壱//Stratosphere
薬姫-壱

pro. 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9.



 医王(いおう)矢矧義経(やはぎよしつね)
 彼の名声は、20歳代後半から、臨床薬理学会において、自らの研究成果を発表、数々の表彰を受けたことから始る。元々、独国の大学で研究員をしていた矢矧は、仕事以外でも製薬の研究を行っており、帰国後に日本でそれを発表したのだ。独国は矢矧を契約違反だと非難したが、半年後にはそれを撤回した。矢矧の頭脳を裁判に煩わせる医療的損失は計り知れないものになると、日独が合意したからだった。
 矢矧は帰国後、一人の薬理学者と出会う。それは国薬連の名も無い会員の一人だったが、二人は研究理念において深く意気投合し、共に研究を行うようになった。新薬の開発や既存薬の改善、副作用による医療事故の見直し。たった数年で数々の偉業を成し遂げた矢矧に、世間は異名を与えた。
 「医王」。
 医王とは仏教で仏(薬師如来)を意味する。医者が病人を救うように、仏が人々を救うことからの喩である。
 その大層な異名を受けた当人は鼻で笑っていた。そんなものは関係無いとでも言うように、矢矧は次々に斬新な成果を学会に提出していった。矢矧は時間を惜しむように研究に没頭していた。
 30歳になった矢矧はひとつの研究室を任された。が、彼は少々ワンマン過ぎるきらいがあり、周囲の無能さを嘆き、それを辛辣な言葉で公言して憚らなかったので、他の研究員らと衝突が絶えなかった。そのいざこざが起こる度に、相棒である薬理学者が間に立ち、双方を収めていた。この薬理学者は、一般研究員からは尊敬されており、矢矧からは「無能ではない」と高く評価されていたので、この人物に間に入られると矢矧も研究員も引くしかなかったのだ。
 この薬理学者は矢矧と同様に優秀な化学者だった。加えて温厚な性格と鋭敏な感性。仕事は誰よりも熱心で、探究心旺盛、化学者としての直感的な理論の組立や閃きに富み、矢矧からも信頼されていた。矢矧の才能を妬むことも臆することも無く素直に認め、常に矢矧を助け、共に高め合ってきた。
 しかし2年後。矢矧は相棒を失う。
 薬理学者が殺された。薬殺だった。
 矢矧は、泣き伏したという。
 そして数ヶ月後。
 矢矧義経は世間から姿を消した。




 重要な役割を果たしていた矢矧研究室の中核を成す2人が消え、学会は騒然となった。
 矢矧に心酔していた善良な一部の研究員たちは同情の念を惜しまない。「矢矧は信頼していた相棒を奇しくも薬殺という形で失い、自らを嘆いたのだろう」
 しかしごく少数のあまり善良でない者たちは以前から気づいていた。
 優秀な頭脳は狂気を孕んでいたことを。


 薬には2種類の意味があることは誰でも知っている。
 病気や怪我を治療したり、健康や生命の保持・増進に役立てることが目的の医療薬。
 それから、殺虫剤、農薬など、主としてその毒性を目的に、生物体に作用させる毒性剤。
 やっかいなことは、それら2種類の区別が必ずしも明確ではないことだ。
 例えば、「阿片」。これは太古の昔から万能薬として使われていた。鎮痛、鎮静、呼吸抑制など、うまく使えばこれほど有効な薬はない。阿片の主成分であるモルヒネは現在も医療現場で多く使われている。
 ところが水パイプで吸煙すると、フワフワしたような、夢を見ているような幸せな陶酔感が得られる。これが中毒へ導く原因であり、繰り返し吸煙していると依存性が生じてやめられなくなる。
 表裏一体。紙一重。
 そんな危うさので、ヒトは薬を服用しているのだ。
 そして表裏のうち、「裏」を生業とする者もいる。
 とある起業家が矢矧義経に話を持ちかけた。
 地下研究施設と設備、人員をあてがうと。
 表向きは小規模の薬品製造会社。実際、全体の4割は医薬品の新薬研究開発を行っており、実際、世間にも名が通っている。しかし残り6割は、人体に悪影響を与え、しかも非合法に需要のある製薬を行っていた。つまり、麻薬や毒劇物だ。
 矢矧に話を持ちかけた起業家はすでに販売ルート(パイプライン)をいくつか確保しており、その筋にとって、この起業家と矢矧の提携は衝撃的なニュースとなった。
 警察や厚生省の一部の役人は、ダークサイドの不穏な動きを捉えてもどうすることもできなかった。起業家の販売ルートは既に深部にまで到達しており、彼らを摘発すれば歪みが生じ、新たな火種を産むことは必至。余計な抗争を招くよりは現状維持を、という保守層の選択の結果だった。

 約半数の関係者は事態を悟り、戦慄く。
 矢矧義経は良心から医薬開発をするような人格ではなかった。その頭脳を用い、好奇心を満足させる手段なら何でも厭わない。そんな良くも悪くも化学者根性を持った人間だった。
 今は高校生や中年サラリーマンでも合法ドラッグに手をつける時代だ。ちなみに合法ドラッグとは、法的に認められているという意味ではない。取り締まる法がないという意味である。
 海外から供給するしかない現状だから、これだけの被害で済んでいるというのに、麻薬が国内生産されるようになってしまったら、どんな未来が待っているというのだろう。


 そう、医王・矢矧義経の伝説はここから始る。
 矢矧は毒に手を染めた。








 1.
 矢矧には2人の「姫」がいる。
 それは80名を越える所員全員が知る事実だ。
 所員の中には、矢矧のことを影で「医王」と呼び、「姫」の存在を皮肉る者が少なからずいた。
「矢矧は薬師如来を気取りたいのさ」
 薬師如来は2人の脇士を従えている。
 日光と月光。
 矢矧の2人の「姫」のうち、どちらをどう当てはめるかは個々それぞれだったが、この揶揄は当人以外の所員全員に通じる。矢矧はもしかしたら誰からか噂で聞き、それを面白がっているかもしれない。元来、化学者なんて人種が信仰する宗教は「科学」だけで、特定の神を崇める化学者など聞いたこともない。だから薬師如来などという仏の意義を正しく捉えている者など、おそらくいないだろう。
 それでも医王・矢矧義経の両脇に控える彼女らは象徴的で、2人とも一風変わった才媛だったので、所員らの間では良い意味でも悪い意味でも噂の的だった。







 一人は、わずか8歳の少女「薫」。
「フェーズ1の目処が立たないなら私がやる。書類をまとめておけ」
 室内をテキパキと小気味よく動く小さな人影がある。
 偽りでは無く、薫は本当に8歳の子供だ。平均年齢34歳のこの所内において、当然、最年少。その薫は自分の年齢など物ともせず、ひとつの班の長にあり、黙々と仕事をこなし、テキパキと周囲に指示を出す。所員の中には「子供に上司面されるなんて」と敬遠する輩もいるが、同じ班の研究員たちは、薫の、年齢にごまかされない実力を知り、心から認めていた。
 それでも当然のことながら外見は小さな女の子で、140cm弱の身長に、肩の上で切りそろえられている褐色の髪。成熟にはほど遠い体つきで、小さな手は器用に実験器具を扱う。ときにそれは、周囲の目に危なっかしく映る。薫は一丁前に白衣を着こみ、どういうわけかそれが板についていた。
「フェーズ1の目処が立たないなら私がやる。書類をまとめておけ」
「ちょ…っ、馬鹿言うな、薫っ」
「1005番は私がつくった薬だ。新薬治験志願者が現れないなら、責任を取れるのは私しかいない」
 大の大人を蹴散らす命令口調は矢矧の影響らしい。それは決して、大人ぶっているわけではなく、薫には見識と分別が備わっており、さらに子供とは思えない程の知識量を持っていたので、そんな口調が身に付いてしまったのも仕方ないと言える。
 薫は、かつての矢矧の相棒・「芳野博士」の一人娘だった。矢矧と芳野がまだ表舞台で活躍していた頃、芳野は母親のいない薫を矢矧の研究室によく連れてきていたらしい。
「芳野から聞いた話じゃ、初めて口にした言葉らしい単語が『H(水素)』だったらしい。あいつが死んだ時、薫は4歳だったけど、化学式扱うより日本語喋るほうが不自由だったもんなぁ」
 と、矢矧がその異才ぶりを語ったことがある。
 その、当時4歳である相棒の娘を引き取り、矢矧は世間から隠れるように、ここに拠点を移した。はじめのうち薫は矢矧の仕事を参観しているだけだったが、3年後、薫は実務に就くようになって、さらに1年が経過した。その間、薫はずっとこの地下研究所で暮らしている。
「本当は治験志願者なんていらない、薬効は保証できるんだ」
 白衣の裾をひるがえし、悔しそうに爪を噛む。臨床試験の志願者が現れず、研究が進まないことに薫は苛立っている。早く結果を出すためなら、自分が薬を飲む。薫はそう言っているのだ。
 班員のひとりが声を荒げた。
「そういう問題じゃない! 自惚れるのも大概にしろ」
 他のひとりがフォローに入る。
「正規の開発手順を踏めない研究者は優秀とは言えませんよ」
「そうだそうだっ。臨床試験の対象は成人健常者だってことくらい知ってるだろ! いくら作ったのが薫だからって、治験やるなんて、15年早ぇ」
「そうですよ。GCPにも引っかかります。それに、矢矧さんはその1005番の臨床試験より先に、998番のほう、早く仕上げろって言ってましたよ」
 急いでいるのは薫だけだ、と言外に匂わせて説得を試みる。矢矧の名を出せば少しはおとなしくなるだろうと踏んだのだが薫は鼻で笑う。
「998番なんてあんな毒性の強いもの、実際ヒトに使うわけないのに、何のために作るんだ? 自己満足したいだけなら、矢矧も人の上に立つのには向いてないな」
 腕を組んで吐き捨てるように言った。何のために作るんだ? という薫のセリフに、班員たちは気まずくなってうつむいたり、言葉を濁したり、わざとらしく宥めたりする。
 彼らは、矢矧が薫に作らせた毒性の強い薬を何に使うのか、よく知っていた。矢矧による無言の口止めがあるので薫に言うことはできない。薫に事実を言えないのは良心が痛むが、矢矧を裏切ればどうなるかも、全員がよく知っていた。
 薫は大人顔負けの頭脳と知識を持っている。それらに付随する道徳や倫理観もある。しかし彼女は現在8歳で、4年前から外へ出たことがない。幸か不幸か、薫が興味を持つ仕事は所内にあるので不自由を感じていないようだが、一般の人間が持つ善悪と関わる経験が絶対的に少ない。
 そして何より、純粋な悪意が存在することを、薫は知らない。矢矧が実際行っていることを理解できないのは仕方ないと言える。
 化学式を操りパズル感覚で仕事をこなす薫には、毎日が手応えを感じる充実した日々だった。






