壱/弐/Stratosphere |
薬姫-弐 |
pro. 1. 2. 3. 4. 5. 6. epi. |
尊敬するエス博士が亡くなられてもう5年になる。 今でも無念が私を 目眩を起こすほど悔しい、憎しみにまかせてワイに殺意を抱くことも少なくはない。復讐の計画を練りながら朝を迎えたことだってあった。 けれど、結局、私は何もできはしないのだ。 臆病な私は、我を忘れて衝動的にワイを殺すこともできないのだ。 そしてそんな私の中途半端な復讐心は、ワイに勘づかれている。 私は疑われている。 私の行動を監視している者がいる。それはワイに繋がっている。ワイの命令ひとつで、逆に私が殺されるかもしれない。そんな犬死にをするより先に、私にはやらなければならないことがある。 だから、こうしてペンを取った。 いつか誰かに読まれることを願って、この手記を書き始めることにする。 私の意志を残すために、あわよくば誰かに託すために。 あとどれだけの時間、書き続けられるのかは判らない。もしかしたら、次の頁には何も書かれていないかもしれない。書けずに私が終わるかもしれない。何も変えられないかもしれない。しかし、この状況だけを残して死んでしまうなんてそんなのはごめんだ! どうか、この手記を読んでいるあなたが、私にとって味方となりうる人物だということを願う。 外へ。 ここから外へ連れ出して欲しい。 あれは、ワイがエス博士から奪ったものだ。 |
■ 1. 地下研究施設に住まう医王・ 一人は、わずか9歳の少女「 「だから、それはパターンHだって言っただろう! もう一週間も前じゃないか」 窓が無く狭い部屋に高い声が響き渡った。 7名の部下を前にして薫は怒鳴りつける。部下は全員20代〜30代、それでも気後れなどせずに睨みつけた。 この研究施設は13の班で構成される。そのうちの3班の班長が薫だった。幼い少女が班長というのも可笑しな話だが、この施設内において薫を子供扱いすることは許されていない。薬品類の取り扱いおよびその知識に関して、薫は周囲の研究員を凌ぐ能力を持つ。それから矢矧義経がこの研究施設を興したときに外界から連れてきた少女で、職員最古参のひとりであるからだ。 薫に怒鳴られた班員は言い返した。 「でも」 「言い訳するな」 「矢矧さんは1600番の結果を待ったがいいと言ってました。だから、そのパターンは止めるべきだと思って」 ───またか、と薫は舌打ちする。 班員にとって班長の薫は直接の上司。薫にとって所長の矢矧義経は一応の上司だ。 最近、何かというと矢矧の名を出して薫の言い分を跳ね返す動きが班の中で見られた。勘ぐりすぎかもしれないが反抗めいたものを感じる。仕事が思い通りに動かず、薫は苛立っていた。 薫は矢矧の名を出されても怯むことは無い。しかし、組織としての最低限の上下関係を守らなければ秩序が乱れる。無理に我を通して班員の不興を買ってもあとが遣りにくくなるだけ。不本意だがここは退くべきところだ。 「どこ行くんですか?」 こっそり抜けだそうとしたところを見つかってしまった。 「気分が悪い、医務室にいる」 そう言い残して部屋を出た。 * 薫は前ほど仕事熱心ではなくなっていた。 以前は少しの不満を漏らしつつも、3班の班長、延いては一研究員として、純粋に仕事を楽しみ、遣り甲斐を持って仕事をこなしていた。それなのに、今は少し違う。 (仕事が嫌なわけじゃないんだ) 仕事は変わらず面白い。ただ、部下が思うように動かなかったり、そのせいで自分の仕事の進捗が上がらなかったりする。それが少しだけ、いとわしい。 (こういう仕事でチームワークが必要とはあまり思わないけど、遣りづらいと思うのは足並みが揃ってないせいなんだろうな) 地下施設ゆえに窓が無い長い廊下を乱暴に歩く。ずっと先まで続く蛍光灯にさえ苛立ってくる。 窮屈なのだ。 昔、3班の人事権は、実質、薫にあった。当時、部下だった大人達は、口が悪かったり、喧嘩もしたりしたけど、薫と本気で向き合う人間が集まっていた。思い返すと居心地は決して悪くなかった。けれどいつからか、少しずつ何かが変わっていった。薫が気付かないうちに、水面下で大きなものが動いていたようで。 ここ1年で、班員は総入れ替えされた。 1年前、3班にいた人間は少しずつ一人ずつ異動していった。矢矧が薫に言うには、 薫はそれを聞いて少しだけ胸が痛んだ。元班員の離別と、胸の痛みの因果関係を結ぶことができなかったけれど。 「 医務室は20畳ほどの広さで薬品棚、書類棚、簡易ベッドなど一通りの設備が揃っている。広くはないが支障はない。この部屋が医務室という名のとおりの機能で使われることは希で、ほとんどの時間はたった一人が事務作業をするのに使われているだけだからだ。 「おう、怪我でもしたか?」 衝立の向こう側から、所内唯一の医務員である西山が顔を出す。 医務室は直接の業務とは無関係で13の班からも切り離されている。班に属してないという意味で、西山は所内で矢矧の次に異色な人物だった。 「いや、ヒマ潰し」 そう答えると薫は遠慮なく部屋に入り、鷹揚に構えて椅子を陣取った。その様子に西山は憎々しげに笑う。 「まったく、おまえといい恵といい…ここは喫茶店じゃねーぞ」 「恵?」 「ああ。よく入り浸ってたよ」 「あいつのことだ、サボってたんだろ?」 「そう、いまの薫と同じくね」 冷やかして返すと薫は一瞬むすっとして、次に苦笑した。サボりだということは自覚していた。 