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 7月4日金曜日。

(あのやろ・・・)
 問題用紙に向かいながら、中村結歌は何度もそう呟いた。
 左斜め前に位置する三高祥子の席は、朝から一度も座られることはなかった。つまり、欠席、ということになる。
 それが病欠なのかサボりなのか結歌には分からない。しかし結歌との約束は見事に破ってくれたというわけだ。
(ちぇー、せっかくすごい事教えてあげようと思ってたのに)
 この場合「すごい事」とは、結歌の過去(と、さらに過去)に他ならない。毎年1年のうちで最もブルーになるこの時期に、結歌が自分のことをこんな風に言えるのはかなり珍しく、気持ちが軽くなっている証拠だといえる。
 
「先生ー、三高・・・さんってどうして今日休んだんですか?」
 テストも終わり解禁になった職員室へ足を運び担任の席を訪ねた。
「三高? ・・・ああ、何でも親が突然入院したって、朝電話があったぞ」
 事情は事情だがあいつは夏休み補習組になるだろうな、と高田先生は煙草をふかしながら呟いた。
「そう・・・ですか」
 失礼しましたー、と声をかけて職員室を出る。
(・・・それじゃーしょーがないかな)
 こりこりと頭をかいて昇降口に向かって歩き始めた。
 落ち着いた頃に電話でもかけよう。
 先程ついでに三高祥子の家の電話番号も担任から聞き出していたので、いつでも連絡は取れる。それに月曜の終業式には嫌でも顔を合わせるだろうし。
(それにしても・・・)
 上履きをぬいでローファーに履きかえると、結歌の思考は今回のテストの事へとむかった。
 後藤のやつ・・・、と恨み言の一つも言いたくなる。あれだけやたらと膨大で広大な出題範囲を指定しておきながら、いざ問題用紙が配られてみると論述形式の問題が1問だけだったのである。あの時結歌の目の前が真っ暗になったと言っても決して大袈裟ではない。
 『香港返還について』。
「・・・」
 タイムリーといえばタイムリーだが、それではあの死に物狂いの自分の努力はどうなるというのだろう。時間と労力の無駄、すべてはそういうことだ。
 外に出ると灼熱の太陽が、容赦無く肌を突き刺す。それを手でさえぎって結歌は青空を仰いだ。
(・・・海、行きたいな)
 心の中でそう呟いてから、驚いて結歌は思わず立ち止まってしまった。
 余裕が、出てきたのかもしれない。
 毎年夏休みは気が重いだけの、学校が休みな分、気晴らしになることがない憂欝なだけの期間だったのに──────今年は何か違う。
 三高祥子とのことによって、確かに自分は変わってきている。それと分かるほど。
「結歌──────!」
 その時、頭上から名を呼ぶ声が聞こえた。
(げっ・・・)
 見ると、2階の会議室の窓から巳取あかねが顔を覗かせている。彼女の心境からすればここまで追ってきたいのだろうが、今日は午後から会議があることを結歌も知っていた。
「この間は忘れてたけど、これ、前から預かってたの!」
 なにもそんなに大声で言わなくても聞こえるのに。おかげで周囲の生徒の視線を集めてしまってかなり恥ずかしい。
 あかねは何か、小さい紙らしき物を手にすると、それをそのまま下にいる結歌に向かって落した。
「え・・・ちょっとっ」
 それはやはり紙なのでひらひらと空を舞う。結歌はあわてて空気中を泳ぐ紙を追い掛け、どうにかそれをキャッチした。
(何なのよ一体───っ)
 かなり古ぼけた茶封筒。宛名も書いてない。
 手紙。
「それからっ、夏休みあなたの家に行って色々尋問するからねっ! 覚えときなさいよっ!」
 まだ諦めていないということだ。
(しつこい人だ)
 でも。
 今なら、本気であかねが自分の事を思ってくれているのがわかる。
「あかねさんっ」
 結歌は2階にいるあかねに拳を突き上げ、満面の笑みを見せた。
「私、夏休み中に何か変わるかもしれないっ」
「・・・・・」
 元気良く手を振って去っていく結歌にあかねは目を丸くした。
(・・・あんな風に笑えたのねぇ)
 先週会った時とはどこか違っている結歌を、あかねはすっかり保護者気分で見送った。

 心に余裕ができると見えてくるものがある。
 余裕が無かった頃の自分。それを見ていた祥子。あかねの憤りと思いやり。
《あなたには相談できる友達が沢山いるじゃないっ!》
 誰かに打ち明けたからと言って事態が変わるわけじゃない。でも今の状況からは抜け出せるはずだ。
 “過去”に捕われることはない。
 「彼」の記憶に縛られ使いに怯えなくてもいい。
 逃げてもいい。しかし“現在”を後向きに生きるのは自分の為にはならないから。
(三高に知ってもらおう)
 そして自分こそが三高祥子の「相談できる友達」にまで精進することを、結歌は厳かに誓った。





 その封筒を開けなくても、これから結歌に起こる出来事が変わるわけではなかった。


 自宅の近所に馴染みの公園がある。結歌はそこにいた。昼時のせいもあってか人影は少ない。
 結歌はブランコの一つに腰掛け、先程あかねから受け取った手紙をカバンから取り出した。
(預かってたって・・・───誰から?)
 あかねを仲介しての自分宛ての手紙。思い当る人物は一人もいない。
「不幸の手紙とかだったら許さん」
 そんなわけないか、と笑って結歌は封を切った。
 いったい何年開封されずにあかねの元にあったのか。
 古ぼけた封筒、そして便箋。
 すっかりクセのついた紙はパリパリと音をたてて開かれる。
 手紙の冒頭、それは本来宛名になるべき文字が、こう書かれていた。
《まだ見ぬ君へ───》


              *     *     *



 7月の乾いた風が結歌の頬をかすめた。
 隣りのブランコが揺れて、鈍い金属音が数回繰り返される。
 頭上では青青とした木々がそよぎ、白い鳥が枝から飛び立った。
 それさえも聞こえない。
「──────」
 くしゃ、と便箋を握り締めた結歌の肩は小刻みに揺れ、うつむいた顔が蒼白になる。
「・・・なに、これ」
 その声とは裏腹に顔は奇妙にひきつった笑みを覗かせている。
「なに・・・?」
 手紙の内容に“結歌”という文字は一つも無い。しかし自分宛ての手紙であることはわかった。
《1980年5月18日   中村智幸》
 結歌が生まれる前の日付と、今は亡き父の名前。
 その内容は祥子のおかげで浮上しかけていた結歌の思考を完全に覆すものだった。
「お父さん・・・・?」
 助けを求めたかった。
 誰でもいい。何故今、この瞬間に、誰も隣りにいてくれないのだろう。

 そして結歌は。
 全身が凍り付く声を聞いた。
「やーっと捕まえた」
 能天気と言えるほど明るい声が頭のすぐ後ろで響く。誰か、を判別する前に頭の中が真っ白になった気がした。
 振り返れない。
 必死で否定する思考とは裏腹にわかっていた。声など覚えていない、しかし本能的に。
 背中に汗が流れる。それは決して夏の暑さだけのせいではない。
 目の前に現われる。
 ご丁寧に背後から回ってそれは結歌の視界に侵入した。
「・・・・っ!」
 そこにはわかってはいたが宙に浮く黒い人影。
 黒い服とマント、帽子と靴。三日月を象ったと思われる錫杖を手に、『使い』は現われた。
「どーも。主人の使いの者です。久しぶり。・・・それとも初めまして、かな。中村結歌さん」
 ───悲鳴さえ出なかった。

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