 もう一人の姫は柳井恵。18歳。
 恵はいつも「ひつじ」という名の熊のぬいぐるみを抱いている。
 長い髪をふたつ三つ編みにして、いつも白い作業服と白いスニーカーで、ひつじをギュッと抱きしめ、背中を丸めて歩く。その姿はかなり異様で、薫とはまた別の意味で目立つ人物だった。
 時々、怯えているような挙動不審な態度。機嫌が良いときはへらへらした笑顔で明るく喋るが、下手に話しかけると突然怒りだし大声を出す。日にもよるが、ひつじを胸に抱きしめたまま、薄ら笑いでぶつぶつと何やら呟き、床に座り込んでいることもある。不気味だ。そう評した職員がいるが、きっと正しいだろう。
 その日、恵は所内の食堂で、ひとり端の席に座り、買い込んだパンを黙々と食べていた。そのパンを少しちぎり、いつも一緒にいるひつじの口に添えたりしている。足をぷらぷらとさせ、外見はハイティーンなのに、その様子はまるで小さな子供だった。
「恵、またキズ増えてないか?」
 後ろから他の職員数人が覗き込む。
 白いツナギの袖をまくった恵の左手首には無数の傷があり、それについて職員は言ったのだ。一際、赤く、生々しい傷がある。その様子がまだ新しいものだと語っていた。
「んー? うん。昨日」
 恵はケラケラと笑いながら答える。
「おい、またかぁ?」
「矢矧さんに怒られるよ?」
「もー怒られた。でもね? クセなんだもん」
「は?」
「だって切るとね、プチプチするのよ。血管とかね。おもしろいよ? ヒフの断面とか観察したいんだけど、血が溢れてきちゃうから見えないの。綺麗な色でぞくぞくする。それに、それにねっ? 切ったところから、体のなかの汚いものがみんな出ていくの。体のなかが綺麗になる。すごく気持ちいいの」
 頬を染め、ワクワクしながら嬉々として説明する恵の台詞に、
「やめろー!」
 と周囲が耳を塞いで悶える。背筋が寒くなる話だ。
「ホントホント。ナイフ見る? お気に入り」
 さらに説明を続けようとする恵を周囲は押しとどめる。その反応が不服なのか、恵はぷんと顔を背けてしまった。
 自殺志望者ではない。恵はリストカット症候群だった。
 左手の白い手首に残る傷はすべて躊躇い傷であるし、本人が死にたい程、悩んでいる姿も見たことがない。恵も薫と同様、所内で暮らしているが、どうやら夜、自室で手首を切っているらしいのだ。古いものはもう数年前になる。
「やっぱ、おかしいよ、あの子」
「何をいまさら」
「恵の部屋って、壁に血文字が書かれてるんだって。噂だけど」
「マジか? 気持ちわりぃ〜」
 通りがかりの職員が本人に聞こえる声量でおぞましそうに口にしたが、恵は背中を向けたまま、相変わらずひつじに食べものを与えたり話しかけたりしていた。幸せそうに笑いながら。
 柳井恵は、5年前まで普通の学生だった。両親がいて、友達がいた。
 何が原因だったかは知らない。ある日、一家心中が行われ、恵はそれに巻き込まれた。毒だった。
 病院に運び込まれた時、息をしていたのは恵だけで夫妻は死亡していた。偶然その病院が矢矧研究室の近所だったために、その筋の専門ということで矢矧と芳野が呼ばれた。
 5日間、恵はベッドの上で一睡もしなかった。瞳孔はまばたきを忘れるまで開き切り、喉は干からびるまで萎れ、暴れるあまり全身に擦過傷ができた。拘束具を付けられたが今度はベッドごと床に倒れた。ようやく眠りについたとき、恵の体重は10キロ以上減少していた。
 そして7日後に目を覚ましたとき、恵は精神に異常を来していた。
 薬の毒性が神経を冒したんじゃない。
 毒と闘い、もがき、髪をちぎり取り、絶叫して苦しみ抜いた5日間が、精神を蝕んだのだ。
 毒に勝利した代償だった。
「恵こそが、現代のラスプーチンだね」
 と、矢矧は笑う。
 以降、矢矧と芳野に引き取られた恵は、そこで4歳の薫と出会う。芳野が死んで、恵もまた矢矧に連れられて、ここへやってきた。
 恵は自分を冒した毒薬に興味を持ち始め、自ら学ぶようになった。薫ほどの能力は無いが、薬の目利きや調剤、実験などできるくらいの知識はある。しかし、他職員と会話が成り立たないことが多く、その知識はあまり実務に用いられていない。それでも薫と同様、恵はひとつの班を仕切る役職を与えられていた。




*  *  *




 この研究所で働く職員は皆、何かしら覚悟を決めた人間達だ。
 矢矧、恵、薫、と同じ初期メンバーの数十名は、学会で注目されていた矢矧を尊敬し盲目的についてきた者たちだ。他は世捨て化学者や、現代社会に恨みを持つ者、興味が無い者、単に「薬」という儀仗を手にしたい者などそれぞれ。そして全員が、「ヒトを傷つけられない」という良心を捨ててまで、ここに居たい理由、もしくは事情を持つ者たちだった。
 この研究所は、起業家が持つ工場の地下にあり、B1からB3に80名ほどの職員が働いている。当然、窓は無く日の光が入る余地はない。宿泊部屋もあり、幾人かの職員はこの地下に定住しているが、全く外に出ないのは矢矧と恵と薫だけだ。その通り、太陽の下を歩けない業種なわけだが、よく気が狂わないものだと、職員達は冷やかしていた。
「あの姫さんたちは、矢矧の最大の武器だね。もしくは道具(ツール)でもいい」
 と、ある者は言う。
「薫は芳野博士の一人娘。生まれたときからその知識を叩き込まれた英才教育の天才少女」
 薫はひとつの化学反応について考えない。「考える」より先に理解している。呼吸と同じように、すんなり、自然にそれを受け止め消化することができる。もちろん、下地となる知識があるからだが、この存在は貴重だった。
 一度の試験に1週間もかかり何百万円もする調剤シミュレーションソフトを買って、それを動かす高いパフォーマンスのマシンを用意するより、薫一人の頭脳のほうがはるかに効率が良い。それは頭脳というより、ひとつの感性だ。公式通りの化学式ではなく、その自然現象を見抜く目がある。まさしく薬師如来の申し子、浄瑠璃姫だ。
「恵のほうは死にかけてからは、毒素に対する耐性がついたみたいで、どんな薬も効かないってさ。その免疫力を調べるって、矢矧にモルモットみたいに扱われてたこともあった」
 どんな毒素にも耐性がある、という恵は、誰より冷静に「毒」を作ることができる。指先で操るものにビクビクする必要はないからだ。普段、まったく仕事をしない恵を侮っている職員は多いが、それは大きな間違いだ。
 医王・矢矧義経は、自らの両脇に強い武器を携えていた。








