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03. 1987

 中村結歌には、中村結歌でないもう一人の記憶がある。
 それが生まれる前のものであることも知っている。
 だからと言って、それを「前世」と呼ぶのはあまりにも安易と言えよう。しかし明確かつ鮮明に、その記憶は結歌の中に存在していた。
 自分がピアノを弾けることで称賛されているのも、その記憶の人物が一役かっていることも自覚している。
 だがこのことを他人に話したことはただの一度もない。後で思えば、「彼」の記憶を話したことで、自分の評価を落とすのが嫌だったのだろう。幼心にもつまらない虚栄心を働かせていたということか。そして幼心ゆえに可愛くも、周りの大人たちがそんな自分の話を疑い無く信じると思っていたのだ。
 「彼」の記憶を有した結果のメリットといえばピアノくらいなもので、役立つものは無いに等しい。
 死ぬまでの半年間がやけに強烈なのは、そんなに思い残した事があるのだろうか。
 そして余計なことにそのおかげで、こちらまでいらない恐怖心を植え付けられてしまった。
(ま、いっかー。そんなこと、今、心配する事じゃないし)
 お気楽にも、そう思っていた。
 あの日までは。

*  *  *

 1987年12月13日。飛行機が落ちた。

*  * *

 同23日。
 ──────雪が降っていた。
 G県K市内、塚原霊園。深々と雪が積もる中、参列者は皆、悲しみと涙をもって故人の早すぎた死を悼んでいた。
 墓石に刻まれている文は次のとおりである。

《中村智幸   1956-1987》
《中村沙都子  1956-1987》

 真っ白な雪と、人々の黒い服。
 モノトーンの視界に墓に添えられた花だけが、とても鮮やかだったことをよく憶えている。まるで一枚の絵のように、その景色は美しくもあったが残酷でもあった。
 結歌のコンクールに二人は現われなかった。当日の朝にはこちらに着く予定だったのに。
 十日前、舞台の上で拍手を貰っていた7歳の結歌は今、喪服を着て両親の墓前にたたずんでいた。
「・・・・お母さん」
 中村沙都子。楽しそうに笑っている顔しか、結歌は見たことがない。結歌がピアノを弾くかたわら、彼女はきれいな声でいつも歌っていた。
(死・・・か)
 歳相応でない表情でうつむく。
 「彼」の記憶が御丁寧に植え付けてくれた恐怖とはまさにこれである。
 本能的な恐怖。誰もが持っているものだが、「彼」は人一倍、死への恐怖心を抱いていた。
 しかし「彼」が本当に恐れたのは、死そのものでも、自分の肉体が滅びることでも、死の瞬間までの時間でもない。
 ───ただ、あの“黒い人影”が扉を叩く音だけだ。
「・・・・・」
 自分もいつか死ぬことは知っている。だがそれは今心配することではない。しかしこうして身近な人の死を感じるのは、苦痛にも近い悲しみを感じ、死について考えてしまうのは当然と言えよう。
 結歌は墓に向き直り表情を改めた。時々、苦手と感じていた父の名を見つめる。
(──────お父さん)