茶を淹れる準備をする西山の背中に薫は疑問を投げた。 「西山は私のおとうさんのこと覚えてる?」 「… 薫の父親はすでに他界している。 いまの地下研究施設に来る前、薫の父・芳野と矢矧は同じ研究室で働いていた。そこでは西山も所属しており、職場には薫と恵も入り浸っていた。芳野の死後、矢矧はそれら数名を連れてこの施設に下ったのだ。 「どうしたの、突然」 「別におかしくないだろ、私の父親なんだから」 「それは、そうだけど。薫は? 芳野博士のこと、なにか覚えてるの?」 芳野が没したとき、薫は4歳だった。 「ほとんど覚えてないんだ」 西山はう〜んと考え込んだ。 「俺にとっては神様みたいなひとかな。ま、言い過ぎだけど。でも今も尊敬してる。知識や実績はもちろん、仕事の向き合い方とか」 声に熱がこもる。 「俺ら下っ端にも気安くて。矢矧さんからも一目置かれていたし。そうそう、当時、あの気難しい矢矧さんと対等に話せたのはあの人だけだった」 「別に気難しくないだろ。矢矧は」 「それは君も目をかけられてるからだって」西山は呆れたように言う。「薫、わかってるか? この施設内で矢矧さんとタメ口利いてるのって、君だけだよ?」 「そうか?」 まだ納得しきれてないように薫は首を傾げる。 「おとうさんって、矢矧と仲良かった?」 「あぁ、うん。パートナーって雰囲気で───……、って、“おとうさん”!?」 「…なに?」 西山の大袈裟な復唱から含むものを読みとって薫は不満げに見上げた。 「薫は“おとうさん”なんて、呼んでなかったじゃないか」 「え? なんて呼んでた?」 「“よしの”って」 (よしの…?) 「矢矧さんがそう呼んでたから耳で覚えちゃったんだろうな」 と西山はおかしそうに笑った。 「…よしの」 音にして呟くと、くすぐったかった。 「ほんとに覚えてないんだな」 「だから、そう言ってるだろ」 「そういや写真があったよ」 「写真?」 「 「おとうさん、と、私?」 「うん、確かそう」 「───見たい」 突然、薫は声を強くした。西山は少し驚く。 「…悪ぃ、もう無い。その写真、恵に譲った」 「恵?」 「そう、奪われたっていうほうが正しいな。恵の部屋には残ってなかったから、持って行ったんだと思う」 「…ふぅん」 そのとき、ノックが鳴った。 サボり中の薫は椅子から飛び上がって簡易ベッドの下に隠れた。 「私はいないって言え」 はいはい、と西山は息を吐きドアへ向かった。 訪れたのは9班の丸山という男だった。 「こんにちは。薫、来てます?」 「いいや」 西山は肩をすくめて答える。丸山は口元だけで笑った。 「そうですか、じゃあ、これから定例なんで、もし見かけたら会議室に来るよう伝えてください」 西山も笑って応えた。 「たしかに、承るよ。…ところでなんで丸山が呼びに来るんだ?」 「そりゃ、13人の班長のなかで、俺が一番末席ですからね」 じゃあ、と丸山は手を振って去っていった。軽い音を立ててドアが閉まった。 それと同時に隠れていた薫が顔を出す。 「もしかして、バレてた?」 「もしかしなくても」 西山は苦笑して振り返る。薫は白衣の裾を払って立ち上がった。 9班の班長は丸山という20代後半の無口な男だ。薫は業務連絡くらいでしか話をしたことは無い。 「西山って、丸山と親しいのか?」 「べつに、普通だと思うけど」 「丸山って無愛想な印象あるけど、ずいぶん気安そうだったから」 「それを言うなら、ここの誰もが俺には気安いと思うよ。何せ、仕事上のつながりはない顔見知りだから、気を遣う必要が無い。君だってそうだろう」 「確かに」 「で、君は定例に出るのか?」 「今日はとくに面白い話もなかったはずだ。───サボる」 薫は書棚から適当な本を取って椅子に戻った。 もう一人の姫は 恵は一年前に失踪した───付いていた監視2人を殺して。 殺した、と言われている。実際、ふたつの死体を薫も目にした。けれど、恵が殺したというのは未だに半信半疑だ。恵は当時18歳で、いつも熊のぬいぐるみを抱いて、無邪気に笑う。リスカ症候群という問題点もあったが本人はそれを問題とはしておらず、改めようなどとも思っていなかった。少し精神を病んでいるように見えた。雲の上を歩いているような少女だった。 (あの恵がヒトを殺すなんて…) 恵は名目上、9班班長だった。失踪後、その空席には副班長だった丸山が就く。所内は半月で落ち着きを取り戻し、通常業務に戻っていた。 (殺してまで、どうしてここから出て行ったんだろう) 薫は最近よく恵のことを考える。 (恵はここにいるのが嫌だったのか?) (それとも外に行きたいところがあったのだろうか?) 恵の失踪と時を同じくして、もうひとつ、薫を思想させることがある。 842番という最悪の赤い薬のこと。 1年前、3班は全員が結託してある薬を外部に隠していた。矢矧に対してもだ。その薬をヒトが服用すれば最後、苦しみぬいた挙げ句、死に至る薬。手違いで製造されてしまい、報告することもできず隠蔽したのだ。しかしそれが何者かによって盗み出されたと知り、薫は冷や汗を掻く。使用されれば死体が出ることは確実だから。 恵が失踪したときの事件でそれは発覚した。盗み出していたのは恵だった。薬の存在を矢矧に知られてしまったが、結局、842番はすべて回収し、処理された。 (───誰も傷つけなくてよかった) いまでもしみじみと息を吐く薫だった。 恵の失踪と赤い薬の処分。それはともに1年前の出来事である。 |