 2.
 ある朝、恵の自室に2人の男が現れた。
 恵の部屋の鍵を持つのは、恵を除けば矢矧一人。それなのに黒い服を着た見知らぬ男が現れ、恵は狼狽えた。ベッドの上に座っていた恵は咄嗟にひつじを抱きしめる。
 男2人は恵には見向きせず、視線を散らしていた。何かを探しているようだった。
「おい、あれだ」
 一人が言う。2人して恵のほうを向いた。恵はビクッと肩をすくませた。
 男は恵のすぐ目の前まで近寄り、腕を伸ばす。
「!」
 ベッドの枕元にはナイフが置かれていた。刃渡り20センチほどの両刃だ。柄の部分は金色で西洋的な細工が施してあり、鍔は刃にそって長方形をしている。古風なペーパーナイフを大きくしたようなデザインで、ナイフというより剣に近い。このナイフは恵のお気に入りで、恵が自分の手首を切っているナイフだった。男はそれを取り上げた。
「え」
 恵は男の腕を掴む。
「…ゃ、どうして?」
 振りほどこうとする男に必死でしがみついた。
「離せ」
 そういわれても譲るわけにはいかなかった。恵は泣きそうな声で言った。
「やだ…ねえ。どうして? どうして持ってっちゃうの? それ、アタシのだよ?」
 手を伸ばしてナイフを奪い返そうとするが、リーチの長さに敵わない。
「アタシのだよ? 返して…、返してっ!」
 煩わしそうに男は言った。
「矢矧さんの命令だ」
 え? ぽかん、と恵はしばし呆然とする。
「うそ。ヤハギがそんなこと言うはずない」
 ムキになって男を睨む。しかし男たちは冷静に見返すだけだった。恵は弱気になった。
 確かに、矢矧しか持たない鍵を持ち、この男たちはこの部屋に踏み込んできた。
 怒りが込み上げる。
「…っ。───ヤハギっ!!」
 怒声をあげて、踵を返す。恵は裸足で部屋を飛び出した。ひつじを抱きしめたまま走る。
 窓が無い廊下を走り抜けて、息を削りながら、今度は階段を昇る。この階段を急いで駆け上がるとき、踊り場の切り返しで三つ編みが手摺りを叩くのはいつものことで、やっぱり今回も軽く音を立ててぶつかり、昇って、恵は目的の場所へたどり着いた。
「ヤハギっ!」
 ノックも無しに、部屋のドアを開ける。ドアには「所長室」と書かれていた。
 しかし室内に人影は無かった。気配すら無い。
「…っ」
 恵は無性に苛立って、乱暴にドアを閉める。今度は廊下の奥へ進んだ。
 そこは、日常、職員が働いている研究棟で、長い廊下に各班の部屋が並んでいる。班はぜんぶで13あって、恵の所属する9班は左側の奥から2番目にある。今日は思い切りのよい遅刻だが、恵がいなくても9班の仕事に支障は無い。
 ほとんどがそれぞれの部屋に籠もっているため、廊下に人通りは少ない。恵はその長い廊下を睨んで仁王立ちした。
 すぅ、と大きく息を吸う。
「ヤハギ───っ!!」
 高い大声が廊下に響き渡った。ビブラート無しのハイ・キーは気持ちよいほど突き抜けて、エコーが残る。
 さらに恵は叫んだ。
「ヤハギ、どこっ? ヤハギ…!」
 廊下に面するいくつかのドアが開いて、何事かと職員たちが顔を出した。しかしそのなかに恵の探している人物はいない。
「ヤハギ…っ」
「こら、待て」
 やっと追いついてきた黒服の男2人。そのうちの片方が恵の肩を掴んだ。
「さわらないでッ!」すぐにその手を払う。
 喉が千切れたんじゃないかと思うような悲鳴だった。ひつじを抱きしめて、肩で息をして、睨み、男を威嚇する。どうやら恵の逆鱗に触れてしまったようだ。
 こうなるともう手が付けられない。男達は少し動揺した様子で一歩退いた。
 そのとき。
「うるさいよ、お姫さん」
 1班の部屋から眼鏡をかけた背の高い男が出てきた。ワイシャツの上から白衣をひっかけて、目にかかる長い前髪を無造作に掻き上げる。格好はそこらの職員と大差ないが、ここで働く職員は全員、彼に頭が上がらない。彼が矢矧義経だった。
「ヤハギ」
 恵はぱっと威嚇を解いて、矢矧に駆け寄った。
「どうしてアタシからアレ取り上げるの? どうして?」
「“アレ”?」
「あのふたり、ドロボーに来たんだよっ?」
 びしっ、と恵は背後を指さした。
「…あぁ」
 矢矧は恵の後ろに立つ2人の男を一瞥して、納得した様子で首の後ろを右手で掻いた。
「どうして!?」
 睨みを利かせてすがりついてくる恵の頭を、矢矧は優しく撫でた。
「恵。気持ちいいのは解るけど、そろそろ癖、直せ」
 そう言って矢矧は恵の左腕を取る。袖をまくると、白い肌に赤い線がいくつも引かれていた。恵はだからなに?というような視線を返した。赤い切り傷を、矢矧は指でなぞる。
「ほら、成長期も過ぎたから傷が治りにくくなってる。夏場に半袖着れなくなるぞ」
「そんなの気にしない!」
「他の職員に影響が出る。最近、切る回数増えてるみたいだし、取り上げておく。おまえの為だよ」
「ヤハギ…」
 声の勢いは収まったものの、恵はまだ何か言いたそうだ。矢矧は淡々とした声で続けた。
「それから、最近、不安定なようだから、恵に護衛をつけるよ。彼らがそうだ。あまり邪険にしないように」
「───もぉいいよっ」
 恵は怒った素振りを見せて矢矧から離れる。背を向け、背筋を伸ばした。息を吸う。するとまた、長い廊下に向かって叫んだ。
「カオル───ッ!」
 2度目の大音声が響き渡る。
「カ…」
 もう一度呼ぼうとしたとき、バタンッと右側手前から3番目のドアが開いた。そこから小さい人影───薫が出てきて、恨みが込められた視線で歩いてくる。小さな体に妙な威圧感。
 しかしそんなことをまったく気にとめない恵は、
「あれ、カオル、おでこが赤くなってるよー?」
「…恵が馬鹿でかい声で呼ぶから、顕微鏡に額をぶつけたんだ!」
「ありゃ、おきのどくー」
 絶対、発言通りの感情は抱いてないだろうと思わせる様子でへらへらと笑う。薫は恵と、ついでに矢矧も睨み付けた。
「おまえらがじゃれ合うのは構わないが私を巻き込むな」
 矢矧にこんな口を利けるのは間違いなく薫だけだ。というより、これはすでに8歳の子供の発言ではない。
「ほら恵。薫を怒らせちゃったよ」
 と矢矧が言うと、恵はぱん、と手のひらを叩いた。
「そう! 大事(だいじ)なんだよォ!」
「どんな大事(おおごと)でも、5分以上は聞かないからな」
 薫が念を押すと、恵は歯を見せてにかっと笑った。
「あのね。ヤハギとカオルでジャンケンしてみて」
「は?」
 薫が思いっきり不審そうな表情をする。
「今度は何の遊びだい?」
 矢矧は面白そうに笑った。会話の流れに脈絡が無いことは誰もつっこまない。
「いいからァ!」
 この強引さの前には脈絡など要求されないのだ。
「はい、ジャーンケーン、ぽんっ!」問答無用で恵が大声をあげるので、薫は勢いに負けて手を出してしまった。矢矧は矢矧で楽しそうだった。
 勝敗の結果はすぐに恵が口にする。「あ。カオルの勝ちー」
 ぱちぱちと手を叩いた。
「何なんだ一体」
 頼むから説明してくれ。薫はそう言うが、これらの行為に意味を求めるほうが愚かかもしれない。代わりというわけではないが矢矧が言った。
「恵は、ナイフを取り上げられて不機嫌になってたはずだけど、もう機嫌は直ったのかな」
「そんなの、もォ、どーでもいーよー、だ」
 いーっ、と歯を見せてから、くるりんっと恵は踵を返す。
「マルー、アタシのカップにお茶いれてー」
 そう言って、恵は廊下の奥へと駆けていった。ぱたぱたと足音が遠ざかっていく。
「…おい」
 取り残された薫は、膝をついてしまいそうな疲労を味わっていた。隣では矢矧が声をたてて笑う。
 しかし薫も恵との付き合いは4年になる。不本意ではあるが恵の気性に慣れている自分を自覚しているのだ。それに薫は基本的に面倒見が良い。そして恵のことも嫌いではなかった。
 そしてまた矢矧も、恵のあの無邪気さを嫌いではない。
「薫」
 少し落ち着いた声で矢矧は言う。「998番の進捗は?」
「まだだ」
 薫は背中で答えた。
「早く欲しいんだけどな」
「…」
 薫が実務で担当しているのは、「医薬品」に分類される。しかし矢矧はときどき、妙な注文をすることがあった。その「妙な注文」の数は少しずつ増えていき、今では薫の実務の半分を占めるまでになっていた。
 それについて、薫は大層な不満がある。
「幻覚作用を持つ薬のほとんどは依存性を持つ。動物実験ならまだしも、臨床試験まで持ち込むつもりなら、かなり注意が必要になるだろ。例えフェーズの志願者が得られたとしても、あの仕様じゃ脳から壊れるぞ。実用性に欠けるものには興味が無いんだ」
 8歳の外見でそんな台詞を吐く姿は奇妙な違和感がある。しかし矢矧は気にしない。矢矧に言わせれば薫が素晴らしいのは当然だった。
 薫は、唯一矢矧が認めたあの男の、最後に残した秀逸な作品なのだから。
 矢矧は目を細めて笑った。
「実用性はあるよ。きみがその可能性を知らないだけだ」
「何に使うんだ、あんなもの」
「───さぁ。何に使うと思う?」
「くだらない問答につき合うつもりはない」
 薫にはそれらの疑問は大したことではなかったらしい。仕事があるから、と言い残して、薫もまたその場を離れた。小さな体は、恵に呼ばれて出てきた部屋に戻り、扉が閉る。
 ひとり廊下に残された矢矧は低い声で笑っていた。








