キ/wam/03
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09.使い
長居できるのもここまでだ、というくらい粘って、午後5時。内田家を出る。菖蒲は渋ったが、何より桔梗と顔を合わせたくなかった。
丁寧に礼を述べると、結歌はドアを閉め、マンションの通路を歩き始めた。
「・・・・・」
通学用のカバンを両手に抱いて、普通に歩いていた足は自然と早くなり、しまいには全速力で駆け出す。ベランダ伝いに下りられたら一番近道なのに、と思う。見知った顔も無視して2階ぶんの階段を疾走し、自分の家の玄関が見えても安心はできなかった。
「ハッ・・・ハッ・・・」
今にも使いの声が背後から聞こえそうだった。
自分の置かれた状況を忘れたわけではない。たとえ一時でも、休息と呼べる時間を与えてくれた菖蒲には頭が下がる思いだった。
ノブを手にすると力任せに引き、身体を中へ滑り込ませる。後ろ手でそれを閉める。
ばたん。
「はぁ───っ」
玄関に背をもたせ深々と息を吐いた。そのままカバンを投げ出し、その場に座り込む。
(逃げたってどうにもならないのに)
それはわかっているが、使いから逃げるのはすでに条件反射と化してしまっているのだ。使いは結歌がここに住んでいることを知っている。逃げても意味がないように思う。
どうすればいい?
逃げられないことはわかる。けど使いと対面するなど、考えただけで寒気がした。全身が凍りつく感覚を、今も鮮明に思い出せる。
使いの目的はわかっている。レクイエムだ。
完成させろ、と言いたいのだろう。
(書いていいのだろうか)
もし、その後・・・。
(・・・あれ・・・?)
ふと、何かを全く別件のことが思考をよぎった。
家に入るまでの手順で、何か足りないものがあったような気がする。
(・・・私、鍵開けてない)
鍵はカバンの中にあった。玄関を開けるにはそれが必要となるはず。
その時。
「帰ってきたのに『ただいま』もなし? 躾けがなってないわね」
よく通る声がキッチンから聞こえた。Tシャツにジーンズというラフな格好の女性が姿を現した。
「茅子さん・・・っ!?」
「おかえりなさい」
落ち着いた優しい笑顔で迎えてくれたのは、この家の主・中村茅子だった。
「どうして・・・っ? 確かしばらく帰れないようなこと言ってたじゃない」
茅子がここにいることに驚いた内容の言葉ではあるが、実際はしゃいでいるのは誰が見てもわかった。
「まだ仕事の合間だけどね、ちょっと暇ができたのよ。それで帰ってきたの」
「とか言ってー、実はプロジェクトから外されたんじゃないですかぁ?」
「安心しなさい。あと5年はそんなことにはならないわ」
おほほほほ、と声をたてて笑う。そんなことをきっぱりと発言するあたり、やはり彼女は大物と言えるだろう。
結歌をリビングに招き入れると、茅子はいそいそとお茶の準備に取りかかった。
そんな茅子の後ろ姿を久しぶりに見た結歌は、なんとなく幸わせな気分になる。
自室に入り手早く着替えて、もう一度リビングに戻った。
「何かあったの?」
茅子の声に顔をあげる。ぎくっと思ったのは、ちょうど使いのことを考えていたからだ。
「え・・・どうして?」
「元気が無いようだから」
コーヒーカップを二つ、テーブルの上に置いて、茅子は結歌の向かいに座った。真正面から顔を覗き込まれると、結歌は目をそらせない。ここで視線を外したりしたら、はいそうです、と言っているようなものだ。しかし事実、何かあったわけだから、結局茅子には表情から読み取られてしまった。まだまだ修業が足りない。
「桔梗くんと喧嘩したとか」
「それは日常茶飯事。・・・そういえば、昨日ひさびさにあやめちゃんの部屋に泊まったんだけどね」
「・・・・」
茅子は意味ありげに笑って口をつぐんだ。話をそらそうとしたのがわかったのだろう、この話にはのってこなかった。
下手な言い訳は茅子には通用しない。いや、もしかしたら納得したふりをするかもしれない。どちらにしろ彼女は見抜いている。
結歌の唇が何か言い掛ける。しかし声になるまでに思い止まり、それをやめる。一度頭を振って、今度こそ結歌は口を開いた。
「・・・茅子さんの弟って、どんな人でした?」
茅子は不審の眼差しで結歌を見る。上目遣いで少し考え込んだ。
それが悩みの種であるとは理解しがたいが、あながち無関係でもないのだろう。
「ずいぶん、あまのじゃくな質問のしかたねぇ」
「・・・・」
茅子の弟とは、早く言えば中村智幸のことだ。つまり結歌は自分の父親のことを尋ねたのである。
「そうねぇ。大人しかったかな、あれは。でも自分の意見を持ってるやつだった」
淡々と語り始める。
「勉強は中の上、運動はだめ。部活も文化系だったし・・・。そうそう、智幸が芸大に行きたいって言い出した時は大騒ぎだったわ。両親は寝耳に水で、普通の大学に進学するものと思い込んでいたから大慌てで」
その時、すでに茅子は東京に就職していたので詳しい経緯は知らない。
しかし両親の頭ごなしの反対ぶりに見兼ねて、
“私からもひとこと言ってやろうか?”
と言ってみた。
すると。
“いいよ。自分で説得する”
当時、気が弱いと思っていた弟の迷いの無い言葉に、茅子は感心したものだった。
よく喋る人は、それと同じくらいいろいろと考えている。
大人しい人は、喋る代わりにいろいろと考えている。
「周りが思ってるより、全然強い子だったわけよ。・・・・結歌は智幸のこと、あんまり覚えてない?」
「うん・・・」
脚光を浴びていた結歌から、いつも目を逸らしていた。嫌な顔をする。
そんなことくらいしか覚えてない。
今思えば、智幸は知っていたのだ。結歌が「彼」の生まれ変わりだということを。
それが結歌に対する態度と、どう関わっていたかは知ることはできない。
「・・・茅子さん」
「ん?」
「私、ずっと・・・誰にも言わないでいたことがあったの。本当に、今も、誰にも喋ったことなんかなかった。・・・だけど、そのことをお父さんは知っていた。それが、つい最近わかったの」
それでも智幸は何も言わなかった。一体何を思って、智幸は結歌を見ていたのだろう。
「・・・ずいぶん強固な秘密を持ってたのねぇ」
あえて内容には触れずに、茅子は答える。ここで重要なのはその秘密のことではなく、結歌の智幸に対する見方なのだ。
「結歌に智幸の記憶がどう残っているか知らないけど・・・。智幸は結歌のこと、ちゃんと愛してたよ」
この台詞に前後のつながりは無い。しかし茅子は、結歌が一番覚えていたかった記憶を、そっと教えてあげる。こういうことをはっきりと言葉で言えるのは、よほど無知で純真な人間か、それなりの年月を生き視野の広い人間かのどちからであろう。茅子はもちろん後者である。
結歌には忘れてしまうほど遠い日のことだけど、必要な思い出であるはずだ。
「・・・・そう・・だった?」
あまり鳴っとくしていないような、それでも智幸に対する見方の明らかな変化が伺える結歌の声に、
「そうよ」
首を縦に振って、茅子は微笑んだ。
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