で自衛団ができた。
 圧倒的な食料不足で餓死する者も多かった。
 しかし最も顕著だったのは、その、喪失感。
 身近な死の悲しみより先に、床に転がる屍の上に立ち、人々は自分たちが生きていることを知った。
 生き残ったことを知った。
 生と死があることを実感した。
 死した者と時間を共有できないことを知った。
 優しい風に吹かれ、広大な自然を見渡したとき、胸の痛みを知る。
 苦しい、この痛みを何と呼ぶのだろう。
 その痛みに耐えることができず、自殺する者も、いた。

 それでも、ヒトは生きる為に努力した。
 他に目的があったわけではない。
 ただ、生きる為に、ヒトはあの絶望から這い出ようとした。
 神に見放された人類のその行為が愚かしいことなのかはわからない。
 しかしその努力こそが、次世代へと生命を繋ぐ根元となる。
 希望。未来。そんな言葉を、胸の中に生まれさせていた。

 二〇二七年。
 N.Y.サミット開催。
 某国が提出した草案に約150ヶ国が一ヶ月かけて議論を交わした。
 ───結果。
 国連理事国及び非理事国は連名で宣言。
 統治作用のうち司法・立法を放棄し、国家機密と非公開情報を含むこれらすべての権限を国連直下機関に委ねる、と。
 つまり、世界は「国」という単位を廃止した。
 もちろん、初めからうまくいくはずがない。ほとんどの戦闘能力が削がれたと言っても、文化や思想の違いによる小競り合いは各地で起こるだろう。けれどそれも、国単位の勢力争いに比べればましだ。
 文化保持のために行政は地方に任せ、基本的な法律のみ制定し、これに絶対の力を持たせた。
 食料を確保すること。それを流通させること。住民登録を行い管理すること。などを、いくつかのマニュアルとともに公布した。

 国という制度ができて数千年。史上初の世界統一国家が誕生した。
 つまり人類は、国という制度さえ維持できなくなったのだ。

 世界は壊れた。
 なにがいけなかった?
 ほんの少しの歪みが、世界を死に至らしめた。
 それはあまりにも唐突で、突然で、ちから弱き生物を恐怖に陥れた。
 まるで、神による間引きのように。
 試された人類はあまりにも無力に、振られた笊から落ちる。落ちた底にはなにもない。
 金網にしがみつくヒトにはなにも解からない。
 なにが笊を振らせたのか。
 なにが、神の指先を動かさせたのか。
 それはほんの少しの歪み。

 ───バグ・ウィルス。
 虫風邪、と、名付けられた。

 それは人類史上、最も多くの命を奪ったもの。

≪序話
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