 3.
 薫が班長を務めるのは、第3班。班員は総勢8名。
 薫を除く7名のうち、女性職員が一人。彼らのほとんどが30代だった。所内には薫の下に就くことを嫌厭する者もいるが、ここでは全員が薫を班長と認め、対等に話し、上司として信頼している。これだけ人が集まれば少しは反乱分子が出そうなものだが、そういう人間は薫が矢矧に言って異動させたので、健全な職場をつくる人材だけが残った。
 その日、薫は朝一番に3班の部屋へ入り、顕微鏡とにらめっこしていた。1005番の臨床試験の見通しが立たないことも気がかりだが、矢矧に急かされている998番を仕上げるための早朝出勤である。
 この間、矢矧に言った通り、薫は実用性に欠けるものには興味が無い。調剤の作業をパズルのように感じハマってしまうことがある薫だが、それが何の役にも立たないものなら面白味は半減してしまう。矢矧の意図を理解しようとは思わないが、目的の無い作業は本当につまらないものだった。
 それでもやらなければならないのが「仕事」というもので、薫は深い吐息をつく。
 部屋の中は机や分厚いファイルがひしめき合っている。今は人がいないのでしんと静まりかえっている。この研究施設は地下にあり窓がないので、朝でも太陽の光は入らない。薫は蛍光灯の明かりの下で作業を進めていた。
「あれっ、薫、早いね。おはよーございます」
 静かだった空気がその一言で揺れた。班員の一人、辻尾が入ってきたのだ。
 薫は集中していた糸が切れて、諦めの溜め息をつく。
「おはよう」
 挨拶を返した。
 実は班員の中でも、この辻尾は薫が苦手としている男だった。歳は(薫が言うのも何だが)所内では若いほうで25歳。目が細く黒髪短髪、その態度は体育会系のノリを持つ。さらに騒々しいというかケジメがないというか。それなりに仕事はできるが、その仕事にもムラがある。薫があまり良い印象を抱かないのも当然だった。それでも文句ひとつなく薫の下に就ける人間は貴重なので簡単に手放すこともできない。やっかいな人柄だ。
「そーだっ! 薫、相談があるんですよ」
 と、辻尾は薫の作業台の方へ近寄ってくる。
「今、忙しい」
 薫は一言で済ませた。
「ちょっと、まずいことが…」
 と、辻尾が真剣な声で言うので、薫はとりあえず手を止め、話を聞く体勢に入った。辻尾は薫のすぐ近くの椅子に腰を下ろした後、キョロキョロと周囲を見渡し、誰もいないことを確認した。
「一体、何なんだ?」
 薫が促すと、辻尾は細い目を近づけ、声をひそめて言った。
「数ヶ月前から気になってたんだけど…」
 その一言で薫は力が抜ける。
「何を言うつもりか知らないが、判断能力ないのか?」
 数ヶ月前から気になっていたことを、今更「まずいことが…」なんて相談されても。
「いや、ホント。マジでまずいことなんです」
 この気負わない性格が所内では貴重なのだが腹が立つときもある。
「さっさと続きを言え」
「少しずつ減ってるんだ」
 と、本当に唐突に辻尾は言った。まったく訳がわからない。本当に薫が言うのも何だが、日本語を勉強し直してきたほうが良いのではないか?
「何が」
 と形ばかりの相槌を返すと、
「842番」
 ボソッと辻尾は呟いた。
 薫は目を見張った。ガタンッと音をたてて立ち上がる。
「───オイっ!」
 息を飲んでしまい、うまく声が出なかった。それでもその声は静かな部屋に響いた。
 朝っぱらから何を言い出すんだ、と薫は毒づきたかった。それさえも声にならない。
 今、この男はかなりの大事を口にしたのだ。それでこの態度、自覚はあるのだろうか。
 ちょっとまずい、どころじゃない。
 842番は半年前の仕事のとんだ副産物で、かなり危険な薬だった。手違いで錠剤の形にまで完成されてしまい、かなりの量が3班に納品された。その危険性から、矢矧を含む外部への公表を控えようと班の中で意見が一致し、処分もできないまま、この室内で辻尾の手によって管理されているものだった。悪あがきとも言えるが、その危険性を訴える意味で、錠剤に特殊な色を付けるように薫が指示を出し、その後はずっと引き出しの中で眠っているはずの薬だが…。
「減ってる、って…」
「矢矧さんには恐くて言えないよ」
 この業界で管理は重要な意味を持つ。管理過失は報告義務があるのだが、前述通り公表しなかった物なので、辻尾は躊躇っていたらしい。
「馬鹿ッ! そんな問題じゃない!」
 薫は容赦なく怒鳴った。
 もちろん、勝手になくなるものでも少なくなるものでもない。誰かが持ち出したのだ。842番の効用を知っている班員がそんなことをするはずはない。
「辻尾!」
「はいっ」
「おまえだって、アレがどういう物か知ってるだろ!?」
 外に持ち出す奴も馬鹿だが、もしアレを誤って飲む人間がいたら、そいつも大馬鹿者だ。見た目からしてヤバイ薬だとわかる色が着いているのに。
 そして842番を誰かが飲んだら、すぐに大騒ぎになる。その「誰か」の死体が出るからだ。
 そのような騒動は起きてないので、まだ誰も服用していない。と、願いたい。所内でそんな事故を起こすわけにはいかなかった。
「紛失した薬の正確な個数を割り出せ。それから行方を追うんだ」
「は? そんな無茶な」
「元はと言えば、辻尾の管理が杜撰なせいだろ! 人死にが出たらおまえのせいになるぞ」
 辻尾は薫の台詞に悲鳴をあげたが、薫は本当はわかっていた。
 管理が杜撰なのは辻尾のせいだが、部下にそんな仕事をさせているのは自分のせいだ。そして、人死にが出たら責任を取るのは薫になるだろう。
 薫はあの薬による死傷者だけは出したくなかった。
 842番の製作者として。








 4.
 柳井恵が班長を務めるのは、第9班。班員は総勢10名。
 ここで扱われるのは、審査を通すための医薬でも裏ルートに流すための麻薬でも、そして毒でもなく、選ばれた候補物質の非臨床試験準備が主な業務だった。他部署により薬効があることを認められた物質を、様々な方法を用いてどのくらいの効果があるのか、どのくらいの強さがあるのか、毒性や安全性などをまとめる研究部門である。
 他部署との関わりが多いため、比較的毎日忙しく、室内は騒然としている。班員は自分の席に落ち着いていることは少なく、実験室で試験具にかじりついているか、他部署に出かけているかだ。
 その中で、班長である恵は、壁際で小さくなって、ひつじを抱き締めたまま周囲の仕事ぶりを眺めていた。これは別に班長として監視しているわけではなく、ぼーっとしているだけだ。観察でもなく、目の前を流れる景色に身を任せているような、そんな空想癖的な雰囲気があった。班員の目から見れば、仕事をしないのは構わないが、一日中、じっとしているその姿は正直ゾッとする、気味の悪いものだった。
 そのような信頼云々以前の問題である班長を抱えるこの9班が、うまくまとまり仕事が成り立たせているのには理由があって、それは副班長の丸山という男の存在だった。
 彼は一研究員としても、もちろん優秀な男だった。が、この9班において彼が何より重宝がられていたのは、矢矧・薫のほかに、恵と実のある意思疎通が可能な数少ない人材だったからだ。
 彼は恵本人にも気に入られていたので、恵と班員の仲介をすることが多かった。さらに丸山本人も、恵に対し臆することなく対話ができる人柄だったので、恵も班員も、希望や要望が丸山を通して伝わり、特にストレスを生むことなく9班は仕事をこなしていた。
 今日は珍しく、部屋の奥でひとり、恵は試薬を扱っていた。ひつじを隣に座らせて、試験管をいくつも並べスポイトで選り分け、いくつもの薬品を混ぜていた。仕事ではない。…ということは、私用で班の備品を使っているわけだが、誰も何も言わなかった。
 恵のそんな姿は本当に珍しい。化学の知識を持っていると聞いていても、普段の恵の姿からはとてもじゃないが想像できない。班員たちは自分の忙しい仕事をこなしながらも、それとなく恵の後ろを通り、何をやっているのか覗き込んだりしていた。全くわからなかったが。
 この日、夜23時。第9班員はほとんど掃けて、室内には、相変わらず調剤に熱中している恵と、書類が積まれた机で事務を行う丸山だけが残っていた。
「恵。今日は終わりだ、部屋へ帰りな。廊下にいる護衛も待ちくたびれてるぞ」
 丸山が振り返って声をかけると、恵の背中がピクッと反応し、ぱっと両手をホールドアップした。指先をひらひらさせる。
「はーい」
 そして、おどけるのにも飽きた様子で腕を下ろし、ひつじを拾い、くるっと椅子を回転させた。
「マル。ちょっとお話しよ。ハンチョー命令!」
 一日中、試験管とにらめっこしていたはずなのに疲れを見せず、恵は明るい声を上げる。部屋へ帰れという丸山の言葉を思いっきり無視した発言だが、丸山は慣れているのか自分の仕事をしながら苦笑した。
「命令じゃなくてもちゃんと聞く」
「じゃ、訊くけど」
「ああ」
「アタシが死んだら、悲しい?」
「……恵の好きなようにすれば」
 背中を向けたまま丸山が答えた。
 すると、恵は込み上げる笑いを抑えきれずに、興奮したように声を弾ませた。
「やっぱ、マル、すごーい! こんなかでアタシのこと一番解ってるのって、マルだよね」
「それは褒めてないだろ」
 と、丸山はあからさまに嫌な顔をする。そうすると恵は大声で笑った。
 突然、丸山は椅子から立ち上がった。机の間を通って恵に歩み寄り、恵の目の前の椅子に座り直した。
「マル?」
 近くから顔を見つめられ、恵は照れもせずまっすぐに視線を返す。
「恵」
 丸山は真剣な表情を向けた。くたびれた白衣の袖を持ち上げ、指さした。
 恵に抱えられているひつじを。
「ひつじ」
「ン?」
「恵の、それ。熊」
「うん、なに?」
「最近、太ってきてるな」
「きゃははっ。乙女に言うかぁ?」
 どうやらひつじはメスらしい。椅子に座ったまま上体を折って、恵は笑い転げた。けれど丸山の表情は変わらない。
 丸山は恵が抱えているひつじの、腹の部分を見やる。
「何、食わせてるか知らないけど」視線を落とす。「おまえは、やめとけよ」
「…マル」
 恵は目を細めて微笑んだ。
「解ってないナ」
 ひつじをきつく抱きしめて顔を並べた。
「ひつじはアタシ。アタシはひつじなの」








