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 7月7日月曜日。終業式。

 朝。起きたら茅子はすでにいなかった。
《緊急の連絡が入ったので会社に行きます。   茅子》
 そんな書き置きが残されていた。
「相変わらず・・・忙しい人だなぁ」
 それは文面の文字からも伺える。よほど急いでいたのだろう、最後の名前はほとんど殴り書きだった。それを見て結歌は笑う。
 ・・・・思えば、彼女が帰ってきたのも、内田のおばさん、もしくは菖蒲あたりが、結歌の様子がおかしいのを茅子に知らせたのかもしれない。結歌を心配して、茅子は帰ってきてくれたのではないだろうか。
 朝食はいつも通り一人だったけど、不思議と楽しい気分ですませることができた。
 自惚れではなく、周りの人間が自分を思ってくれていると、知った。
 茅子や菖蒲、萌子と郁実・・・桔梗、そして三高祥子も。
 自分のことを思ってくれている人が沢山いるのに、自分が自分のことだけを悩んでいるのは、とても身勝手なことなのかもしれない。
 そう思うと、すぅっと視界が開けたような感覚に陥った。
 使いのこと。レクイエムのこと。お父さんのこと。昔の結歌のこと。
 悩んでいるのは決断力が無いからだ。使いと真っすぐ向かい合う勇気が無いからだ。
 レクイエムのことにしても、使いと話し合わなければならないのかもしれない。
 玄関わきの鏡に結歌自身の顔が映る。
 結局、自分のことは自分で解決するしかない。それを尻込みして、いつまでも悩んでいるのは馬鹿なことだ。
「・・・・・」
 今度使いに会ったら、もう少しうまく立ち回ろう。強くならなきゃいけない。使いという存在に負けないように。
 今日は終業式。三高祥子も学校に来るだろう。今日こそ、話を聞いてもらおう。
「行ってきまーす」
 もちろん返る声はない。それでも結歌は満足して、玄関のノブを回した。


 そして。
「おはよう」
 ひっ、と結歌は短い悲鳴をあげた。この時ばかりは恐怖より純粋な驚きが先に立った。
 心臓が飛び上がるのを感じた。
 使いはそこにいた。扉の前にいた。通路の手摺りに腰をかけて、結歌を待ち構えていたのだ。
 反射的に逃げようとするが、先程の決意がそれをどうにか押し止めた。それは誉めて然るべきだったが、結歌はその後の行動に迷った。
 睨んで威嚇しようか、それとも使いのいいぶんを聞くのか。
 何を尋ねるのか。
 しかし先に口を開いたのは、使いのほうだった。
「私の要求は、もうわかってるんじゃない?」
 笑顔で、でもただそれだけを、使いは言う。これは疑問ではなく確認である。
「レクイエムよ」
 その言葉は二人の間の空気の色を変えた。
 宣言。
 そんな感じだった。
 二百年の時を経て、扉のそば、同じ対面を果たす。用件は同じ、レクイエム、それだけだ。
 一瞬だけ、ノスタルジアに浸って、使いは新たな確認を口にする。
「逃げてたのね、私から」
「・・・そうよっ」
「・・・・これのせい?」
 使いは右手の指二本で智幸からの手紙を挟み、ひらひらと踊らせる。結歌は目を見開いた。使いが持っているとは思ってもみなかった。
「それもあるわ」
 あくまで強気で。それを合い言葉のように掲げ、結歌は答えた。使いは笑ったようだった。
「じゃあ智幸も本望ね。・・・だけどこの手紙、日付は十七年前、だけど開封は最近・・・。封筒はかなり古くなってるけど、中は色も褪せてない。これを読んで私から逃げるのはわかる。でも十年前、あなたが音楽をやめて、私から逃げる理由は無かったはずだわ」
 十年前。あの雪の日のことだ。中村結歌として、はじめて使いを見た日でもある。
 そう。智幸からの手紙がなくても、結歌はあの日、逃げ出した。
 「彼」の記憶に従って。
「だって・・・『彼』が」
 ずっと胸のなかにある不安。拭いきれない予感。
 それだけが結歌の生き方を決めた。
 結歌の言葉を待たずに、さらに使いが言い寄る。
「それに、恐いのは私でしょ? それとレクイエムを書かないことと、どんな関係があるの? レクイエムをくれたらすぐに消えるのに」
「うそっ・・・!」
 弾かれるように、結歌が叫んだ。
「・・・・え?」
「・・・『彼』は・・・当時、病に侵されていた『彼』の身体は、いつ死んでもおかしくない状態なのに、『彼』のからだは、まるで使いを待っていたかのように、使いと会うまで生きて、使いと会って死んだ。今の私のからだ、どこも悪くないのに、それなのに、使いと会って、『彼』と同じような結果になるとしたら、それは・・・・・・っ」 浅い呼吸を一回、ろくに空気も吸えないで、歯を噛み締める。
(それは・・・)
 あなたに殺されるということ?
「・・・・っ!!」
 口にするのが恐い。それを言ってしまうことで、使いの表情が変わるのが、またそれを見てしまうのがたまらなく恐ろしかった。
 「彼」が恐れていたのは、死そのものでも、自分の肉体が滅びることでも、死の瞬間までの時間でもない。
 ただ、黒い人影が扉を叩く音だけだ。
 記憶は受け継がれている。・・・・その恐怖まで。
 結歌には覚えのない感情。
 理屈がないということが、相乗効果をもたらした。
 そんな条件がいくつか重なり、結歌のなかでは、使いと死は同意義になっているのだった。
 目の前の使いは、そんなことは微塵にも考えていなかったけれど。
「・・・・くくっ」
 突然、使いは声をたてて笑った。
(えっ!?)
 それを引き金に、使いはくすくすと笑いだす。
 押さえていたものが我慢できなくなったような、そんな笑い方だった。一応、結歌に気を使ったのか、口元には手をやって声を抑えている。
「何がおかしいのっ!」
 そう言いながらも、結歌は自分の中の使いの印象が、完璧に崩れていくことに戸惑いを感じていた。
 まるで普通の人間のような言動に、記憶とのずれが生じる。
 確かに、‘結歌’として、まともに話したのは初めてなのだ。
 ひととおり笑いが納まった後、使いは真剣な表情を結歌に返した。
「・・・ええと、そう。やっぱり誤解があったのよね」
 どこから説明すればいいのか迷う。
「まず、その手紙に書かれていることは冗談・・・って言ったらタチが悪すぎるか・・・。でも本当、結歌をどうこうしようとは考えてない。あなたが余計なこと言ったりしない限り、私の目的はレクイエムだけよ」
「・・・・」
 使いの言葉に嘘はない。結歌の今までの生活を覆す内容だった。
「・・・・本当なの?」
「ええ」
 使いは今更ながら反省する。
 智幸が最期まで心配していたことは、全て杞憂だったのだと。・・・教えてあげればよかったのかもしれない。
 違う。二十年前、智幸に未来のことなど言うべきではなかったのだ。
 結歌に継がれた『彼』の恐怖は病からくる妄想。死期を目前にした精神不安。
 いったい幾つの悪条件と偶然が重なって、二百年もの無駄な月日が流れただろう。
「・・・・ちょっと、考えさせて」
 ほとんど表情の無い顔で、結歌が小さく呟いた。
 誤解が溶ければ後は時間の問題だ。使いは了承する。
「いいわ。引き渡しは物理的なものでよろしく」
 使いはそう言うと、あの雪の日と同じように、消えた。

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