キ/wam/03
≪6/6≫
一週間後。
あれから、結歌の周りを使いは付きまとうようになった。それはまるで三高祥子を思わせたが、それほど甘くもなかった。神出鬼没。どこにでも現われる。
言葉を交わす。結歌の、使いに対する恐怖心は、いつのまにか無くなっていた。
・・・それでも、何故かレクイエムには着手できないでいる。
「いいかげん、レクイエムを書いてくれない?」
何度目かの要求。数える気にもならなかった。
あの日、結局終業式には出られず、時期的には夏休みに入っていた。
三高祥子とも会えないでいる。
図書館からの帰り道。セミの鳴声が暑苦しく響く細い道を歩く。使いが突然現われるのには、慣れ始めていた。
「・・・そんなに大切なものなの? その、レクイエムが」
「───」
使いは自分のことを話さない。その背景も。
使いを黙らせるにはそれをつっこめばいい。結歌はそんな風に要領よく応対できるまでに、落ち着きを取り戻している。使いと初めて会ったときの事を思えば、驚くべきことだ。
「レクイエムさえ渡してくれれば何もしないって言ってるでしょう? この条件は結歌にとって、何の損失にもならないじゃない」
「・・・・・」
「このまま、外にさらさないで、あんたの中だけで埋もらせるつもり?」
「外に出したとして、一体何になるの? “モーツァルト”のレクイエムが完成するわけじゃないし、誰か聴いてくれるわけでもないし」
その言葉に使いは引っ掛かるものを感じたようだった。結歌の前に回り込み語調を強めて言う。
「わかってないわね。レクイエムを依頼したのは誰だった? ・・・私よ。他の誰でもない私自身なの。世間がどうこうって次元の話じゃないのよ」
「じゃあ聞くけど、その曲をどうするの? 誰の為のものなの? どうして『彼』に依頼したのよ」
黙らせるのが目的だったわけではないが、結果的に使いのことを尋ねる質問になってしまった。使いは口を閉ざす。
「・・・・詳細は尋ねない約束よ」
そんなことを言う。二人の睨み合いになったが、先に目を逸らしたのは使いのほうだった。
「・・・なんでそんなに強情なのよ。理由は何? まさか本当に音楽が嫌いだから、なんて言うんじゃないでしょうね」
「違うわ」
あっさりと答える。
(・・・あれ?)
自分でも不思議に思うほど、簡単に答えられた。
使いもその返事には首を傾げた。今までの結歌の言動からすると、こんな答え方をするようには思えなかったのだが。
「・・・結局、好きなんでしょ? 音楽が」
「・・・・っ」
即答できなかった。それ以前に、自分がどう答えようとしていたのかも、わからなかった。
違う。と答えたかったのかもしれない。
《音楽を好きな気持ちは『彼』のものだわ》
幼い日の決意。
幼いながらにそんな決断を下した昔の結歌がいる。それを思うと簡単にレクイエムなんか書けるわけがないではないか。
あの日の思いを、すべて否定してしまうのは残酷だ。
今まで目を逸らしていて、深く考えたことがなかったかもしれない。
自分は、音楽をやりたいのだろうか。
「本当に好きなことをやらないで、何の為に生きるの?」
(──────)
核心を突かれたようだった。それでも反発する気持ちが強く残る結歌は、振り払うように頭を振った。
自分の中に存在する音楽に、ずっと苦しめられてきたのだ。
(いっそのこといらない)
そう思っていたはずだ。でも今はわからない。・・・それとも音楽こそが、本当に好きなことなのか。
そうなのだろうか。
(・・・わかった)
ふと、簡単に頭に閃いた。その答えに導かれるのが当然のように、すんなりと。
今まで、使いに対する恐怖感で怯えていた。だけど違う。本当に結歌を苦しめてきたのは、矛盾。どうしようもないジレンマ。
自覚はしていなかったが、本当は音楽がやりたかったのかもしれない。しかしそれは使いに見つかることを意味する。それで音楽をやりたいと思う気持ちを握りつぶしたのは、あの日の結歌本人だ。
結歌は勘違いしていたのだ。音楽を拒否していたわけではなく、それに伴なう使いという存在から、音楽が嫌いだと思い込んでいただけだ。
自分の中に存在するものに、追い詰められていた。
感情が昂ぶり、そんな結論に達した結歌は、思わず次のように呟いていた。
「・・・お父さん。あなたが教えてくれた音楽が、私を苦しめていたんだね・・」
それは父に対する少しばかりの怒りと、自分に向けての皮肉だった。
ダーンッ!!