 5.
 こつん。
 と、一回のノックの後、恵は返事を待たずにその部屋のドアを開けた。
「ヤハギ。今、おしごとちゅう?」
 その部屋は建物内のどの部屋より狭く、そしてどの部屋より雑然としている。当然、ここも地下なので窓はない。四方は本棚で囲まれ、それにも収まりきらない雑誌や専門書が床に積み上げられている。中央に机があり、パソコンが2台とディスプレイが2台置かれていた。その前を陣取り、ドアに背を向けているのは他でもない矢矧義経だ。ここは所長室と呼ばれていた。
 恵の声を受けて、矢矧は眼鏡をはずし机の上に投げ捨てた。椅子に背をかけ音を鳴らす。大きな溜め息を吐く。それでも、恵に発せられた声は優しく甘い声だった。
「いいよ。なんだい?」
 恵は部屋の中へ足を踏み入れ、後ろ手でドアを閉め、矢矧の背中に駆け寄る。
 そのまま椅子に座っている矢矧の背中に抱きついた。両腕を矢矧の首に回すと、矢矧と恵とひつじ、3人で抱き合っているようだった。恵のそういう行動には慣れているので矢矧は身動ぎもせず、ゆっくり上体を揺らし椅子を鳴らしていた。
 矢矧の耳元で、恵がぽつりと囁く。
「アタシの苗字、なんだっけ?」
「どうしたんだ、突然」
 矢矧の穏やかな声に恵は口端を伸ばしておどけた。
「忘れちゃった」
 恵は薫とセットで語られることが多く、恵の苗字を口にする者はほとんどいない。「恵」と「薫」という呼称が染みついているからだ。どちらかというと、薫の苗字のほうが有名でさえある。薫は、矢矧と相棒だったことで知られている芳野博士の娘だからだ。
「知りたい?」
 矢矧が尋ねる。
 これまでの会話で2人は目を合わせない。それがいつものことだし、普通のことだった。
「教えてくれないの?」
 質問を質問で返したら、さらに質問で返され、矢矧は自分の質問を取り下げることにする。大人しく恵が知りたいことを教えてやった。
「柳井、だよ。柳に井戸の井だ」
「柳井…」
「そう」
「やだぁ、ヤハギと似てるよ」
「失礼だな」
 2人は声をたてて笑う。
「ね。もうひとつ」
「ん?」
「カオルの名前、何てゆんだっけ?」
「薫だろう」
「教えてくれないの?」
「教えたじゃないか、今」
「もうひとつ」
「いつ最後になるんだ」
「これが最後!」
「はいはい」
 恵は矢矧の背中を抱きしめる腕に力を込めて、矢矧と一緒にひつじも抱きしめた。
「アタシが死んだら、悲しい?」
「ああ。勿論、悲しいよ」
 矢矧は即答した。
 恵は目を酷く固く瞑る。予想通りの回答だった。
 顔に薄笑いを浮かべる。ゆっくりと息を吐く。
「…ありがと。ヤハギ」
 腕のちからを解いた。
 すると、その腕を逃がさないように手を添えて、今度は矢矧が恵に声をかける。
「どうした。えらく殊勝じゃないか」
「なに? シュショウって」
 そう尋ねると、矢矧は首を回し、背中にはり付いている恵に目をやって口端で笑う。
「───なに企んでるんだ? という意味だ」
「ナニタクランデルって、なに?」
 矢矧の眼光にも、恵はいつもののんびりした明るい声で大きな瞳を返した。さらに矢矧は応酬する。
「裏切りは許さない、という意味」
「ユルサナイって、なに?」
「…そうだなぁ。殺人予告、かな」
 少し言葉に迷った矢矧の台詞を聞いて、恵は目を丸くした。
「ヤハギが殺してくれるの? アタシを?」
「そうさ」
 矢矧は言い切り、恵はくすくすと笑い出した。
「ウソツキ」
 そう、呟く。
「…話が難しくなってきたなぁ」
「アタシも。ムズカしいことはキラい」
 恵はするりと矢矧の背中から離れ、ひつじを胸に抱く。
 矢矧は机の上の眼鏡を手に取り、かけ直した。
「訊きたいことがそれだけなら、早く部屋へ帰れ。もう遅い」
「はーい」
 矢矧の言いつけ通り、恵は背を向けて、所長室から出て行く。
 ぱたん、とドアが閉まった。








 6.
 恵はひつじを抱きしめるとき、ひつじの顔を前に向ける。ひつじと向き合うことはしない。
 抱き合う存在が欲しいわけじゃない。
 同じものを見る「自分」がもうひとり欲しいのだ。
 恵は自室の中央に置かれたミニ・チェアにあぐらをかいて座り、そして勿論ひつじを抱きしめていた。背もたれに背を預け、ちょうど見える角度の天井を眺める。天井を含め、この部屋の壁紙はすべて白色だった。はじめはコンクリートの打ちっ放しだったが、恵が矢矧に頼んでわざわざ壁紙を貼り直してもらったのだ。
 そして恵の部屋は極端に家具が少ない。ミニ・チェアの他は、ベッドと、床に直に置かれている旧式のパソコン。収納があるくらいだった。
 この部屋に誰かが訪れることは滅多にないが、矢矧と薫以外の人間は必ず気味悪がる。現に、一昨日、ナイフを奪いに来た2人は声も無く顔をしかめた。
 何故なら、この部屋の壁にはあちこちに落書きがあるからだ。
 その落書きはすべて茶色い。血が乾いた茶だ。
 恵の左腕から流れた血液で書かれていた。
 マルバツや星などの形から、恵自身やひつじの似顔絵(幼稚園児並みの絵だが)、英語の文句や化学式、ベンゼン環なんてのもある。4年の月日は、壁4面を血の落書きで埋め尽くした。恵は血を流し続けてきた。
 その壁に囲まれて、恵はチェアに座る。あぐらをかいて、ひつじを抱きしめて。
「ぅ───…」
 そして泣いていた。
 天井を眺めたまま。涙を拭いもせず。
 涙は流れ続け、頬と顎を伝って、襟に滑り込んだ。それは気持ち悪くて煩わしかった。
 ヒトが流せるのは血だけじゃないことを知る。
 でも血を流したほうがきれいになるわ。恵はそう思った。
 血を流すためのナイフは矢矧に取り上げられてしまった。
 汚いものが溜まっていく。侵されていく。
「ぁ───…」
 涙が止め処なく流れる。
 泣くのはドッと疲れる。血を流すほうが、どんなにか楽だろう。
 でも、もうそれですら収まらない。
 もう「血を流したい理由」がどこにあるのか探せない程、この体はその理由で満たされてしまった。
 もう消せない。戻れない。
 賽は投げられた。結果の通りに進むだけ。
「…ふふ。…はっ、あははは」
 突然、恵は笑い出した。
「あっはっはっはー」
 涙を流し続けたまま、心から笑う。
 ドアの外にいる護衛の男は、笑い声を聞いて、さぞ気味悪がっただろう。
「うふふふー」
 でも今は、その男のことさえ、愛せた。








 7.
 コンコン。
「恵。まだ、やってるのか?」
 第9の研究室。ノックの音の次にドアから入ってきたのは白衣姿の薫だった。
「やっほー、カオル。どしたの? あ。入って入ってー」
 室内にいたのは恵一人。奥の一画だけ灯りが点けられており、その下で恵は振り返って手を振る。その作業台の上には試験管が並べられていた。その他、褐色瓶とスポイトなど。
 時刻は0時に近い。
「丸山は? いないのか?」
「マルは、先、あがったよ。ね、どーしてアタシが残ってるってわかったの?」
「廊下に護衛が突っ立ってた。あちらもご苦労なことだな」
 皮肉を言って、薫は恵のほうへ足を進めた。すると強い薬品の匂いを感じた。薫は首をひねった。
「調剤やってたのか?」
「うん、昨日から」
 珍しいな、と作業台の上を覗き込む。蛍光灯の薄明かりの下、手元が暗いだろうに恵はここで作業をしていたらしい。試験管の中に少しの残薬がある。そして恵の正面に小さな透明の小瓶があり、その中に透明な液体が満たしてあった。どうやらそちらが完成品らしい。恵はその小瓶に抗菌コルク栓の蓋をした。
「ハイ、できあがりぃ」
 コルク栓ということは、注射薬だろう。
「何をつくったんだ?」
「これ?」
 恵はにかっと笑うと、
「毒」
 と短く呟いた。
「───」
「と、いうのはウソ」
「…こら」
 言葉を失っていた薫は、タチの悪い冗談に低い声を出した。恵は相変わらず無邪気に笑っている。薫は溜め息をついた。
「アー、でも、これ使うとなったら、試験部から注射器とってこなきゃだよね」
「あそこの連中は簡単には貸してくれないだろ」
 警告の意味も含めて促すと、恵は不気味に笑った。
「うふふふふ」
 そして自慢げに胸をそらす。
「実はアタシ、所内のほとんどの部屋、こっそり入り込めるんだっ。コレ、ちょっと自慢」
「は!?」
 薫は大声を出した。
 各班、無人になるときの施錠は義務づけられている。どうしても他の部屋へ入室する必要がある時は、そこの班長を呼び出す決まりだ。「こっそり入り込める」ということは、恵は合い鍵を持っているということだろうか。
「あ。怒られるのイヤだから、ヤハギには内緒にして」
 人差し指を口にあてて、恵は「ね?」と首を傾ける。
「忍び込んで何してるんだ?」
 呆れたように薫が言う。
「毒薬か劇薬が欲しいの」
 恵は真顔で答えた。
 さっきは言葉を失ってしまった薫だが、今度は失笑した。
「そんなもの、本当に特殊な班にしか無いだろ」
「カオルが思ってるよりは、沢山あるよぉ」
「何に使うんだ」
「アタシが飲むの」
 さらに恵は真顔で言う。薫はその表情を訝しげに凝視した。
「───恵?」
「カオルは」強い声で言う。「死にたいって思うことないの?」
「ないよ。そんなこと」
 と、即答した。薫が深く考えずに答えたので、恵は悲しかった。
「そう? アタシはいっぱいだよ?」
 恵はひつじの頭を優しく撫でた。
「死にたくなるとね、飲むの。毒ならどんな薬でもいい。───でもアタシは毒では死ねないから、ひつじに代わってもらうの。ひつじに飲んで、死んでもらうの」
 薫は内心で安堵の溜め息をついた。どうやら、恵自身が薬を飲んでいるわけではないらしい。
 ひつじに飲んで、死んでもらうの。
 そう、恵は言った。
 しかし薫は「死にたい奴は死ねばいい」という考えの持ち主なので、恵の行動は理解し難かった。「死にたい」と言いながら生きている人間には無性に腹が立つ。結局、死ねないままの現実逃避───甘えなんだと思う。
 薬は人の命を救うためのものだ。薫はそう信じている。死にたくないのに、死を待つしかない人たちのために、ここでは研究開発が行われている。───薫はそう、信じている。
 だから恵の台詞にも苛ついた。
「恵の体に毒が効かないのは私も知ってる。でもそんなに死にたいなら、おまえが持っているナイフで手首を縦に突けばいいだろう? 躊躇い傷じゃなくて」
 皮肉というか嫌みというか。
 幼い薫のしゃらくさい台詞に、恵は込み上げてくる笑いを抑えきれなかった。
「違うよぉ。手首を切るのは、生きるためだよ。明日も生きたいって思うとき、手首を切るの」
 まったくわからない。
 恵は毒では死なない。それでも死ぬために毒を飲む。
 恵を殺せるはずのナイフ。手首を切るのは生きるためだという。
「それって矛盾してるだろ?」
「矛盾してたらいけない?」
 すぐに恵は切り返す。真顔で、真剣な表情だった。怒っているような表情だったので、薫はそれ以上何も言わなかった。
「カオルは、外に出たいって思ったことないの?」
 そしてまた唐突に、恵は質問を投げかけてきた。
「は? 外?」
「ここ以外の場所」
 薫はまだ、恵との会話に付き合う余力があったので、まともな回答をした。
「別にそんなの、出ようと思えばいつもで出られるだろう。閉じこめられてるわけじゃないんだから」
「答えになってないよ?」
「…今はここの仕事が忙しいし、充実してるから、そんな風に思ったことはないな」
 と、本当に充実してるんだなと思わせる晴れ晴れとした表情で薫が言った。恵は思わず失笑して、
「おばかさん」
 と呟いたが、声が小さかったために薫には届かなかった。

A possible thing is realized in when.

