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07.1989

『もーちーろーん、あんたのおごりでしょうねぇ? 今日は』
 1980年10月。場所は大通りに面する喫茶店。巳取あかねは週一回の休日をつぶされた不機嫌さを隠しもせず、呼び出した人物に念を押した。
『わかってるよ』
 眼鏡の奥の、男の二つの目が笑った。
 窓の外を、流行りの服を身にまとった若者が通り過ぎる。あんな風に、3人でつるんでいた時もあった。それはたった2年前のことなのだが、社会に出てから一気に年をとったように思える。その若者達を視界から消えるまで見送って、あかねは目の前の人間に視線を戻した。
『・・・・』
 あかねはこの男に、あまり良い印象は持っていなかった。
 はっきりしない優柔不断な性格。ある時からいっそう影を帯びた横顔。けれど時々見せる、しっかりと確立した物の考え方。そんな矛盾も踏まえて、あかねはこの男にちょっとした嫌悪を抱いていた。
(・・・つまり暗いのよ、性格が)
 しかしそのような性格も、あかねの親友の目には格好良く映るらしい。どういうわけか。
 付き合いは長いのだがあまり一対一で話す機会はなかった。そういうわけで、こういうシチュエーションは珍しい。この人物と会う時には必ずもう一人・・・・あかねの学生時代からの親友であり、目の前の人間の配偶者が隣りにいたのだ。
『で? 用件は何?』
 “一回目”のオーダーぶんがテーブルに揃ってから、あかねはあまり口数の多くない相手の為に促してやる。
『頼みがあるんだ』
 中村智幸は真摯な表情でそう切り出した。
 あかねは目をひそめる。
 親友である沙都子の夫とはいえ、仲が良いとは表現できない間柄の智幸が口にする言葉としては予想外だった。しかしその真剣な態度が言葉の深刻さを表わしている。
『・・・・高くつくわよ』
『それでもいい』
 あっさりと表情を変えずに答えた。
『あんたねぇ』
 詳細が語られていないこともあるが、あかねはじれったさを感じるを得ない。加えて、ここでの会話が沙都子には秘密であることを、あかねは見抜いていた。そうでなければわざわざ智幸がこうして外に呼び出す理由がないからだ。
 はあ、と溜め息をつく。
『・・・今日、沙都子は?』
『病院に行ってる』
『そっか。・・・あと二ヵ月だもんね』
 そこでまた会話は途切れた。
 からん、とグラスの中の氷が鳴った。
 智幸はあかねの返事を待っているのか、カップに手をつけようともしない。目を合わせずにうつむいている。
(私・・・沙都子に隠し事したくないんだけどな)
 とくに沙都子が熱愛している智幸のことについて。
 もしばれたら沙都子は黙っていないだろう。
 沙都子と智幸。どちらに着く? と聞かれたら、あかねには悩む時間すら必要ない。
 沙都子に吐けと言われたら、あかねは簡単に白状する気でいた。
 しかし中村智幸とも、いい加減長い付き合いなのだ。無理難題を突き付けられても困るがそうでないことならまあ内容によるかな、と思う。
『・・・いいわ。とりあえず聞かせてよ』
『巳取・・・』
 顔をあげて安心したような表情を見せる。そしてさっそくというか現金な奴というか、テーブルの上に封筒を置いた。
 宛名は書いてない。
『これを預かっていてくれないか』
『・・・・手紙?』
 気のせいか、智幸の手は震えているように見える。しかし次に発せられる言葉は、深みがある程落ち着いて、しっかりとしていた。
『これから生まれてくる僕と沙都子の子供に。・・・成長して・・・・物事をしっかりと考えることができる年齢になった時、渡してほしい。頼む』
 何年先のことになるのか想像もつかないことを言う。その月日の長さをざっと計算して、あかねは苦々しい表情になった。
『・・・あんたが直接渡せば?』
 あかねのもっともな提案に智幸は軽く笑っただけだった。
『いや、・・・もしかしたら、僕はその時に・・・いないかもしれないから』
『・・・・・?』
 その時あかねは深く追求しなかった。智幸の態度がそれを拒んでいるようだったし、何を尋ねればいいのかうまく一つにまとめられなかったから。
 できないことはない。あかねは承諾した。
『わかった。・・・沙都子とあんたの子供に、ね?』
『・・・ありがとう』
 真正面から礼を述べられて、あかねはらしくもなく赤面した。それをごまかすように皮肉を込めて智幸に言う。
『あんた、これから私に頭が上がらないわね』
『ああ・・・まったくだ』
 中村智幸は穏やかな表情で、笑っていた。


 5ヵ月前に書いた手紙は書いて封をしたものの、どうすればいいか、ずっと迷っていた。
 杞憂かもしれない。
 そうあってほしいと願う。
 でもこれを残すことで、自分が見ることができないかもしれない、もしかしたら最悪の未来が少しでもかわるなら。
 そう思って、やはりこの手紙は、未来に残すことにする。

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