■ 2. ───。 よしのに名を呼ばれて振り返る。その瞬間がいつも楽しかった。 暗黙の習慣があった。腰をかがめて覗き込むよしのと、イタズラを誇る子供のように、にぃ、と笑い合う。薫が両手を伸ばすのはひとつの合図で、そうすると決まってよしのは抱き上げてくれた。同じ目の高さでものを見ることができた。名前を呼ばれることが毎日楽しみだった。 薫は父親の顔を覚えてない。けれど記憶のなかの芳野はいつも逆光のなかで微笑っていた。そして語りかけている。 腰をかがめて小さい薫を覗き込むように、ときには抱き上げて。 いつも薫に話しかけている。 (…なに?) 記憶はその声を覚えてない。 (なんて言ってる?) 芳野は何を話していただろう。なにひとつ、薫は覚えていなかった。それが苛立たしい。 薫が持つ知識の土台や、作業の技術は矢矧から教わったものだ。父親から薬理学を教わったという覚えはない。でも、生前の芳野は薫にたくさん話をした。いつもふたりで、たくさんのことを。 (なにを教えてくれた?) (どうして覚えてないんだ) 今の住処に来て5年、薫は父親のことをあまり思い出さなかった。芳野が亡くなった当時薫は幼すぎたし、ここで仕事を始めてからは忙しい毎日で過去を振り返る余裕もなかったから。 薫が父親のことを思い返すようになったのは1年前。 「ヨシノ博士が教えてくれた」 失踪前、恵がそう言ったからだ。 (そうだ、私も、教えてもらっていたはずなんだ) 思い出そうとして思い出せない。面影を見つけては記憶を辿る、その繰り返し。もどかしい苛立ちに、少しだけ悲しみが混じっていた。 こつこつこつ、と硬質な音が響く。 四方を背の高い本棚で埋められている所長室は息を詰めさせる圧迫感がある。本棚に収まりきらない雑誌や専門書が床に積み上げられて文字通り足の踏み場もない。照明は点いているはずなのにどこか薄暗い室内で、中央に置かれたパソコンモニタが人影を浮かび上がらせていた。 この地下研究施設の所長、矢矧義経である。 くたびれた白衣姿で椅子の背に寄っ掛かり、モニタに目を向けたまま、右手の中指で机を叩く。その背中を眺めているあいだは、大抵いつもその音を聴かされている。呼び出されて来てみれば、数分、この調子だ。 こつこつこつ 薫はこの音が嫌いだった。ピンと張りつめた空気の時間を計るその音が、その場をさらに長く続かせようとしているようで。 薫はドアの前で矢矧の言葉を待った。とても息苦しかった。 矢矧と2人きりになると緊張する。 ───以前はこんなことなかったのに。 「会議をサボるのは感心しないな」 突然声を掛けられて薫は飛び上がる。たぶんその驚きは声に表れてしまっただろう。 「気分が悪かったんだ」 「西山、か」 「え?」 「まぁ、いいよ」 くるりと振り返る。薫相手では椅子に座っていても矢矧のほうが目線が高い。眼鏡の奥の眼は薫と視線が合うと細く笑った。 「今日、来てもらったのは、昨日の定例で話したことを君に聞いてもらいたいからだ。同じ事を話さなきゃいけない俺の手間も労って欲しいな」 * 「視察?」 薫は眉をひそめて問い返した。矢矧はボールペンで顎を突いている。 「そう。急だけど、明後日から外部の人間がここに来るよ。いろいろ見て回りたいそうだ」 薫はぽかんと口を開けて呆然とする。「珍しいな」 本当に珍しいことだった。ここに部外者が来ることなどめったにない。少なくとも薫は見たことがなかった。古株の薫がそうだということは、今まで一度も無いということだ。 「痛くもない腹をさぐられたくないから、みんな、必要以上に猫かぶるだろうな。そういうわけで、しばらく所内がぎくしゃくするかもしれないけど、まぁ、薫は気にすることはないよ」 「面倒くさいな。どうして断わらなかったんだ、らしくない」 「我らがスポンサー殿からの依頼ならしょうがない」 「それの知人かなにか?」 「知人なら断れば済む」 「じゃあ、誰?」 「桐生院由眞…と言ったか。スポンサー殿はその老媼に頭が上がらないらしい。俺らには関係無い話だけど、財界の大物ってとこだろう」 「じゃあ、その桐生院ってヤツが来るのか?」 「まさか。その老媼に威を借りた別部隊だろう。まずは明後日、少数で下見に来るらしい。さらにその後、十数人で来るそうだ」 そうだ、と矢矧は付け加えた。 「薫はあまり表に出ないようにしてくれる? 君が優秀なのは職員全員解っているけど、外から来た連中から見れば君はやっぱり小さな子供だからな。見に来た客を驚かせてしまうだろう?」 薫は頷いた。 * 「最近、仕事がはかどってないらしいね」 矢矧に痛いところを突かれて身体を強ばらせた。 「…ここのところ班内の異動が多くてやりにくいだけだ」 「君自身の不調ではない、と?」 「ああ」 「じゃ、仕事増やしても大丈夫だね」 「…」 墓穴を掘ったことに気付き、薫は軽く舌打ちした。 「3班の人間にはもう言ってあるから、頼んだよ」 「…おい」 「君の部下に仕様書を渡しておいた。君もすぐ参加してくれ」 「───矢矧」 「なんだい?」 「3班の班長は私だ、ちゃんと話を通してくれないか? 勝手に部下を使われてはおもしろくない」 矢矧はただ笑う。 「今度から気を付けるよ」 それが期待できる回答でないと、薫はなんとなく解っていた。半ば諦め加減の溜息をそっと吐いた。 |
