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04. 結歌

「英語の範囲、終わりっ」
 机にシャーペンを投げ、立ち上がって伸びをする。時間は0時52分、まとめたばかりの英語のノートに結歌は満足し、そのままベッドに倒れこんだ。
 はー、と大きく深呼吸して体の力を抜くと、このまま眠ってしまいそうな感覚に陥る。
「ふっふっふっふ」
 しかし。不気味にも不敵な笑いが込み上げてきた。
(これで英語の試験は完璧だな)
 英語を教える萩原先生はテスト問題の形式が毎回ほぼ同じな為、1日勉強すれば7割は固い。結構このことに気付かない生徒が多いので赤点を取る心配はほとんど無い。
 結歌は勉強が嫌いではなかった。
 その価値はさておき社会的には成績が良ければ認められるという事実は否定できるものではない。たとえ文部省が偏差値をなくしても、いまだ学歴社会なのは確かだ。精神的にも勉強というものは努力をしたぶんだけいい点が取れるもので、いい点を取れればそれなりに嬉しい。
 そしてなにより、新しいことを知るということは元来楽しいものなのだ。
 五科目も授業を聞いてていれば興味があるものが一つや二つは見つかる。それを掘り下げて勉強することは、決して苦痛ではない。
「・・・」
 興味───?
 ふと、結歌の顔から笑みが消え、眠気が一気にさめた。
「・・・嫌なこと思い出した」
 と、不機嫌そうな声を口にする。
 今日、不覚にも三高祥子にピアノを弾いているところを見られてしまった。口止めはしなかった。しかし祥子の性格から考えても、誰かに口外することはあるまい。
 三高祥子。嫌いではない。しかし何だろう、あの全てを見透かしたような目と、何か言いたいことがあるような言動。何の為に、結歌に付きまとうのか。
『興味あるよ。どちらかというと悪意がこもってる意味でね』
 天井の照明を見つめる。祥子の言葉を反芻しているうちに憤りを感じて、そのままベッドにどかっと肘打ちを食らわせた。
(何なのよ・・・いったい)
 はっきり言って、グサッときた。
 あの後、じゃーね、と捨て台詞を残し祥子は帰っていった。喧嘩を売られたのかどうかは判断しにくい。
 このまま、三高祥子との間に良い友人関係が築けるとは考えていなかったわけではない。しかし何か狙いがあるだろう、ということくらいは想像がついていた。
 ああもはっきりと目の前で言われては・・・。
 結局、祥子は心を許してはいけない人物だということだろうか。
「・・・ちがう」
 結歌は自分自身の考えを否定した。
 あれは威嚇。自分にあまり近付くなという警告。
 三高祥子は目的があって結歌に近付いている。しかし本人は、近付きすぎるのを恐れている。 先程、結歌が考えていたこと、つまり祥子に対する不信感を抱かせることこそが彼女のセリフの狙い。あの言葉はあまり近付きすぎないようにと、結歌に、そして祥子自身に言い聞かせているのだ。
(何よ、近付いてきてるのはそっちじゃない)
 相変わらず、訳わからん奴・・・。

 午前1時32分。
 今日という日がまだ終わりでないことを告げる、電話のベルが鳴った。
 5回目のコールで結歌はベッドの中で目を開いた。
(・・・嫌がらせかなぁ)
 暗闇に響く音を遠くに聞きながら、つい非建設的なことを考えてしまう。
 こんな時間に電話をかけてくる人間は一人しかいない。
 このまま寝たふりでやり過ごそうかとも思ったが、もし嫌がらせならそれも無駄なだけなので立ち上がって結歌は部屋を出た。
 2LKのマンション。電話はリビングにしか無い。その隣りのソファにどかっと腰を下ろし
受話器をとった。
「・・・はい」
『ちょっと! なんでこんな時間まで起きてるのっ? 早く寝なさいっていつもいつも言ってるでしょっ。あんたのことだから、また勉強でもしてたんでしょう。ガラでも無いことやってるから、擦れた性格になるのよっ』
 ぺらぺらぺらぺら。
「・・・・・」
 結歌はそのまま受話器を下ろしたい気持ちになった。
 気力がありあまった声をいきなりぶちかましてきたのは中村茅子、この家の主である。
「・・・・・この電話のせいで起こされた、というのは考えないんですね」
『あら、考えなかったわ』
 単なる天然ボケか、それとも意地悪か。彼女の図太い性格を知っている結歌は、迷い無く後者だと即決した。
 中村茅子、48歳独身。結歌の伯母にあたり、結歌の父親・中村智幸の姉である。昔からやたらと元気な人で、現役のキャリアウーマンだ。現在は某企業の開発部に属している為、一度仕事が入ると1週間は家に戻らない。
「仕事のほうはどうですか?」
『相変わらず大いそがしよー、どう? そっちは。しっかり食べてる?』
 ふざけているようでも結歌の様子を心配してくれているのがわかる。電話をたぐり膝の上に置くと、結歌は口調を改めて受話器に笑いかけた。
「食事を怠らないのは、昔からの茅子さんの教えですから。ちゃんとやってますよ。そっちこ
そ、面倒臭いからってコンビニ食はできるだけ避けてくださいね」
『オーケーオーケー。ところで、今回は長引きそうなの。もしかしたら帰りが遅くなるかもしれない』
「・・・はい」
『そうそう、それから・・・』
 珍しく茅子の真面目な声が返る。
『もうすぐ夏休みでしょ? 沙都子さんと智幸の所へ行ってきなさい。もう何年も行ってないでしょう』
「──────」
『わかったわね? じゃあ、切るから』
 結歌は深い溜め息をついて、ゆっくり受話器をおろした。相変わらず茅子は手厳しい。
 ソファに深く座り直し、結歌は天井を眺めて吐息をついた。
「・・・・もう、十年か・・」
 一枚だけ、昔の結歌を示す写真が残っている。
 それは中学生の頃、結歌が一度捨てたものだ。それを茅子が寸でのところで拾い戻し、自室
に隠しておいたことを、結歌は後で知った。
「・・・・・」
 そっと、隣りの茅子の部屋に忍び込む。閑散とした、しかし見事と言えるほど散らかっている部屋を、結歌は足の踏み場をうまくたどりながら入った。隅に置いてあるテレビに向かい、その上の敷物をめくる。
 一通の封筒。そしてその中に、一枚の写真。
 6歳の結歌がトロフィーを抱いて、両親に囲まれて無邪気に笑っている。
 遠い日の出来事。
(・・・何も知らないって、幸せなのかな)
 あの頃の結歌はまだ知らない。自分のちからに慢心していただけの日々。
 まだ追われていること。そして何も終わっていないこと。
「・・・」
 墓前に行かないのには、理由がある。
 直視できないだろう。
 きっと両親は、今の結歌の姿を望んでいないだろうから。
 衝動的に写真を破りたくなったが、何故だか虚しくなってやめた。
 結歌は幸せそうに笑っている3人の写真を見て思わず笑いが込み上げてきた。それは写真の中の笑顔とはまるで異なるものである。
 自分への嘲笑。
「ピアノなんかとっくにやめちゃったよ・・・お父さん」


 使いは2百年前と同じ姿でここに現われた。信じたくはないが人間ではないという現実を受け入れるしかないだろう。
 逃げていることを否定しない。
 たまに、あの雪の日に自分が見たものが本当に使いだったのかと疑うことはある。しかし毎年この季節、「彼」が初めて使いとあった7月、初夏になると訪れるこの恐怖感を否定することはできない。この恐怖感に打ち勝つ為に・・・。
 だから私は、このままでいいんだと、自分に言聞かせるしかないのだ。

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