 きれいな発音で恵が口にした。普段の恵の口調よりなめらかだった。
「…なに?」
 薫は聞き取ることはできたが意味がわからない。
「ヨシノ博士が教えてくれた」
 事も無げに恵は口にしたが、芳野という名が出て薫は目を見張る。所員たちが「芳野博士」と呼んで尊敬する人物は、かつての矢矧の相棒であり、そして4年前に亡くなった薫の父親だ。
「化学者のなかで有名なコトバなんだって。───とても恐いことだ、って」
「…意味は?」
「"可能なことはいつか実現される"」
 恵の唇が、ゆっくりと発音した。続けて、少し考えてから説明を付け加えた。
「例えば、ヒトのクローンや遺伝子操作がソレだって言ってた」
 言い慣れない単語を、恵はぎこちなく発音する。
「現在の至らない技術的問題は時間が解決してくれる。でも社会から反対するイケンが出てくるのは間違いない。───でもね、そういう倫理観や道徳観念はカンケー無いの。できることはやってしまうの。それがどんなヒドいことでも、ワルいことでもだよ? ヒトは知的好奇心を抑えきれないの。そういうイキモノなの。知能を持つ唯一の霊長類は、そんなオロカなイキモノなんだって。───カオル」
「…なんだ」
 恵を通しての父親の言葉を、薫はすぐに理解できないでいる。恵の様子もいつもと違う。
 こんなハキハキと、ものを言う人物だっただろうか?
「薬はパズルじゃないよ。作るのは人間。───そして使うのも人間」
「そんなの、わざわざ教えられなくても知ってる」
 半ばムキになって薫が言う。さらに訴えるように恵。
「カオルが作ったものは、ヒトが使うんだよ」
「だから! 知ってるって言ってるだろ。実用性のあるものしか、私はつくらない」
「ヒトは善意だけでできてるんじゃないよ?」
 あまりにも自然に恵は話が飛ぶ。これはいつもの恵だ。
 恵に悪気は無いのだろうが、薫はその思考についていく労力で疲労を感じてる。他の人間は恵の支離滅裂さを無視することが多いが、疲労を伴ってまで恵の話を真剣に聞こうとするのは薫の人柄とも言える。
 恵は目を反らし静かに笑った。その横顔はとても大人びて見えて、いつもの恵には見られない表情だった。
「…そうだね。…そう、カオルの作った薬で誰かが苦しむのをカオルが見れば、カオルもわかるだろうね」
 それはまだ先のことだろうけど。
「カオルがつくった薬で誰かが傷つけば、思い出すだろうね」
 哀れむような目で薫を見つめて、恵は昔のことを思った。
 やわらかな日差しの中で、穏やかに笑う彼のことを。
≪残念なことに、ヒトには悪意が存在するんだ≫
 そう悲しそうに笑う彼が悪意を持っていたかは、恵にはわからない。
≪どんな危険な物でも、そこにあるものは使わずにいられないし、一度使ったら手放すことはできない。ヒトは自分を衛るために武器を持つけど、強すぎる武器を持つと暴走してしまうことがある。我々が扱う物はささやかな要素でしかないけど、作り出すものは「強すぎる武器」だ。良くも、悪くもね。だから我々はこの知識を使うとき、十分に気を付けなければいけない。心得ておかなければならない。…恵も、この学問を修得するなら、忘れないでおいて欲しいんだ≫
 恵は手にしたばかりのぬいぐるみを抱きしめる。サラサラの毛並みが心地よかった。彼の言葉をすべて理解することはできなかったけれど。
≪あのコも、そーいうの、ココロガケてるの?≫
 そう尋ねると、彼は「父親」の顔になって、照れくさそうに言った。
≪うちの娘は言葉を覚えるより先にこれにハマってたからな。…でも、ちゃんと教えてきたつもりだ≫
≪じゃあ、───…あのヒトも?≫
 その問いに彼は何て答えただろうか。忘れてしまった。
 でも。
 あのヒトはきっと、使ってしまうから。
 そのトキにやっと、カオルは彼が教えてくれたことを思い出すだろう。
 今まで知らずにいた、闘わなければいけない理由に気づくだろう。
「アタシ、部屋に戻る」
 ふいと恵は立ち上がった。
「恵?」
 そして振り返る。恵はにっこりと笑って、無邪気にひつじの手を振って見せた。「バイバイ」
「さよなら、カオル。おやすみ。よい夢を」








 8.
「薫! 起きろ」
 文字通り薫は叩き起こされた。部屋のドアがどんどんと壊れそうな音をたてた。
 文字通り薫は飛び起きる。寝起きは良いほうで、すぐに意識を取り戻すことができた。
 時計を見なくてもわかる。部屋に窓はなく、外界からの光も無いけれどわかる。まだ起きるような朝の時間ではない。
「何事だ」
 起こされた声で有事を悟った。薫は近くにあった服を着て、白衣を身につけた。ドアの向こうから震える声が返ってきた。
「守衛が殺された。薬殺らしい」
「なんだとっ?」
 バンッ。薫はドアを開け廊下へ飛び出した。そこにいたのは6班班長の折居という男だった。確か彼は泊まり込み組だ。薫と同じく誰かに起こされたクチなのだろう。
 薫と折居は並んで走り出す。走りながら、薫はまず気になっていることを尋ねた。
「薬殺…って、誤飲か?」
 ここは重要な点である。この所内には沢山の薬がある。その中には死に至らせるものもあるだろう。守衛本人による誤飲ならともかく、明らかな他殺だとすると内部に殺人者がいることになってしまう。
 規則的に続く蛍光灯の下を走り、2人は守衛室に向かう。折居は歯切れの悪い口調で答えた。
「注射だ。しかもご丁寧に頸動脈。自殺とも考えにくい」
 その光景を想像して薫は気分が悪くなった。しかし一方で、どこか安心している自分に気づく。注射ということは、842番の被害が出たわけではない。
「矢矧は?」
「もう行ってる。他に泊まりの数人が集まってる」
 守衛室につくと、折居の言う通り数人の職員がドアを囲んでいた。薫が走るのをやめ、ゆっくり近づいたとき、ちょうど人垣から矢矧が出てきたところだった。
「薫、おはよう。結構、酷いけど…見る?」
 と、矢矧は酷いとは思ってないような態度で言う。その矢矧に促され、薫は室内に入った。
 空調は効いているはずなのに、むわっとする熱気を感じた。いや、単に空気が悪いだけかもしれない。
 黒服の男がだらしなくソファに寝そべっていた。
 右手は喉元に添え、左手はだらんと床に落ちている。それだけなら寝相が悪いだけのようにも見えるが、男の顔がそれを否定していた。
 はち切れそうに開かれた目は赤く充血しており、涙も無く乾いている。最期に何を叫んだだろう。奇妙に歪んだ口は筋肉が硬直したように固まっていた。顔色は青いというより灰色で、粘土のようだった。自分の髪を引きちぎったのだろうか。右手の指先には髪の毛が数十本絡まっていた。
「……」
 薫は死人を見たのは初めてだった。素直にゾッとした。
 テーブルの上には飲みかけのカップ。吸い殻の中の煙草はまだ長い。数時間前までこの男は息をしていた。
 薫は手を握りしめる。
 薬が効くのは生きた人間だけだ。そのことを痛感させられた。
 そしてソファの下には、犯行に使われたと思われる注射器が落ちていた。注射器の出所は特定できる。所内で注射器を使うのは10班から13班、つまり試験部だけだ。
「薫。大丈夫かい?」
 青ざめている薫に、矢矧が声をかけた。薫はどうにか答えることができた。
「ああ…」
「犯人は内部だな。本業ではないが、犯人探しといくか」
 気のせいだろうか。その声は状況を楽しんでいるように聞こえた。
 気のせいだと、薫は思った。
 矢矧の言う通り犯人を特定することは重要だ。誰が何のために殺人を犯したのか。どんな事情があろうとそんな危険人物を所内に置いておくわけにはいかない。
「薫は? 何か心当たりでもある?」
「あるわけないだろう」
「だよね。───注射器は斉藤に回して成分を調べさせろ。それから西山をこっちに寄こしてくれ」
 矢矧はドアの外にいる数人の職員に指示を出す。
「…?」
 ふと、薫はある薬品の匂いがすることに気づいた。
 この部屋の中。
 どれだろう? 薫は部屋を見渡した。
 それはどの班でも使われるごくありふれた薬品だ。でもこの守衛室に薬品など置かれてない。
 ───いや。
 薫は、今、この部屋の中に唯一存在する薬に目をやった。
 落ちている注射器である。匂いの元はそれだ。
 そしてこの薬品の匂いは、最近、間近で嗅いだ覚えがある。
 あれはどこだったろう?
 長くは悩まなかった。すぐに頭の中で記憶の検索がヒットした。
 そして薫は無意識に呟いていた。
「……恵?」
 それは本当に小さい声だったけれど、矢矧は聞き逃さなかった。
 ハッと思い立ったように目を見開く。
「オイ! 恵はいるかっ?」
 廊下に向かって叫んだ。職員たちは顔を見合わせる。
「あの子はこの時間じゃ起きてこないでしょう」誰かが言う。
 矢矧は廊下を走り出していた。