■ 3. 外部の人間が視察にやってくることは西山も知らされていた。西山もまた、薫と同じように「珍しいこともあるもんだ」と矢矧ら上層部の気まぐれに首を傾げていた。 視察員は今日から3名入っているという。職員の数人が案内役をしているらしい。 (あとから十数人来るって言ってたけど、どんな団体なんだか) この地下研究施設は創設から今まで、部外者を入れたことは一度も無い。当然、矢矧は今回のことに反対しただろう。しかしそれでも話が通ったのは、どこからか圧力がかかったということだ。この施設の出資者や矢矧に圧力をかけられる来客者が一体何者なのか、少し興味がある。 興味があると言っても、医務室で仕事をしている限り視察員を見ることもないし、わざわざ出て行って野次馬になろうとも思わない。その程度の興味だ。 それにしても所内は昨日から慌ただしかった。もともと、叩けば埃だらけの組織である。一時的な掃除に職員は大忙し。今朝からはどこかぎこちない空気が施設内に充満していた。 (アラを見つけさせる矢矧さんじゃないだろうけど、あの人もやっぱり気が気じゃないんだろうな) そんなことを考えていたときのことだった。 「西山さん!」 医務室に数人が雪崩れ込んできた。 先頭は5班所属の職員、中島という男だった。さらに後ろの背の高い男は、ぐったりとした髪の長い女を抱えていた。ここは医務室だ。西山は自分の本分を思い出し緊張した声で言った。 「どうしたっ?」 「視察の方が、直接吸引しちまって卒倒したんだ、見てくれ」 「えっ!?」 西山も飛び上がった。確かに、後ろで抱えられてるほうの女はこの距離でも意識が無いのは明白。 「すぐにベッドへ…」 中島の後ろの男は西山の誘導に従って女をベッドに下ろした。西山はふと気が付く。男女2人は、知らない顔だった。 (こいつらが、視察員?) よく観察したかったが今はそれどころではない。 中島は蒼白な顔をしている。不祥事を案じているのだ。 「薬品はなんです?」 換気扇をつけ患者のブレザーを脱がせながら訊ねると、中島は所内でも使用頻度の高い薬品名を挙げた。あぁ、と西山は安堵の息を吐く。 「それなら多分大丈夫だ。刺激臭に身体がびっくりしただけだう。毒性は少ない。2時間もすれば目を覚ます」 「そうですか」 「よかった…」 来客の男のほうは落ち着いていたが、中島は倒れそうなくらいほっとしていた。大事になったときの責任を考えれば無理もなかった。 西山は苦笑した。薬の扱いに慣れているここの職員のなかで、直接吸引するような馬鹿はまずいない。試験管から手で仰ぐ手順は基本中の基本。素人が来るというのはこういうことか、と妙に納得した。 来客の男が言う。 「では申し訳ありませんが、寝かせておいてもらってもよろしいでしょうか」 この男は西山よりずっと若い。長い髪を後ろで束ねて、カーキ色のスーツを着ている様は新成人のようだ。視察の第一陣は若い研修者と聞いていたから大学生かもしれない。 「ああ、構いません」 相手の礼儀正しい態度につられてこちらも丁寧になった。 「じゃあ、中島さん。向こうも待たせていることですし、私たちは戻りましょう」 「ああ、そうですね」 「後で迎えに来ますので、宜しくお願いします」 男は西山に頭を下げて、中島とともに医務室を出て行った。 患者の隣に扇風機を置いた。もう無いはずの刺激臭を身体が覚えていて、まとわりついているような感覚が後を引くことがある。その気休めのための扇風機だ。 こちらの女のほうは先程の男よりもっと若い。長い髪を結びもせず背中に流している。目を閉じて穏やかな寝息が聞こえてくる。 (さて、何者なのやら) 衝立をかけて机に戻ろうとした、そのとき、 「視察に来た人間が倒れたって?」 今日は休暇を取っているはずの薫がやってきた。何しに来たんだと訊くと、部屋でじっとしてるのもヒマだったから、と答えた。 「直接吸引したんだとさ」 薬品名を教えると、薫は驚いたようだった。 「馬鹿か? それじゃあ卒倒もする。常識だろ」 「オレらの業界だけだよ、常識なのは。それに5班の管理が杜撰なせいだ」 「寝てるのか?」 「ああ、だから静かにな」 薫は衝立に目をやったまま西山に訊いた。 「ちょっと覗いてもいい?」 「どうして?」 「外の人間を見たことないから」 「───だめだ」 けち、と薫が毒づくので苦笑して返す。 「ほら、なにか飲みたいなら淹れてやるから、こっち来い」 すると薫は大人しく戻ってきて椅子に腰掛けた。 「視察が来てる間は休暇になるんだろ? その間はなにするつもりなんだ?」 「なにも。部屋で本でも読むさ」 「たまには外出許可でももらえばいいのに」 「ん? うん…」 少し悩んでからあまり乗り気で無さそうな返事をする。「西山は? 休暇のときは何してるんだ?」 痛いところを突かれた。 「俺も外には出ないな。っていうより、ずっと寝てるし」 「なまけもの」 「それは否定しない」 「あ、でも、西山はたまに仕事で外に出てる」 「出てると言っても、在庫充当の買い出しだけだ。君らと違って経費は別計上だから」 「買い出しって?」 「医薬品の卸問屋へ行って、適当に買ってくるだけ。…なんだ、興味あるなら店紹介しようか? 意地の悪いオジサンが店長だけど、勉強になることも多い」 「ん。いい」 と、首を横に振った。今度は即答だった。 「ぁー…」 会話が中途半端に途切れて、薫は取り繕おうとする。けれど言葉にはならず、視線をいくどが動かして、言いにくそうに口を開いた。 「私は、ここに来てから、一度も外に出たことが無いんだ」 「…そうだな」 いくつか言葉を選ぶ素振りでゆっくりと言った。 「外に出たいと思わないんだ。たぶん、まったく新しいものを知るのが恐いんだと思う」 「は? 