 そして。
 この日、絶対の恐怖を私は見た。



 両親の古い友人である巳取あかねに呼ばれ、重い足取りでその場を離れる。朝にはすでに積もっていた雪のせいで靴はぐしょぐしょだ。もうそれを気にすることさえやめて、結歌は歩き始めた。
 しかしあかねの所に辿り着く前にその足は止まった。
(・・・・)
 何がそうさせたかはわからない。立ち止まった体はなにげに、今自分が居た場所を振り返った。
 振り返ってしまった。
 そして見た。懐かしくも恐ろしい黒い人影。
 反射的に逃げ出したくなる光景。
「・・・・・!!」
 あまりの驚愕に叫ぶこともできない。雪のせいでもなく両足が凍り付いた。
 雪は降り続いている。
 白い景色に黒い影が降り立った。二百年前と同じ、あの姿のまま。
 「彼」自身の記憶とはいえ、結歌の記憶でもある。見た、ということよりこの体の震えが黒い人影が目の前にいることを実感させる。夢ではないのだと冷酷にも告げた。
 喪服の参列者に同じく黒い影が一つ増えただけのこと。しかしその姿は結歌の目を引き付けて離さない。
 しばらくして疑問が生まれてくる程度のほんの少しの余裕ができた時、ようやく絞りだすような声が出た。
「な・・・んで・・」
 何故、また現われる。二百年経った現在に。
 「彼」の前でなく、結歌の目の前に。
 何故?
 記憶をたどる。混乱する頭から答えを探るのは困難だった。
(私には関係ないじゃない)
 これは言い訳に等しい。が。
(まさか)
 ある節が思い当たる。
 そうだ。
 契約・・・があった。
 正確に言うと、法律上の効果を持たないものを契約とは呼ばないのだが、前金を貰ってまで交わした約束があったはずだ。
 ──────まだ、終わっていない。
 未完成のレクイエム。
「まさか・・・・」
 まさか。
 確かに約束はした。それは果たされていない。しかしここまで追ってきてまで、それはあの人物にとって重要なことなのだろうか。
(わからない)
 一体《誰》の為のレクイエムなのか・・・。
 まだ終わっていない。
 まだ追われている。
 黒い影に恐怖を覚える「彼」の記憶には理由がある。これは「彼」自身の単なる思い込みに過ぎないのだが、それは結歌にもしっかりと受け継がれている。
 逢うわけにはいかない。
 追ってきている以上、逃げるしかない。
「・・・・使い」
 名は知らない。そう名乗っただけ。
 墓の前に立ち尽くしている使いは、かなり長い時間、そのままでいた。結歌は震える足をどうにか動かし、人影に隠れた。



 新しいはずなのに雪をかぶったその石は年季を感じさせた。
 石としての硬質感は無く今にも凍り付きそうである。“使い”はその墓に刻まれている文字、中村智幸の名を見やると苦笑した。
「こうなること、わかってたんでしょ?」
 どこか哀しげに首を傾げる。
 その言葉は中村結歌には聞こえない。過去、中村智幸と使いが出会っていたことさえ、結歌は知る由もなかった。



「結歌」
「・・・っ」
 後ろから声がかかった。思わず身構えてしまう。
「どうしたの?」
 振り向くと、巳取あかねが立っていた。いつも気丈な彼女が今日は涙を隠そうともしない。母の親友だったという彼女は、現在高校の音楽の教師で、結歌にも色々と教えてくれていた。
「う・・ううん、何でもない」
「・・・そろそろ帰るわよ。最後にもう一度、お別れしなさい」
 嗚咽混じりの声でそう言うと、結歌の背中を押して歩きだす。
「ちょ・・と、待って!」
 墓前には使いがいる。結歌は青くなってあかねの手を払った。
 しかし、恐る恐る見たその方向に、すでに使いはいない。
(帰った・・・のかな)
 周囲にもいないことを確かめてから、結歌は安堵の溜め息をついた。とにかく今日のところは見つからなかったということだ。
 しかし安心してはいられない。
「結歌・・・?」
 心配そうに覗き込むあかねの顔を見る。
 これから結歌は巳取あかねの家に厄介になることが決まっていた。そして今まで通り音楽を習いながら、ピアノや作曲の勉強をして将来のことを考えなければならない。
「・・・・」
 今、決断しなければならないことがある。
 使いが追ってきている、これは目の前の事実。理由は多分、レクイエムの完成。
 「彼」の記憶を、「彼」の音楽を受け継いだ自分を追ってきている。
 でもだめ。逃げなければならない。「彼」の記憶が語るとおり、使いと逢ってはならない。
 使いと逢うことが意味するもの、それは・・・。
「・・・・」
(音楽を好きな気持ちは「彼」のものだわ)
 愚かにも結歌はそう割り切った。
 そう、あまりにも愚かに。
「・・・あかねさん」
「何?」
 そしてこれが、自分の生き方を変える決断。
「ごめんなさい。・・・私、東京の茅子おばさんの所に行く」

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