キ/wam/CHOR
≪3/9≫
1977年11月。
私立森都芸術大学はG県の東端の街に位置している。学部は大まかに音楽学部と美術学部の二つに分かれ、レベルがそこそこなだけにつまらない競争意識も無く、のんびりとした校風だった。歩いて十分の所にちょっとした山があるので、美術の学生は写生を口実に授業中に山を登る。音楽の学生は隣りの消防署の吹奏楽団と演奏会を開いたりもした。高度経済成長期と呼ばれるこの時代、そんな慌ただしい世の中とは別世界のように和やかに、学生たちは皆、それぞれの学びたい事を学び、最後の学生生活を満喫していた。
後に、この時期は平和だったと中村智幸は悟ることになる。
そう、あの日までは───。
「音楽って人に教えるものじゃないと思う」
この言葉が、全てのはじまりだった。
明日に学祭を控えた森都芸術大学では、構内の至る所で学生がひしめき合っていた。中村智幸のクラスもその例外ではない。今頃彼のクラスでは明日の準備が着々と進められているはずである。それにも関わらず手伝いもしないで智幸が食堂で一服しているのには訳があった。
「ツカイ」は二日前に現れた。
黒い服と鍔の広い黒い帽子、そして三日月を象った錫杖と黒いマントをなびかせて、「ツカイ」は降り立った。智幸の目前に。
最初はただ驚くしかなかった。妙な格好の人物が自分の前に現れたこと、そして「ツカイ」が自分以外の人間には見えないということに。
人間ではない、というさらなる驚愕は三十分で消えた。
他の人間に見えないという事は、自分が何を言っても無駄だということだ。下手に騒げば精神病院送りになりかねない。なにより「よろしく」と言った「ツカイ」の笑顔は害があるようには見えなかった。事実、三日目に入った今日まで「ツカイ」は特に何をするでもなく、智幸の言動を眺めているだけである。自身、生活に支障があるというわけではないので、「ツカイ」の目的をただ探っていた。
守護霊ってこんな感じのものかもしれない、と呑気にも思い始めていた。
ただし、智幸の周りからの評価に「独り言が多い」という項目が付け加えられつつあるのは致し方ないことである。
「誰もが感じられる感覚。何かが動けば音がする、音が集まれば音楽になる。この自然から、絶対離せないもの。教わらなくても誰もが持ってるもの…」
窓の外を眺めながら中村智幸は言う。それは「ツカイ」に向けられた台詞であるが端から見れば独り言以外の何ものでもない。三日目に入り、周りの視線も気にならなくなっているのか、智幸はしっかりした声で言った。
「だから、“音楽”なんて科目は必要ないんだ」
「ツカイ」は笑ったようだった。否定する証拠をあげるかのように、智幸の手元にある資料を指差す。
「…それなら教師じゃなくて、作曲家とかになったら?」
その資料には「教育実習の手引き」と書かれていた。鋭いところをつかれて智幸は黙るしかない。
つい先週、智幸は卒業後の進路調査を提出したばかりである。第一志望は「教員」だった。
「僕に才能はないよ」
首を傾げて苦笑する。しかし次に続く言葉は意外なほどはっきりとして、迷いの無い表情だった。
「そういうわけだから、僕は、力をもった音楽家を世の中に送り出せる、指導者になりたいんだ」
この台詞を諦めが良いと取るか、それとも自分の力をわきまえていると取るか、もしくは都合のいい言い訳と取るかは意見の分かれるところだ。「ツカイ」は少し考えてからこう結論づけた。
「…消極的なんだ、けっこう」
畳み掛けるような「ツカイ」の一言に、智幸は心を読まれたかのような動揺を覚えた。そして言い訳するかのようにまくしたてる。
「あきらめは大切だよっ、かのブラームスも言ってる。『私たちはもう、モーツァルトのように美しくは書けない』…ってね」
「──────」
苦し紛れの引用だったが、予想以上にその台詞は「ツカイ」を黙らせた。智幸が予測していた反論は返ってこない。
「ツカイ」がその引用に反応したことに智幸は気付いてない。テーブルに座って頬杖をついたまま、智幸に何か言いかけて、そしてやめた。
右手に持っていた錫杖をこつん、と自分の頭に当てる。言いかけたことは「余計な事」なのだ。
───まあいいか。それはまた別の話だから。
はあああぁぁぁ、と、わざとらしい溜め息をつき、意地悪そうな目付きで智幸の顔を覗き込んだ。
「私もそれ、聞いたことあるけど、確か続きがあったよねー?」
ぎく、と智幸が呟く。さらに追い打ちをかけるが如く、「ツカイ」はすらすらすらと言ってのけた。