恐いって?」 「ここに来て5年で、今の生活に慣れきってしまったから。私はここの生活しか知らない。もし外に出たら価値観がひっくり返りそうで恐い」 「───新しいものを知るのが恐いなんて、研究者として失格だなぁ?」 「うっ」 「思考が柔軟な若いうちに、そんなものは壊しておいたほうがいいぞ? 年取ると余計苦労するぜ」 「その言い方は、私が年取ったら、思考が柔軟でなくなるような言い方に聞こえるが」 「そう言ったんだ」 「馬鹿言うな。私は10年後だって、今と同じように仕事してやるさ」 「ん、まぁ、あと10年は平気かな。ハタチ過ぎれば天才少女もただの人だろうけど」 「にーしーやーまー」 バンッ ノックも無しに医務室のドアが開かれた。 一瞬で空気が凍り付く。西山は目を瞠り、薫は青ざめた。 そこには矢矧義経が立っていた。 「薫、すぐ俺の部屋に来い」 無感情、けれど有無を言わせない口調だった。薫は強がって言い返した。 「休暇中なんだが」 「だったら、仕事中の西山の邪魔をするんじゃない」 薫はしぶしぶ重い腰をあげた。矢矧と目を合わせないようにして医務室を出る。矢矧は薫に先に行くよう指示したあと、室内に視線を戻した。顎をしゃくって西山を呼ぶ。西山はゆっくり椅子から立ち上がり、ゆっくり足を運んで、矢矧のそばについた。 矢矧は低い声で言った。 「薫をあまりここに来させるな」 西山はできるだけ平静を保ち応える。 「視察に来た人間がここで寝てます。あまり大声で話さないほうがいいんじゃないですか?」 矢矧は声を顰めて笑った。「西山」 「俺がおまえを、いつまでも大人しく飼ってるとは、まさか思ってなかったろう?」 「そうですね。まさかこんな長い間、放っておいてもらえるとは思ってませんでした」 「近いうち、かまってやるさ」 矢矧は最後に冷酷な瞳を見せて踵を返した。 * ふぅ、と西山は慎重に息を吐いた。ドアが閉まっても、安心できなかったからだ。遠くなる矢矧の足音を用心深く聞いて、やっと緊張を解くことができた。 背中と手のひらに汗を掻いていた。 (矢矧さんと喋ったのは久しぶりだな) 矢矧が自分を見る目はいつも刺すように鋭い。その目を意識し始めた頃、西山は自分に監視が付いていることを知った。そして気が付けば懇意だった人間は次々にいなくなり、そのほとんどの消息が知れない。連絡が取れている数人は手紙をくれる度に言う。「矢矧義経から離れろ」、と。 けれど西山はこの施設から離れるわけにはいかない理由があった。 西山はドアから離れデスクに戻り、引き出しを開けた。そこにはノートがしまってある。それを手に取ろうとした、 そのときのことだった。 「さっきの女の子が“薫”? “保健室の先生”さん」 「!」 突然の高い声に西山の心臓は跳ね上がった。いつも一人でいる医務室に他人の声は無い。無いはずの声を聞いて西山は後ろを振り返った。そのとき動揺が行動に表れて膝を椅子にぶつけた。派手な音を立てた。痛みを気にしている余裕はなかった。 締めたはずの衝立のカーテンが開かれていた。そして先程まで眠っていたはずの女がベッドに座り西山を見つめていた。 「西山さん───でしたっけ?」 背中まで伸びる長い髪を直して座り直す。外見はずいぶん若く見えるのに、落ち着いた口調。年齢を読みにくい女だった。 「視察というのは建前で、私はあなたに会いに来たんです」 「は?」 「桐生院さんが手を回して警察を動かしてるんですけど、これはあなたの希望に添ったかたちになるかしら?」 「…警察?」 「この研究施設が潰れてしまっても構わない? という意味です」 「ちょ…ちょっと、待って。何のことだ? それに、君は…」 あっ、と女は口元に手を当てた。「失礼しました」その仕草は幼く、女の年齢を若く見せた。 「峰倉薬業にメモを残したでしょう?」 「───…?」 「“薫を助けてくれ”って」 * * * 薄暗い廊下を、矢矧の一歩後ろを薫は歩く。 そっと矢矧の表情を窺う。けれど、なにも読めない表情があるだけだった。その視線に気付いたのか、矢矧がわずかな動作で振り返る。薫は慌てて目を落とした。 (───いつからだろう、矢矧の顔色を気にするようになったのは) 「…薫も、あまり西山と遊んでるんじゃない」 低く響いた声に薫は身体を強ばらせる。 「私が勝手に押しかけてるだけだ。西山は悪くない」 そう答えると、矢矧はひとつ息を吐いた。 「仕事はもう面白くなくなった?」 「ちがう」薫は即答できる。「仕事が嫌なんじゃない」 「それはよかった」 矢矧は視線を前に戻す。視線による戒めが無くなり少し楽になった。 「実は頼みたいことがあったんだ」 * * * 西山がこの施設を離れない理由は放っておけないものがあるからだ。それが解決するならここにいる意味はない。リスクは承知の上で、西山はすぐにでも脱走するだろう。 その「理由」を、高ぶる感情に任せて書き残したことがあった。月に一度、外に出たときに(監視付だが)、薬品店で。 「え…? あの、メモ?」 驚愕のあまり声が裏返ってしまった。張り上げてしまいそうになる声をどうにか落として西山は言う。 「峰倉さんのところの?」 残したメモは、そのままゴミ箱に棄てられてもおかしくないような紙くずだった。神にも祈るような、藁にも縋るような気持ちで、吐き捨てたい思いをそのまま書いた。それがまさかこうして実を結ぶとは。 「それだけで、ここまで来たのか?」 「いいえ」 と、女は苦笑する。 