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「ただいま…」
 あかねのところに戻った沙都子は力なく椅子に座る。席を離れた時とは打って変わった元気の無さに、あかねはカップを持つ手を止めた。
「どうしたの?」
 その声に反応して、がばっと顔を上げた沙都子の目にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「あーもうっ、彼女がいたなんて予想外だった!!」
「ぶはっ」
 あかねがコーヒーを吹き出す。それは突然沙都子が大声を出したことと、その内容による驚きを表したものだが、とりあえず後者に対しての疑問を返す。
「彼女? …中村に?」
 信じられん、とあかねは内心で呟いた。あの、中村に彼女?
「そうよっ…ほら、隣りにいるじゃない」
 と、中村智幸が座っている方角を指差す。
「え…?」
 あかねのところからだと、智幸の背中しか見えないが近くにそれらしき人物は見当らない。どれ?、と聞こうとしたがそれは沙都子の恨み言に消された。
「ぜったい独り身だって信じてたのにぃ…うぅっ」
 テーブルにうつぶせて、本格的に落ち込んでいる沙都子を見て、あかねは溜め息をついた。
「あのさ、別に沙都子の趣味を疑うわけじゃないけど…そんなに中村って、いい?」
 一応気を使って小声で言う。
 沙都子が上体を起した。あかねは反射的に身構える。しかし、予測した言葉による反撃は返ってこなかった。
 真っすぐにあかねの顔を見て、真剣な顔で一言。
「うん」


* * *


 沈黙。
 突然、空気が凍ったように。
「──────」
 智幸は「ツカイ」が何と言ったか理解するまで、きっかり三秒必要だった。
《智幸は彼女と結婚するから》
 断言。
 冗談だと、受け取ればいい。笑えばよかったのかもしれない。
 だけど。
「ツカイ…?」
 「ツカイ」の顔から笑いは消えていた。意味深な、どこか突放したような表情。冷酷とも言えるような。
 わかった。
 遊びは終わったのだ。「ツカイ」との時間は、ここで終わる。そのきっかけは多分、鈴木沙都子の出現。彼女に「ツカイ」が見える理由。
 それを含めての、溢れてくるような数々の疑問を、智幸は口にできなかった。
(聞かないほうがいい…)
 そんな気がする。
 そうすれば、目の前の人物が何者なのかを、深く考えずに済む。
 しゃらん、と軽い音をたてて、「ツカイ」の手にしている錫杖がなった。
 それが合図だったかのように、笑って先程の発言を続ける。
「それでね」
「…」
 恐怖を覚えた笑顔ははじめてだった。
「子供が一人、生まれるの」
「おい…」
「その子は、歴史に名を残したある人の生まれ変わりで…きっとすごい才能を持って生まれてくる」
 『才能』──────。
 才能の定義とは。それをこの「ツカイ」は何と言った?
 「ツカイ」はどんな目的でここに来たのか。何の為に、中村智幸の所へ。
 頭の中に生じるのは疑問ばかりだ。自分が分かっていることなど、ただの一つもない。知らなくてもいいのかもしれない。わからなくても、これからも普通の生活が続けられたかもしれない。
 中村智幸の予感は当たっている。
 これは自分の人生を変える出来事なのだ。
「私、その子を、殺すかもしれない」
 その一言が、智幸の沈黙を終わらせた。
「ツカイっ!!!」
 周りの視線など考える暇もなかった。智幸は大声で叫ぶ。たったその一言で呼吸が乱れて肩が震えた。
「…」
 叫んでおいて、後の言葉が出ない。言いたいことは沢山ある。沢山ありすぎて、思考が混乱して何から聞けばいいのかわからない。
 寒気がした。怖いのだ。「ツカイ」が。
 ふっ、と笑う声が聞こえた。
「私、もう帰るよ」
 「ツカイ」はテーブルを下りて立つ。突然の別れの言葉に智幸は意表を突かれた。
「一応目的があってここに来たけど、智幸の言葉でそれももうどうでもよくなった」
「え…?」
 智幸の言葉。
 「ツカイ」が一歩離れた。「帰る」のだ。そのせいでまた一つ増えた疑問を深く考える余裕もなくなった。
「…おまえ、何者なんだよ? どうしてここに来た? 『殺す』って何だよっ? ツカイっ!!」
 「ツカイ」の足が止まる。智幸の大声に、さすがに周囲の学生たちはざわめきはじめたが、本人の耳には入っていなかった。
「…一つだけ、教えてあげる」
 智幸を巻き込んだ代償として。関わった者への当然の権利、知るということを。
 一つだけ教える。
 生まれてくる子供の前世。
「W・A・M──────」
 ダヴリュー・エー・エム。
 神の名を与えられた者。再びこの大地を踏むために。近くよみがえる。
「…?」
 何を言われたか分かっていない智幸を見て、もう一度微笑む。
「さよなら」
 音も無く、「ツカイ」の体が宙に浮いた。
「今度はあなたの子供に会いにくるけど…智幸に逢うことはもう、ないから」
 もう逢うことはない。
 その意味を、この時の智幸には察することができなかった。
 そして、その黒い影は消えた。
 ここまでだった。
 中村智幸は十分ほど、その場に立ち尽くしていた。
 少し遅れて、校庭の木の上から食堂を見下ろしていた、白い影も消えた。

 これが、1977年11月。中村智幸の身に起こった出来事。人生をも変えた三日間だった。

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