 熊のぬいぐるみが、壁にぶらさがっていた。
 銀色のナイフで腹をひと突き。串刺しにされているぬいぐるみはげっそりと項垂れていた。
 そのナイフには血が流れていた。まるで、ぬいぐるみが血を流している様に。
 そしてもう一人の守衛が血を吐いて倒れていた。息がないのは明白だ。
「なに…?」
 恵の部屋に入って最初に声を発したのは薫だった。一番に駆け込んだ矢矧の表情は薫の位置からでは見えない。後からやってきた数人の職員たちは、室内を見るなり奇声をあげた。
 部屋に鍵は掛かっていなかった。部屋のなかは薄暗かった。部屋のなかに恵はいなかった。
 そして血文字の壁には、ひつじが、ナイフで突き立てられていた。
 ひつじとナイフ。
 どちらも、恵がずっと手放さなかった物だ。しかし肝心の恵の姿はない。
「恵はどこだ…?」
 薫が独り言のように呟くと、矢矧の背中が答えた。
「あいつは監視を殺して逃げたんだ」
 その声は怒りに満ちていた。いや、それをきつく抑え付けるような息苦しさがあった。
(逃げる…?)
 その言葉は薫の胸に引っかかる。
「恵が? まさか…」
 でもあの匂いは恵が作っていた薬のものだ。
(これ使うとなったら、試験部から注射器とってこなきゃだよね)
 恵はそう言っていた。
「まさか…」
 薫は力無く呟いた。
 本当に恵が殺したんだろうか? 前日に薬を作るなんて、計画的に。何故殺した? 何故いなくなったのだろうか。ずっと胸に抱き離さなかったひつじを残していったのは? 薫は思考が整理できない。矢矧の中ではこれらすべての事象が繋がっているのだろうか。
 矢矧は守衛の死体には見向きもせずに奥へ進んだ。壁のひつじに近寄る。
「…くそッ」
 吐き捨てると同時に、ひつじの足を力任せに引っ張った。
 すると。
 ザザ───
 視界が赤く染まる。
「!」矢矧は一歩退いた。誰かが悲鳴をあげた。
 ナイフで固定されていたひつじの腹が切り裂け、そこから赤い粒が無数、滝のように床に、転がり落ちたのだ。小豆大の赤い粒は軽く転がり、ドアの近くにいる薫たちの足元にも敷き詰められた。
「───っ」
 薫は叫びそうになった。
 床に敷き詰められた赤い粒は、薫の部下である辻尾が探しているはずのもの。
 842番。それであった。

 散らばった錠剤が、まるで血のようだった。
 職員たちは顔をしかめその光景を眺めていた。思わず目を背ける者もいる。
 血文字に埋め尽くされる壁、血染めのナイフが突き立てられたぬいぐるみは腹が引き千切られている。クマのあどけない表情が異様で不気味だった。そして床一面に散らばる赤い錠剤。もう一つの死体。
 空気が澱んでいる。この部屋からは咽せるような血の匂いがする。
 この部屋の住人は正気を保っていたのか?
 今、この部屋の中で平常心を保っている者は2人だった。
 一人は矢矧。
 そしてもう一人は9班副班長の丸山。
 丸山はわずかに目を細めただけで、すべてを悟り、視線を落とした。
 その丸山の姿を視線の端に止めたのは薫だけだった。しかし薫は、842番の薬の所在を知り、動揺していた。
 辻尾は言っていた。「数ヶ月前から、少しづつ減ってるんです」と。
(どこが少しなんだ!)薫は罵倒する。842番の引き出しの鍵を開けられるのは辻尾と薫だけだ。それでも恵は開けていた。
 恵は3班に忍び込み、この薬を盗んでいた。多分、少しずつ。それがこれだけの量になった。紛失した薬は、いつも恵の腕の中にあったのだ。
 恵はひつじに飲ませていた。
「死にたくなるとね、飲むの」
 恵はそう言っていた。
「でも毒ではアタシは死ねないから、ひつじに代わってもらうの」
 薫は足下に敷きつめられた赤い錠剤を見下ろす。数は百を超えるだろう。
 薫は身震いした。
(───これが、恵が死にたくなった数…)
 想像するのは簡単なことのはずなのに、恵の思考に追いつくことができない。辿ろうとすると、耳の奥が痛くなった。
「赤…とは、いい趣味だねぇ」
 矢矧が感心したように溜め息をついた。その一言で場の空気の緊張が少なからず解けたが、ほとんどの者は今度は矢矧の台詞に恐れ入った。
「気をつけろ。毒だ」
 と、薫は咄嗟に口走ってしまった。そして口にした後で、それが不用意な一言だったと気づいた。両手で口元を押さえる。どうしてそれを不用意だと思ったのか、自分でもわからない。
 当然、矢矧はそれを聞き逃さなかった。
「これ。薫が作ったの?」
 感情の読めない表情で訊いてくる。薫はしぶしぶ頷いた。
「…ああ」
「ふぅん。成分はなに?」
「…」
「薫」
 強い声で回答を求められる。しかし薫は喉が急激に渇いて声が出せなかった。
 どうしてだろう。言ってはいけないような気がした。
 胸に圧迫を感じる、この感情が何なのか、薫はわからなかった。
「…番木鼈」
 どうにか薫が答えると、矢矧は低く笑う。
「ストリキニーネ?」
「ああ」
「致死量は?」
「…動物実験にも回してないから正確にはわからない。計算では0.1グラム以下だ」
「あははっ。ひどい薬だ」
 矢矧は吹き出した。
 ストリキニーネは、フジウツギ科の番木鼈という植物の種から採取されるアルカロイドである。血管、呼吸中枢を興奮させ、脊髄の反射機能を亢進する。吸収が早く、中毒症状は30分以内に訪れ、痙攣は15分から60分。その作用は強烈で「反弓緊張」と呼ばれる弓なり状態が2分以上続くことがある。肉体の反応に対し、意識は正常なため、患者は呻き声をあげて、酷く苦しむ。重傷の場合は3〜6時間で死亡。激痛に何度も襲われた結果、急速に衰弱して死に至るわけであるが、死者の目は、大きく見開かれているケースが多い。
 この赤い薬はそれと同じ性質を持つ。矢矧が「ひどい薬」だと評したのも無理はない。
「俺にも少し分けてよ」
「───」
 薫は矢矧に目を奪われた。何を言い出すんだ、この男は。
 使えない薬など、手に入れてどうするというのか。
 矢矧は返事を待たない。踵を返すと、無駄に荒げない口調で職員に指示を出した。
「監視2人の死体はすぐに処理しろ。死因については所員全員に箝口令を敷け。おまえらの口から漏れるのは絶対に許さない。役所への建前は俺がシナリオを書く。それから」矢矧は目をつり上げる。
「恵を捜せッ! 連れ戻すんだッ」
 薬殺死体が出たなどと外に漏れたら厚生省の監査が入るのは必至だ。そうすればこの研究所のスポンサーも、庇い切ることはできないだろう。何か適当な、当たり障りのない理由を考えなければならない。
 矢矧の指示に職員達は散り始める。
 しかし、職員達の足を止めさせる高い声が響いた。
「───待て」
 薫だった。腹が引き裂かれても壁に張り付けられたままのひつじを見上げている。赤い錠剤でできた川の上に立つ薫は言った。
「恵を追うのか?」
 室内がしんとなる。死体を片づけようとした職員も薫の声に動きを止めた。
 ここで薫の問いに答える権限を持つのはひとりだけだ。職員の視線がその人物に集まった。
「どういう意味かな」
 矢矧が声を抑えて言う。薫は振り返った。
「あいつは自分の意志でここから出て行った。外に行きたい場所があったのかもしれない。ここに居たくなかったのかもしれない。何故、追う必要がある? 恵をここに置いておかなければならない理由でもあったのか? それとも」
「それとも。───なにかな?」
 薫の言葉を遮っておきながらそれでも穏やかに笑い、逆に問いかけてくる。薫が目を見開き矢矧の顔を凝視しても、矢矧は変わらず笑っていた。
 背筋が寒くなった。
「…なんでもない」
 自分の発言を取り下げることに不本意を感じなかったのは初めてだった。
「いいよ。君の言う通りにしよう」
 と、矢矧はあっさりと言う。
「恵がいなくなるのは寂しいけど、───俺には薫がいるしね」
 ククッと楽しそうに笑った。そして近くの職員を捕まえて、何やら耳打ちをする。
「恵の居場所は掴んでおけ」
 そう言ったのだが、薫には聞こえない。

「…矢矧」
「なんだい?」
「うちの班の辻尾、いらない」
 薬品管理は辻尾の仕事だった。これは重要な仕事だ。
 パッケージされる前の薬には名前が書いてない。一見、見分けがつかないような物がたくさんある。それらすべてを選り分け、混ざらないように、間違いのないように管理しなければならない。それなのに、よりによって842番を外へ出すとは。
(あの…馬鹿ッ!)
 薫は胸の中で叫ぶ。
 辻尾は信用を失くした。もう一緒に仕事なんてできない。
「ふん。姫のご機嫌を損ねた野郎がいるわけか」
 と、矢矧は苦笑した。「───じゃあさ」
 矢矧はその場で屈んで、散らばった赤い錠剤のうち、足下にあった一つを指先で拾う。それを目の高さまで掲げると、矢矧は目を細め薄笑いした。吸い込まれるように陶酔した瞳で、赤い錠剤を見つめながら。
「これ、飲ませてみようか」
 含み笑いをもたせて言った。
「え…」
「いらないんだろ?」
 ひどい薬だと評した後なのに、矢矧はそんなことを言う。違う、薫はそう言いたかった。けれど喉が震えて、声にすることができなかった。
 矢矧は薫の肩に手をぽんと置いて顔を覗き込む。
「冗談だよ」
 矢矧はそう笑ったけれど。
「───」
 きっと以前の自分なら、その笑顔を素直に信じていた。
 けれど今。
 頭の芯が凍るのを感じた。
 胸の奥で、不安が生まれた。