「西山さんのメモで私は動いたけど、こちらはついでなんです。───本筋は別にあって、そちらと協力しているだけです」 「別って」 「国薬連の幹部が桐生院という人物に相談を持ちかけています。矢矧義経の処置について」 「!」 「この2つの依頼を調べた桐生院さんが警察を巻き込んで、こうして動いたということです。矢矧義経を摘発するために。つまり───近いうちに警察の強制捜査が入ります。書類待ちですから、時間の問題ですね。そう、遅くても3日くらい」 「……」 西山は両膝の力が抜けてその場にへたり込みそうになった。全身を静かに襲う安堵感に、張りつめていた精神の糸が途切れたように感じた。 「そして私は峰倉さんとちょっとした知り合いなんです。峰倉さんからあなたが残したメモの相談を受けました。でもあのメモからじゃ何の情報も読みとれないのであまり相手にしてなかったんですけど、あの人にしてはやけに気に掛けてたし…。よくよく付き合わせてみると、桐生院さんのほうと関連性があったので驚きました」 「君は何者なんだ?」 「阿達…じゃなくて、御園まりえ。入門の手続きはそういうことになってます」 「え?」 「偽名です。一応、駆け出しの興信所なんですが、今回は単に桐生院さんの手伝い。警察の書類を待ってるのも馬鹿馬鹿しかったので先に来ることにしたんです。西山さんに聞きたいことがあって」 「…なに」 自称・御園まりえはまっすぐに視線を寄こした。 「どうやって“薫”を助ければいいの? なにから、助ければいいの?」 「───」 西山は冷静を取り戻した。 まさしく今がその好機だということは明白。しかし身体がすぐには付いていかなかった。 深く息を吸うと踵を返し、足を鳴らしてデスクに戻る。躊躇無く引き出しを開けるとそこにあるノートを取った。 「これを」 振り返り、御園まりえに言う。 「え?」 足早に歩き、御園まりえにノートを受け取るよう促した。西山の勢いに呑まれて御園まりえは両手を伸ばす。 「俺が言いたいのは、これがすべてです」 その日、御園まりえは地上へ帰って行った。 彼女の言を信じるなら、警察が来るのは3日後である。 |
■ 4. 所長室のドアを開けると矢矧はそのまままっすぐに歩き、正面の椅子に倒れ込むように座った。大きな構えで足を組むと、肘をついてドアの前に立つ薫に目を向ける。 薫は居心地が悪そうに視線を微妙に逸らした。逸らしたまま言った。 「で? 何の話だって?」 頼みたいことがあるんだ、と矢矧は言った。仕事はつい先日新しいものを受けたばかりだし、仕事以外の頼み事など想像できない。何にせよ、薫は早く聞いて早く帰りたかった。 「そろそろ本気を出してもらいたいと思ってね」 「本気?」 矢矧はそのままの表情と声で言う。 「842番をまた作ってもらいたい」 「え」 顔を上げると矢矧と目があった。矢矧の表情は少しも変わらない。 冗談を言ったのだろう。薫はむっとした。 「馬鹿言うな、あんなものつくりたくもない」 「そう言わないで」 「それにあれは偶然の副産物だ、 話題を早く終わらせたくて適当に流そうとした、しかし、 「モデルならあるよ」 「───?」 矢矧は薄く笑った。すっと右手を持ち上げると大きな動作で指先をひらめかせた。 その指先には小さな薬瓶。 赤い錠剤が詰まっていた。 「どうして…っ!??」 薫はこれ以上無いくらい目を瞠る。 「すべて処分したはずだ!」 「処分したのは誰だった?」 「 薫が怒鳴り返すと、矢矧は不敵に笑って頬杖をついた。 「さて、この所内の人間が、矢矧義経と島田芳野の娘と、どちらの命令を聞くと思う?」 薫は言葉を失くした。最初は、ぽかん、とした表情で。次に唇を震わせ、顔を強ばらせて。 その様子を見て矢矧は椅子から立ち上がった。 「ああ、驚いた!」 大袈裟に手を広げて歩み寄る。薫のところまで来ると、髪に触れ、優しく撫でた。「…ッ」薫は凍り付いた。 「君は本当に頭がいいね。───ちゃんと解ってるじゃないか」 耳元で囁かれる低い声に泣きそうになる。 まるで頭蓋骨の内側に氷が張ったかのように、凍えて、気が遠くなった。 どうしてその声を今まで普通に聞けていたのだろう。 「自分の立場をちゃんと解ってる。…いい子だ」 やわらかな声で優しく頬を撫でられたはずなのに、喉もとに冷たい刃物を突きつけられたようだった。 842番が残っていると知ってしまった今、薫のなかで膨らみつつあった矢矧への不信感は最高潮に達した。 (…なんとなく、わかっていたはずなのに) 一年前、恵がいなくなった後の所内での自分の待遇の変化。矢矧の嘘。少しずつ沸き上がる不安。 (どうして矢矧は842番を処分しない?) 人間には到底使えない。動物の安楽死だって、苦しまない薬は他にいくらでもあるのに。 (どうして?) 一年前、万が一でも誤飲しないように薬を赤くしたのに、それでも薫には「誰かを死なせてしまうのでは」という強迫観念が消えなかった。変わらず日常を送っていても心のどこかで842番を気に掛けていた。 恵の失踪と同時に薬は処分されて、肩の荷は降りた。それなのに、また、同じ心労を背負うことになるとは。 (何故、矢矧は処分しない!?) それを深く考えてしまうのは怖い気がした。 「…矢矧」 「ん? ああ、今日のところはもういいよ。残った仕事を…と言いたいところだけど、自室へ戻ってくれたほうがいいな。まだお客さんがうろついているからね」 薫の頭のなかの混乱は収まらず、薫は言われた通り、踵を返しふらふらと部屋を出て行こうとする。 「薫」 呼び掛けに足を止める。 「西山のところへ行くのはやめろ」 私の勝手だ。そう言う覇気も持てない。 薫は逃げるように矢矧のもとを去った。 その日を境に、薫に監視が付くようになった。 |
