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01. 1997

 1997年。
 何処かの誰かが空から「恐怖の大王」が降ってくると予言した年を2年後に控えても、いつもと同じ、空は青かった。
 人口密集地まで電車で15分。都会でもないがそれなりに商店街もあり、少しの会社が収まっている建物と、多くの住宅地、そして学校と公園がこの街にはある。市内の学校に通う限りぎゅうぎゅうの人間鮨詰め状態の満員電車とは無縁だし、東京人特有の早足に巻き込まれる気苦労もない。日常の買い物も市内で充分。なかなか便利で快適な街であると言える。
 ただ排気ガスで少し苦い空気と、スモッグで遠く霞んだビル群には少々辟易するが、それがこの街の景観だと、納得してあげなくもない。それに今時、この手の苦情は日本のどこに行ってもありそうなものだ。この街を嫌う理由にはならない。
 どこをどうしたら月から地球が青く緑に見えるのか。この、汚い海と灰色の街が。そして 「個人」を隠す人口。そう、一人の人間など隠してくれる人の多さ。
 人間の多さに安心を覚える。
 中村結歌はこの街が好きだった。


 世界史でいい点を取るには二つの方法がある。
 一つ、少なからずの興味を持つこと。もう一つは根性が試される丸暗記。ただし前者は範囲的にかなりの制限があり、後者は忘れるのも覚える時と同じくらい短期間なので一回勝負。追試にでもなったが最後、同じことの繰り返しである。
「・・・・中間考査、世界史範囲ページ数にして89ページ・・・か」
(冗談じゃないよー)
 教科書を乱暴に閉じ、なげやりな声はやがて溜め息に変わる。
 都立佐城高等学校本館の屋上にひとり。中村結歌は白いフェンスを背もたれに空を見上げた。
 頭上に広がる初夏の澄んだ青い空は、都会の中でも褪せることはなかった。
 都立佐城高等学校は都心から離れた住宅地にある。生徒数1000人強。近隣にはそれなりに進学校として名が通っているものの、校風は比較的自由で私服で学校に来る生徒も少なくない。教師陣がそれを容認しているのは、生徒たちが学生の本分を怠っていないからこそ、だが。
「・・・・・」
 結歌はしばらく青空を見やっていたが、本館に隣接する新館に視線を移す。新館には12の教室が収まっている。結歌の現在地・本館屋上からはそれらがよく見えるのだ。そしてそのうちの一つ、3年6組の教室に世界史教諭・後藤和夫を見付けた。
「・・・・89ぺーじ」
 歯軋りと共に吐き出された声はかなり低かった。そして。
「世界史はねー、教科書に加えて地図帳と年表と資料集ってもんがあるのよっ、それを『まあちょっと範囲が長いですけど』ってねぇ、何が『ちょっと』だ。ふざけんなっ。定期試験なんて所詮、生徒の丸暗記を試すようなものじゃない。いいわよっ、やってやる、そしてすぐ忘れてやるからっ、センター試験でぜったい世界史なんて選ばない、覚えてろ後藤っ」
 すました顔をしてチョークを握っている遠い彼の人物に向かって叫ぶ。何が「覚えてろ」なのかよくわからないが、結歌は深呼吸を一回、姿勢を直して教科書を開いた。
「あーすっきりした」
 暗記は集中力が要。もう一度ゆっくりと息を吸ってページをめくる。大学入学試験を突破するには勉強するしかない。たとえそれが無意味な暗記ものだとしても、だ。
 その時。
「何だかんだ言っても成績はいいのよね」
 第三者の声。結歌は身構えた。もし教師ならサボりの現行犯として職員室に連行される。相手によっては内申に何が書かれるか分かったものではない。
「おはよう、中村さん」
「・・・・三高」
 青空を背景に立っていたのは、校内では数少ない、指定のセーラー服をきちんと着た女生徒、結歌のクラスメイトの三高祥子だった。整った顔立ちではあるがキツい表情をしている。風になびく長いウェーブの髪を無造作にかきあげて、結歌に歩み寄った。
「今の声、聞こえたんじゃない? 音楽室に」
 無表情に指でコンクリートの地面を指差す。
 本館の最上階、つまりここの真下には音楽室がある。そしてそこでは結歌たちのクラスが現在授業をしているはずだった。
「6月になってから1回も出てないでしょう」
「ま、受験には必要ないし、テストも近いしね」
 ここで勉強してたほうが得策よ、と結歌は笑いながら付け加える。
 音楽教諭・小川良美にとって2年3組中村結歌はブラックリストのナンバー1だった。上位の成績で入学したものの、結歌の音楽の授業の出席率は酷いものである。1年次の半分は欠席だったが、他の教科が優秀であったために留年は免れた。しかも無試験で。
「三高のほうこそ、珍しいじゃん。サボりなんて」
「一緒にしないで。正当な理由ある“遅刻”よ」
 すぐに授業に入らない自分をどう思っているのか。そんな台詞さえ表情を変えずに言う祥子が逆に面白く、結歌は声を出して笑ってしまう。
「・・・やっぱ変だよ、三高って」
 実際、三高祥子は妙な人間だった。
 2年で同じクラスになってから、誰かと一緒にいる姿を見たことは一度もない。常に一人で行動していた。それが、ただ「大人しい」という言葉で片付かないのは、その態度が妙に堂々としているからでもある。誰も寄せ付けない言動と見目の良い顔立ち、加えて制服着用。好意から話しかけたクラスメイトに棘付きの言葉を返し、追い返したとかそうでないとか。
 孤独を好む人間なのかもしれない。
 しかし。
 2週間前から三高祥子は何故か、中村結歌に付きまとうようになった。
 きっかけがあったわけではない。突然の出来事に結歌は勿論、周りの人達も驚きを隠せずにいた。
 しかし確かに、祥子は結歌に話しかけてくるものの、何か話題があるでもない。そして結歌が察するに、特に仲良くなろうとかそういう意図が、祥子には無いように思える。
 いつもと同じ、無表情で無愛想。
 言葉がきついのは、単に正直なのだということも、最近わかってきた。そして祥子は人の目を見て話さないということも・・・。
 付き合いにくいタイプではあるが、結歌は祥子が嫌いではなかった。
「受験に無くても、その前に単位落としたら、話にならないじゃない」
「そのへんは抜かり無く。留年しないくらいには授業に出るし、追試になったら絶対落ちない自信はあるわ」
 世界史のノートをぱらぱらめくりつつ、結歌は言い切った。
「突っ込むようだけど、体育も家庭科も受験にはないわ。それらはしっかり出席してるのはどうして?」
「嫌いなの、音楽が」
 平然と。

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