 9.
 そろそろカオルも気付いたかな。
 アタシたちが、監禁されていたこと。

 手首を切るのは楽しかったわ。
 死にたかったわけじゃないよ?
 体のなか、砂のように積もっていく不快なもの、指先に集めて。
 血と一緒に捨てられる気がしたの。
 体と心がきれいになって、救われて、アタシは。
 また。
 朝がきても生きられる。

 賢い人間は好きよ。───だから、ヤハギを殺そうって、おもいつかなかった。
 その代わり、ずっと。
 ずっと考えてたの。
 ずっと。ずっと、脳みそが枯れちゃうくらい。
 脳みその水分が蒸発して、頭が痛くなって、その痛みさえ遠ざかって、やがて息絶えるまで。
 そうなる寸前まで、ずっと考えてた。
 死ぬか。逃げるか。
 どっちでも構わないよ。
 ヤハギのやってることも、別に構わないのよ。
 アタシは、他人に、優しいキスもできるし、毒を盛ることもできるよ。
 どっちでも構わないの。
 ただ、もう。
 この場所で眠るのはもう嫌。
 空も無くて、風さえも感じないここは嫌い。
 囲まれた壁が嫌。
 冷たい床が嫌。
 どこまでも続く廊下が嫌。
 ヤハギと寝るのも嫌。
 監視されるのも嫌。
 月が見たくて泣いた夜。
 狂おしいほど欲した、土の匂い。
 息が苦しいの。
 叫べないほど。
 アタシは武器を持ってたから。
 本当は簡単だった。
 この絶望に絶えられなくなったら、自分で自分を壊せばいい。
 そのための毒も、ナイフも、アタシは持ってた。
 でもそれを使うこと、ヤハギは許さなかった。
 アタシを縛り付けてた。
 死ぬことさえ自由じゃないなんて。
 それすら許されないなんて。
 アタシを勝手に生んだヒトはアタシを勝手に殺そうとした。
 死だけは自由なはずよ。
 それすら許されないなんて。
 アタシは許せなかった。
 ヤハギは嫌いじゃないけど。
 カオルは好きだけど。
 ───でも、ここに居るのは嫌。
 我慢できない。
 だから考えた。
 死ぬか。
 逃げるか。

 どっちでも構わないよ?

 この場所以外の、生と死なら。
 どちらでも構わないよ?

 だからサイコロを振ったの。

 「医王」と「浄瑠璃姫」に。
 「死」と「生」を賭けて。

 あの日。
 ジャンケンに勝ったのはカオルだったから───。







 こつん。
 深夜、守衛室のドアがノックされた。
 監視カメラの映像に注意を払いつつもテレビ番組を見ていた男は、「はい」とノックに応えながら腰を上げた。男がドアにたどり着くより先にドアは開かれ、人影が飛び込んできた。
「ねぇっ! たすけてっ」
 白いツナギに、長い三つ編み。ひつじをその胸に抱いて、入ってきたのは柳井恵だった。
「恵…っ?」
「もう一人の護衛サンが大変なの!」
 と、必死の形相で言う。「もう一人の護衛」とは、恵に就いている監視役のことに違いない。その人物なら恵の部屋の外で一晩待機のはずだが。
「突然倒れちゃって、血ぃ吐いて苦しそうで…! アタシ恐くて」
 怯えた声で涙を滲ませる恵の両肩を男は掴んだ。
「落ち着け! 何があったんだ」
「───」
 とすっ
 男の首に小さな注射器が突き刺さった。「何…?」事態を把握できず、男は自分の首から生える透明なガラス筒に目をやる。その下には、鋭い視線を放つ恵がいた。恵の白い指先は何故か注射器に添えられている。その指先は容赦なく注射器のピストンを押した。
 男の頸動脈に透明な液体が注入された。
「かは…ッ」表情筋が奇妙に歪められ、瞳孔が開き、男は吐血した。その血は恵の白いツナギに染みをつくった。
 男は喉元に注射器を生やしたまま体を反らせ、ソファの上に倒れ込んだ。
「ガ…ッ、ぅ」
 空を掻き、男は悶える。しかし10秒も経つ前に充血した目を天井に向けたまま、静かになった。
 恵はその様を目をそらさずに見ていた。
「…ハァ…ハァ」
 息が乱れる。体が震えるくらい鼓動が騒いでも、恵は辺りを見渡すことを忘れなかった。
 取り返さなければならないものがある。
(どこ…?)
 部屋のなかは薄暗い。
 監視カメラの映像を映すディスプレイ、出入口の施錠をする操作盤。煙がのぼる吸いかけの煙草。湯気が立つ飲みかけのコーヒー。つけっぱなしのテレビ番組。そんな生活感あるものたちが嫌に白々しい。この部屋を使っていた生き物は、たった今、生き物じゃなくなったのだ。息絶えた。屍。
 恵は事務机の上に、目的のものを見つけた。
 銀色に光るナイフ。恵のものだ。
 恵は数日ぶりにそれを手にする。手によく馴染むそれを見つめ、恵は安心したような表情をした。自分の手の中にひつじとナイフが揃ったことに安心した。
 そしてこれが手に入ればもうこの部屋に用は無い。
 煙草もコーヒーもテレビもそのままにして、部屋を後にする。ソファに崩れているヒトの形をしたモノにも、もう興味はない。恵は部屋を出てドアを閉めると、廊下を駆けた。
 長く続く廊下は、いつも恵を不安にさせる。こんな閉塞した道がどこまでも続いているようで。
 廊下の先の深い闇は心を惑わせる。照明はついているのに、濃い黒色に飲み込まれそうな錯覚に陥る。
 でもここで踏みとどまるわけにはいかない。
 ひつじとナイフを胸に抱きしめる。
(まもって…っ。おねがいだから)
 窓が無い廊下に、均等に続く飾り気のない蛍光灯。その下を、恵は走った。
 もう一度、自分の部屋へ。

 同じ棟に、矢矧と薫の部屋がある。それから数人の職員と、泊まり込み希望者の詰め所。恵の部屋はそれらの一番奥だ。
 物音を立てないように細心の注意を払いつつ走りながら、恵はずっと怯えていた。
 今にも、そこのドアから誰かが出てきそうで。
 今、捕まったら、ヤハギはきっとアタシを許さない。絶対、殺してくれたりなんかしない。
 部屋に閉じこめて、ひつじさえ奪ってしまうに違いない。
 もしカオルに見つかったら、一緒に連れて行ってしまおう。
 …マルは黙って見逃してくれる。
 他の職員だったら、もう一度この手が汚れるだけ。
(まもって! もうここにはいたくない!)
 そんな些細な願いを、ずっと叫び続けていた。
 ひつじに毒を飲ませることで自分を殺し、ナイフで手首を切ることで自分を生かしてきた。
 毎日、必死だったよ?
 ひつじとナイフを持って、この両足を立たせることで精一杯だった。
 立てなくなる前に。まだ力があるうちに───。
 部屋のドアが見えて、恵は足を速めた。
 あと3歩。
 ノブに手をかける。ひねる。引く。
 恵は部屋の中へ体を滑り込ませた。
「…ハァ…ハァ」
 後ろ手でドアを閉めると一気に緊張が解かれ、恵は疲労困憊で大きく息を吐いた。
 暗い部屋の中にはもう一人の監視の死体が転がっている。
 途端に、胸に冷静さが戻った。
 まず恵は自室の前に立っている監視を殺した。その後に守衛室へ向かったのだ。
 十分程前。手を掛けたときはあんなに汗を掻いていたのに、今はもう汚い物が捨ててあるようにしか見えない。
 冷めた目でそれを一瞥すると、雑な足取りで恵は奥へ進む。そしてベッドの上に、丁寧にひつじを寝かせた。
 恵はナイフで自分の左手首を切った。
 少しだけ深い。1秒の後、赤い液体が流れ出て、指先を伝って床に染みを作った。恵は眉ひとつ動かさなかった。
 ナイフを逆手に持ち替える。
 ベッドに転がるひつじを拾う。
 血が流れる左手で、ひつじを壁に掲げた。
 白い壁。赤い落書きの上に押さえつける。
 恵は右手を振り上げた。
 ザクッ
 歯切れの良い音がした。
 銀色のナイフがひつじの腹を通って、壁に突き刺さった。
 ナイフで壁に貼り付けられたひつじは、まるで五寸釘に打たれた藁人形のよう。ひつじはいつもと変わらない表情で恵を見下ろしている。腹から突き出るナイフからは恵の血が流れ落ちた。
 恵の瞳から涙がこぼれた。
 目の高さより少し上に張り付けにされているひつじを哀れむように眺める。
 恵は一歩踏みだし、ひつじをはさむように両手を壁についた。
 黒く丸い目を見つめる。恵はかかとを上げた。顎をあげて、ゆっくり吸い寄せるように、ひつじに最後のキスをした。
 ずっと一緒にいたけど、それでも置いていかなければならないもの。
 アナタを置き去りにして、お願い、ひとりで行かせて?
 そっと唇を離す。
 潤んだ瞳でひつじを見つめて、震える乾いた唇と一緒に鳴る奥歯。
 胸がはりさけそう、でもそれをどうにか抑えて、代わりに声帯を通して声にする。
「あいしてる」
 過去の自分を、ずっと。
 あいしつづけるから。
 わすれないから。
 勇気をちょうだい。
 ずっと膝を抱えてたこの部屋から走り出したいの。
 きっと優しくない、でもきっと美しいトコロへ、扉を開けて、ここではない場所へ。
 この存在を表す名前を再確認して。
 この手を汚して。
 ずっとアタシを守ってくれていた、ナイフと過去の自分を置いて。
 すべて捨てて、なにも持たないで。
 毒を飲み続けながらも、生に導かれ。
 これから見る光を、きっとアタシは過去の自分に見せたくなる。
 でもそれは叶わなくて、アタシは叫び続けながら、涙を流すだろう。




 矢矧は薫とアタシを持ってた。
 アタシはひつじとナイフを持ってた。
 薫。
 その両手に何も持たないで、どうやって闘うの?







薬姫-壱 了
壱//Stratosphere

参考:
薬のウラがわかる本/栗藤 豊之
毒物犯罪カタログ/国民自衛研究会
麻薬取締官/鈴木 陽子