■ 5. 薫は地上へつながる長い廊下に立つ。 これ以上、進む気は無い。廊下のその先をただ見ているだけだ。 ここは地下の出入りを監視する守衛室より外側。この施設の、最も地上に近い場所。薫がそこに立ったのは初めてだった。 経路図を信じるならここから数十メートル先の階段を上ればそこは地上である。薫は5年間、そこを通ってない。一度も、外に出ていない。 昨日から薫に張り付いていた監視は、今も3班の部屋の前で突っ立っているだろう。彼らより長くここに住んでいる薫は、彼らの目を盗み、抜け道を使って逃げることなど簡単。見張られる生活はもううんざりだった。 薫はもう30分、その場に立ちつくしている。 長く続く廊下の真ん中で。 (… (だから、この足はこれ以上動こうとしないんだ) 1年前、恵はここから出て行った。 守衛室前の監視カメラには、恵の「あっかんべー」が映っていたという。それを聞いたとき、薫は笑ってしまった。 恵らしい。さらにそれは恵が自分の意志で失踪したという証拠になり、薫は安心した。 (恵、今、どこにいる?) 懐かしみを込めて問う。 きっと今も、周囲に少しの迷惑をかけながら好き勝手やってるんだろうな、と思うとまた笑いがこみ上げる。同時に目頭が熱くなる。 (どんな場所にいる?) ここ以外の景色を薫は知らない。 外に出たいと思ったことはなかった。ここで働くことは面白かったし、ここを離れたい理由も無かったから。けれど、 (息苦しい) 842番が存在する重圧に耐えられそうもない。 矢矧はそれを造れと言う。嫌だと突っぱねるだけで済めばいい。けれど、ここでの自分の立場を考えたらそうもいかないことはよく解っていた。 (ここから出たいと思わないのは、まったく知らない世界に飛び込むのが恐いからだ) 新しいものを知るのが恐いなんて研究者失格だな、と西山は言った。まったく、その通りだと思う。 (でも…わからない) 外になにがあるのか。ここにいるより良い状態なのか。 なにをすべきか。 どうしたいのか。 (わからないんだ) 「───薫」 「…っ!!」 いつのまにか背後に矢矧が立っていた。撒いてきた黒服の監視2人も矢矧の後ろにひかえている。 矢矧は手を差し伸べた。 「だめだよ、部屋に戻ろう」 「矢矧…」 無力感に襲われ泣きそうになる。 足を運ぶことができない。差し出された手に応えることも、身動きすることもできずに薫はただうつむいた。 矢矧は息を吐いた。振り返り、手振りで黒服の監視たちを退がらせる。薫に視線を戻し、一歩踏み出して、幼子を宥めるように言った。 「どうした薫。悩み事でもあるのか?」 「恵は…どこに行ったんだろう」 「寂しい?」 ───ちがう。 「僕がいるじゃないか」 「ちがう…」 うまく口にできないもどかしさに首を横に振るだけしかできない。 (そうじゃないんだ) 本心を言えば、恵がいなくなった寂しさはある。ただそれ以上に、今、恵がどんな場所にいるのか、どんな人と一緒にいるのか、それを思うと訳も分からず心がはやる。 「薫はここにいればいいじゃないか」 「…」 「芳野だって、生きていればここにいた。一日中、好きなことを研究できるんだからね」 (…おとうさん?) その瞬間、 ちりっ 音を立てて脳の神経が焼き付いたような気がした。 一瞬でたくさんの風景が頭のなかを駆け抜けた。そのうち拾うことができたのはほんのわずか。あまりの衝撃に悲鳴をあげそうになった。膨大な量の情報を処理したせいで、とてつもない疲労感に襲われた。 「矢矧…、それ、ちがう」 「ん?」 拾うことができた記憶は父親の言葉を残していた。 「ちがう…ちがう! おとうさんはこんな所にじっとしてる人じゃなかった、おとうさんは仕事が好きだったわけでも、研究作業が好きだったわけでもなかったんだ」 いつも抱き上げてくれた。同じ目の高さで世界を見せてくれた。 どうして忘れていた? いつも言われていたのに。 「いいかい、───」 名前を呼び、言い聞かされる。 「ヒトの役に立たなきゃ、学問の意味は無い」 研究の意味も無い。仕事の意味も無い。 「だから」 いろんなヒトに会いに行こう。 なにに苦しんでいて、どんなものが欲しいのか訊きに行こう。 「それがわかったらもっと仕事が楽しくなる」 「僕は自己満足で仕事しているけどね、それはヒトの為になるという自己満足だよ」 (ばか…っ!) 父の言葉を忘れていた己をなじる。仕事の作業にしか面白みを感じていなかった自分を呪った。5年という長い時間、自分はなにをしてきただろう。 自分がしていることは正しい。そんな根拠の無い自信に酔っていただけか。 ふぅ、と重々しい溜息が響く。薄暗い廊下がさらに暗くなったように感じた。 「まったく…、───忌々しいな」 矢矧は薫を見下ろした。父の言葉を思い出し高揚していた薫の身体は、その冷めた視線で瞬時に凍り付いた。 「あまり違う違う言わないでくれないか。否定されるのは不愉快だ」 「…やはぎ?」 薫は思わず一歩退がった。 寒気がした。その声色に。 いつもの口調とは明らかに違う響きで言い放つ。 「戻れ」 有無を言わせない口調。薫はもっと退がりたかったが足が竦んで動けなかった。わけもわからず膝が震えた。薫の後ろには長く廊下が続いている。