/海還日/一章
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〇三.

 AILAの研究棟は学校の風景とあまり変わりなかった。
 吹き抜けに面した廊下を行く人通りはかなり多い。通り過ぎる職員は白衣だったり私服だったり様々。ときどき青い作業着の人もいた。共通してIDを付けている。
 旭の後ろを歩くリンもまた、周囲から視線を受けていた。あきらかに部外者とわかるリクルートスーツを着ているからだろう。
 前を行く旭は橙色のワンピースに白のカーディガン。足元はパンプス。地味だが旭が颯爽と歩く姿はキャリアウーマンの鋭利さを感じさせた。
「AILAのなかには大きくわけて2つの部署があるの、管理部と技術部ね。それぞれ1部から3部、さらにその下に1課から3課まで。Kというのは管理部のことよ、K1(ケーイチ)は管理1部の通称。管理1部1課のことをK11(ケーイチイチ)と言うわ。ケーワンワン、ケーイレブン、ケージュウイチ、呼びかたはいろいろ。同じように技術部はG」
 ケーイチとは何か、というリンの質問に旭は丁寧に答えてくれた。
「美沙緒さんは?」
「私は技術2部1課、G21の室長」
「えっ、室長!?」
 リンは旭の顔をまじまじと見てしまう。どう見ても20代だ。
「…って、アレ? 課なのに、室長なんですか?」
「やっぱり変よね。でも慣習的にそうなの」
 世界中から科学者が集まるAILA。そのAILAでこんな若い課長職がいることがどうしても信じられずにリンは旭のIDを確認してしまう。IDには写真が貼られ、名前、性別、年齢、所属、役職が記されている。旭は28歳。
「もともとG1とG2はA博士が仕切っていたから、室長といっても、A博士が亡くなられたときのゴタゴタでやっつけ的に就任したようなものなの」
 G1とG2、合わせて6つの課。アルティマーが一人でまとめていた部署が、氏死後に6つに分散したことになる。アルティマーの存在の大きさが知れた。
「美沙緒さん、…A博士ってどんな人でした?」
「ふふ。やっぱり気になる? 世界的に有名な人だものね」
「そんなんじゃありません」
「はいはい。そうね、やっぱり偉大な人だったわ。尊敬してる。80歳近いのにバイタリティがあって、誰よりも研究熱心で───」

 べしっ

 前触れなく後頭部になにかが以下略。リンは今度は倒れずに踏みとどまった。
(…ま、またしても)
 じんじんという鈍い痛みにリンは頭を抱えた。
「リン、大丈夫!?」
「なんとか、平気です」
 頭を押さえながら旭にどうにか笑って返す。あたりを見回すとやはり足下に黒猫がいた。朝、海辺で同じように飛んできた黒猫だ。名前は確かシュレディンガー。
(なんでAILAの敷地内にまでいるの?)
 黒猫はリンの足に擦り寄って尻尾を振っていた。
「愛想よくしてもだめ! 一体、なんなのっ?」
「あら、リンもシュレディンガーに気に入られたのね」
「は?」
「シュレディンガーがいるってことは、近くにG3の新人がいるわ。…あ、上尾(かみお)くん」
 旭は廊下の先へ手を振った。すると、呼びかけに反応して白衣を着た黒髪の青年が振り返る。見覚えがあった。朝の猫男だ。猫男は旭の姿を目に止めるとふわりと笑う。こちらへ歩いてくる10メートルのあいだに、2回人にぶつかって、いちいち丁寧に謝っていた。
(…鈍い)
 朝と同じ感想を抱く。
 やっと辿り着いた猫男。黒猫はリンから離れて、猫男の頭に乗った。
「おはようございます、旭室長」
「おはよう。シュレディンガーは相変わらずあなたに懐いているみたいね」
「僕のほうが懐いてるんですよ。シュレディンガーのおかげで、所内で迷うことも少なくなったし」
「でも、ゼロではないわけか」
 旭は溜息を吐いた。
 どうやら黒猫はAILA内に出入りOKらしい。
「ねぇ、この猫、なんなの?」
 口を挟むと猫男はリンに気付いて笑いかけた。
「あれ、朝はどうも。シュレディンガーがなにかした?」
「なにかじゃないよ、何回もひとの頭にぶつかってくるんだよ?」
「あ、…また? ごめん。たぶん、気に入られたんだと思うけど」
 猫男はすまなそうな顔をして頭上の黒猫に抗議するが、やっぱり黒猫は聞いてない様子でのんびりしている。
「あなたたち知り合いだったの?」
 旭の質問に猫男が答えた。
「朝、ちょっと。名前も聞いてないです」
「じゃ、紹介するわ。彼女はリン・カートライトさん、今日配属が決まったG11の新人よ」
 リンはちょこんと頭を下げた。すると猫男は丁寧におじぎする。
「G33の上尾(かみお)イノラです、よろしく」
「上尾くんは、優秀なんだけどね。入所して半年も経つのに所内でよく迷子になるの」
 旭の紹介に猫男───上尾は苦笑している。リンは気付かれないようにそっと、上尾のIDを見た。年齢は24歳だった。そして上尾の頭上には黒猫。よく見るとその両目は赤かった。
 上尾が黒猫を指して言う。
「シュレディンガーはAILAのペットみたいなものだって誰かが言ってた」
「もともとA博士が飼ってたのよ」
 旭の説明にリンは驚く。
「えっ、そうなんですか?」
「所内を気ままに散歩してるだけだったんだけど、上尾くんが来てからはご覧のとおり。でも、リンも気に入られたみたいね。どういう条件なのかしら」
 黒猫は上尾の頭の上で尻尾を振っている。その姿を見るたびにリンは笑ってしまう。けれど通り過ぎる職員は誰も振り返らない、見慣れてるのだろう。
 そのとき、
「な〜に両手に花してんだよ、上尾」
 軽い調子で上尾の肩を掴んだ男がいた。上尾と同じように白衣を着ている。こちらは金髪碧眼、整った顔立ちをしているが、長い前髪を上げている花飾りの髪留めがかなりイメージを壊していた。
(また変な人が…)
「旭女史、おはよー」
 花男はひらひらと手を振った。旭は抑えた声で「おはよう」と返した。
 花男は上尾にひやかすように言う。
「おまえ、旭女子と仲良かったか?」
 それには旭が答える。
「上尾くんは、よくうちのフロアにも迷い込んでくるのよ。G33が新人の教育サボってるから」
「女の子なら手取り足取り教えるけど、こんなコブ(ネコ)付きの男じゃね。───それより、かわいい子連れてどうしたの? 紹介してよ」
 軟派な態度に旭は顔をしかめたが、それでもリンを紹介した。花男は笑ってリンに手を差し出した。
「ヴィンセント・エルナー、29歳。さそり座のO型、趣味はかわいい女の子と話すこと。というわけで、君もよろしく」
 エルナー、と旭が睨みつけた。花男───エルナーは意に介さずリンに話しかける。
「俺は上尾と同じG33。遊びに来てね」
「はぁ…」
 リンは遠慮がちに、とりあえず握手をした。
(エリートが集まっているって聞いてたのに…変な人たち)
 AILAは天才集団、世間的にはそう思われている。堅物人間が集まっているのかと思っていたがそれは偏見だったようだ。
「ヴァン。上尾。おやっさんの招集かかったぞ」
 廊下の奥から声がかかり、エルナーはそれに応えた。
「すぐ行く。では、お嬢さん方、またお会いしましょう」
「リン、またね」
 上尾は笑って手を振った。頭の上のシュレディンガーは尻尾を振っていた。


つづく
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