「『私たちはもう、モーツァルトのように美しくは書けない。───でも、彼と同じくらい純粋に書くよう、努めてみることはできる』」
あきらめはしない。たとえ追い付けないと分かっている相手がいても。
(彼だけは特別だから。天に才能を与えられた「神童」、格が違う力)
「ツカイ」は隣りでテーブルに座っているのでに見下ろされるようなかたちになり、その視線に智幸は返答に窮した。勝ち誇ったような「ツカイ」の表情に、いじめられているとしか思えないのは自分の発言が不発に終わったことへの八つ当りかもしれない。しかしここにきて少しばかりの抵抗を試みたのはある意味立派ともいえよう。たとえそれが無謀なことだとしても。
「えーと…ほら、ブラームスも才能があったってことさ。モーツァルトに劣ったとしても」
『才能』。
智幸の言葉はもう少し続く予定だったが、そこで途切れることになる。何故なら。
「なーかーむーらー…。おまえ最近ヤバいよ、その独り言」
「…服部っ」
いつのまにか人が近付いていた。ここは食堂なのだから当然といえば当然のことなのだが。
そこにいたのは同じ学科の人間、服部克雄だった。怪しげな視線を遠慮なく智幸に投げ掛けてくる。そう、彼らから見れば智幸の今までの台詞は全て、相手がいない会話、つまり独り言なのだ。
「どうしてここに…」
「どうして、っておまえ」
「お昼、食べにきたのよ。今更だけど」
さらに服部の後ろから同じく級友の小沢千絵が現れた。トレイを片手に智幸に歩み寄る。皮肉を込めて芝居がかった台詞を言った。
「誰かさんが手伝わないおかげで、作業進まなくてさぁ」
「はははは…」
智幸は笑うしかない。乾いた声が響く。
しかし二人とも悪意があるわけではない。そのことは智幸も分かっている。一応心配してくれているのだ。
「まぁ、おまえには明日のシフト、多く割りふっといたから。後で当番表、見にこいよ」
「久石くんが、中村の腕で客ひこう、って言ってたよ」
「…それ、自分がサボりたいだけだろ」
ありがたい友情、承っておくよ、と智幸は半ばうんざりしながらかたひじをついて笑う。
森都芸大、音楽学部作曲科は人数が少なく1クラスしかない。そのぶん団結力がありこのような行事のときはかなり盛り上がる。明日の企画は毎年恒例の喫茶店。BGMはピアノで基本的にクラシックなのだが、それをどう怪しく編曲するかは弾き手の腕しだいである。
「いい人達じゃない」
二人が去った後、「ツカイ」が言った。
「まあね」
しかし…と智幸は考える。智幸の妙な噂話は本格的に広がりはじめていた。それらの全ての現況は、今隣りにいる、この人物なのだが。
何者なのか、ということさえ、もうどうでもよくなっていた。
当の本人を見ると、うつむいて何かを考え込んでいた。珍しいことである。少し間があって、智幸の視線に気付くと顔を上げて、誤魔化すように笑った。
「……あのね」
少し迷ってから、「ツカイ」は口を開いた。
「は?」
「“才能”って、どういうことか知ってる?」
級友の二人が来てくれたおかげであやふやで終わらせることができた、と智幸が思っていた話題を持ちかけられた。あからさまに智幸は嫌な顔をする。
「…また、その話?」
「真面目な問題。さぁ、何でしょう」
「───他の人より、表現力が優れていること…とか」
芸術面なら、そういうことだろうか。漠然とそう思う。所詮、才能なんてものは結果の後に来るもの。努力でそこに伸し上がった人間でも才能があると言われるだろう。
才能の定義。
「難しく考えないほうがいいよ。───あなた達人間は気付いてないことが多いけど、才能っていうのはこういうこと。『宇宙に形無く存在しているものを、この地上に、その手のひらに、引き降ろすちから』のことなの」
「ツカイ」はそう言った。あまりにも簡単に。
「───」
しばらく「ツカイ」の顔を凝視していた智幸は、窓からの風によって我に返った。
(宇宙に形無く存在しているもの───)
智幸は「ツカイ」の言ったことの意味を理解することに思考を傾けすぎていて、重要なことに気付かなかった。
これは「ツカイ」が初めて、教えてくれたことなのだ。この三日間、自分のことは何も言わないで、智幸の行動を見ていただけの「ツカイ」が。初めて教示した言葉。
言い切った。きっと真実なのだろう。人間ではない(と思われる)「ツカイ」が言うと、何となく納得してしまう。
「だから、才能なんてものは、そう誰もが持っているものじゃないのよ」
≪3/9≫
キ/wam/CHOR