硬い音が結歌の言葉を黙らせた。
音は空気の波紋。それが衝撃となって結歌の全身を打った。
「・・・使い?」
それは使いが錫杖の先を、地面に叩きつけた音だった。
結歌が使いのほうを見ると、切り裂けそうな視線が返る。
言いようのない怒りが伝わってくる。
「何もわかってない」
憤りを押さえ付けた低い声で、それだけ呟いた。その肩が震えている。
結歌の台詞に、何故ここまで使いが怒るのかわからない。それでも今まで見たことの無い、使いの表情だった。それは怖くて、すこし切ない・・・。
「あんた何もわかってないじゃないっ! 智幸のことも、自分のことも・・・。智幸があんたに何を教えたっていうの!」
《誰もが感じられる感覚。この自然から絶対離せないもの。教わらなくても誰もが持ってるもの》
《だから、音楽って人に教えるものじゃないと思う》
あの時の言葉に、使いは言葉を飲み込んだ。
本当はあの時、頼みごとがあって智幸に会いに行ったのだ。
「生まれてくる子供に音楽を教えないで」
使いは全てが『聖』の思い通りになるのは嫌だった。『聖』に従うしかなくても、ずっとそう思っていた。
智幸に、子供に音楽を教えないように頼んだら、どうなっていただろうか。少なくとも『聖』の思惑とは違っているはずだ。・・・そう思っていた。
けど智幸は言う。
教えられるものではなく、自然から与えられるものだと。
生まれたときから持っているのだと。
そう、言ったのだ。
「智幸があんたに音楽を教えるはずない」
「・・・・・」
使いの厳しい視線が刺さる。
結歌は、自分には残っていない、かつての智幸の言葉を聴いた。黙るしかなかった。
自分の知らない父を、使いは知っている。
「結歌が言っていることは、八つ当りで、被害妄想で、責任転嫁なのよっ! 智幸のせいじゃなく、結歌が逃げてるだけ。・・・私からでなく、音楽からっ・・・!」
もしかしたら使いは泣いているのかもしれない。しかし表情を占めるのは、結歌への憤りが何よりも勝っていたけれど。
胸に突きささる。それは痛みをもたらしたけど、それより他に、切ない暖かさを全身に伝えた。
「使い・・・・」
「・・・・」
顔を上げた使いは、結歌の微笑む表情を、見た。
「お父さんのこと、いろいろ教えてくれる?」
考え直すことが多すぎる。しかしそれは苦労ではなく、真実を知ることなのだと、結歌は理解できた。
すべてが変わろうとしていた。
「ば───か」
どどん、と効果音がつきそうな重みのある言葉を、けれど異様に高い声の人物が吐く。
百メートルほど上空にいるゆきのだった。
呆れた意味の溜め息をつく。
「毎度毎度・・・人間相手を懐柔させなければ仕事をこなせないのか。あいつは」
懐柔とは、この場合ゆきの個人の見地によるものである。
ゆきのは使いほど、人間を好きにはなれない。理由がない。しかしあまり関わりたくない、というのが本音だった。
(きっとまた、無事では終わらない。この仕事)
二百年前と同じように、『聖』の思惑を裏切って。
「───いや」
ふと思い立って、ゆきのは自分の考えを否定する。
「期待通りに・・・か」
使い自身にとって予測もつかない結末になるかもしれない。
『聖』は何も言わないだけだ。使いが『聖』を嫌うのもよくわかる。
(何を考えている? 『聖』)
ゆきのは入道雲がのびる深い空を仰ぐ。そしてまるで大気に隠れるように消えた。
(彼の記憶と才能で、世間に騒がれていた)
中村智幸は喜んでいなかった。
哀れに思っていたのだろう。
結歌が“中村結歌”として生きられないことを。
「彼」の影を背負うしかないことを。
自分らしく生きることができないと思われる未来を。
自分の道を探せ。
智幸はそう言いたかったのかもしれない。
中村結歌は自室の机に向かっていた。
机の上には、一冊のノート、ボールペン一本。
しかしそれらには手をつけず、結歌は指を組んで、それに顎をのせて、ずっと考え込んでいた。
窓の外はすでに暗く、新月が高く浮かんでいる。流れこんでくる風が、結歌の髪を揺らした。
車のヘッドライトが部屋の壁をかすめていく。
隣りの家のテレビ。近所の野良犬の鳴声。風。家電の音。
衣擦れ。呼吸、そして鼓動。
本当の沈黙なんて、きっと誰も感じたことはない。
生まれる前に聴いた胎動。「自分」という個体を感じる以前から。
──────私たちは一生、音を聴いて生きていくんだろうね。
「・・・・・」
ずっと、考えている。
耳を澄ましている。
結歌はまっさらのノートをめくり、ボールペンを持つ。
久しぶりの感覚に戸惑いながらも、1頁目の左端・・・・5本線の上に、ト音記号を書いた。
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キ/wam/03