それなのにどうして、追い詰められたような気持ちになるのだろう。 矢矧のほうが足を進めて薫の前で腰を落とし、目線を合わせてきた。「…っ」歯を食いしばり悲鳴を堪える。思わず身構える。 「俺の姫はもうおまえしかいない、おまえはここにいるしかないんだ」 薫は絶句した。 (だから…?) (だから、監視を付けたのか? 恵にも───私にも) このとき初めて薫は置かれている状況を理解した。好きなようにしてきたつもりが、矢矧の手の上でしかなかったことを。 大きなショックがあった。薫は今まで矢矧を信用していた。ものごころ着いた頃には毎日のように顔を合わせていた、父親が死んで身寄りが無かった薫をここに連れてきてくれた。薬の知識を惜しみ無く教えてくれたのも、大人ばかりの施設で仕事と部下を与えてくれたのも矢矧だ。 その矢矧が今、842番を複製させるために薫を縛り付けようとしている。 (それは絶対にできない) 言葉にはできなくて、薫は乱暴に頭を振った。すると矢矧が責めるように言う。 「父親のことが忘れられないのか? 君は、自分の本名はすぐに忘れてくれたのに」 矢矧との距離が縮まって薫はまた一歩退がる。 「芳野もそうだ。結局、最後まで俺の理想を否定し続けた。あれでさえ、俺を理解できなかったんだ。君もそうなのか? 人体の機能を素晴らしいと思わないのか? 解明されている部分は一握りだが、それを支配できる悦びは無いのか? プリミティブな論理式でインナースペースをコントロールできる、とても美しいじゃないか」 薫は愕然とした。矢矧と父親の理想は違うものではない。 ただ、ベクトルの方向が違うだけで。 「あの薬」 「!」 「残数の3分の1を斉藤のところで解析させてるんだけどなかなか進まなくてさ。協力してよ」 「…やだ。もう、あれは棄てて…」 「どちらにしろ、君はここは出られないよ。それでも?」 「いやだ!!」 「自分がどんなに強力な武器か解らないのかッ!?」 「───っ」 頬を叩かれたような衝撃があった。 (武器?) そんなつもりは無かった。 面白がって、楽しくやっていることは、知らない場所にいる多くのヒトを助けるものだと思っていた。だから何の憂いも無く、そのまま面白がっていればいいのだと。 「すばらしい能力じゃないか。どうしてそれを使わずにいられるんだ」 「…わか…らない」 「解らせてやろう」 矢矧は無感情な声で言うと、白衣のポケットから何かを取り出した。 「…っ!」 それは赤い錠剤───842番だった。 わざと薫に見せつけたあと、矢矧はそれを手のひらにしまい、踵を返す。 「待て、矢矧…何する気だ」 矢矧は控えていた黒服たちに命令を出した。「西山を連れてこい」 「西山?」薫はその背中を追う。「どうして…矢矧、…待て!」 引き留めようと手を伸ばすと、逆に手を掴まれた。 「君もおいで」矢矧は静かに笑う。「見せてやろう」 「…うぁ」 酷い力で腕を引かれる。転びそうになってもそれを許さない力で手首を掴まれている。 「や、矢矧?」 一歩先を行くその表情は見えない。いつのまにか黒服の監視役も見えなくなっていた。おそらく矢矧の命令通り西山のところへ…。 (───) 瞬間、頭の芯が冷たくなった。 見せてやろう。 (…何を?) 薫は問う。 ひきずられるように暗い廊下を進む。その闇に飲み込まれるようで、薫は背中に虫が這うような寒気を感じた。 「…やだ」 (見せる?) (何を?) 足を踏ん張って抵抗を試みるが矢矧の足の速度は少しも変わらない。 「…っ」 (私が武器だという証拠?) (───どうやって!?) 矢矧の反対の手は軽くこぶしを作っている。842番を持っているのだ。 背筋が震え上がった。悲鳴をあげた。 「いやだっ! 矢矧!」 その叫びは渾身の力だったが、矢矧は気にも留めず足を進めていく。歩く速度は少しも落ちない。腕を掴まれている薫はひきずられるしかなかった。 (やだ───) ガチガチと奥歯が鳴りだした。それを止めようと歯を食いしばると、理由もわからず泣きそうになる。パニックを起こしそうになる。 恵がいなくなって1年。まとわり続けていた不透明な気持ちはやっと言葉になった。 (こわい) そう、やっと言葉になった。 (怖い…っ!) (矢矧は何をする?) (想像したくない) (何を解らせようとしている?) (解りたくない!) 「 薫は己を鼓舞して言い返す。 「そ…それは完全な失敗作だ、だから隠したんだ」 使わない薬の解毒剤など必要無いはずだから。 「万が一にも誤飲しないように赤く着色した、誰だって危険だと判るだろう!?」 「その危険な薬を他人に使うということは、想像しないんだ?」 「───」 矢矧はくすくすと笑い声をたてた。 「君は大概、馬鹿だなぁ」 「…っ!!」 薫はわけもわからず愕然とした。まったく知らなかった知識を教えられて、なんとなく使っていて、ある日突然それを「理解した」ときの感覚に近い。けれどそこにあるのは指先が震える高揚感ではなく、頭の芯が冷たくなる恐怖だった。 (なにがいけなかった?) 父の言葉を忘れていたこと? 無責任に仕事を面白がっていたこと? 真実を知らなかったこと? 知ろうとしなかったこと? (こわい) 目尻に溜まっていた涙がこぼれた。 (───おとうさん!) 薄暗い廊下はとても長く続く。 地上への階段とは逆方向へ。 |
■ 6. 遠く、薫の悲鳴を聴いたような気がした。 (まさか) そう思いつつも自室のドアを開けると、それはいっそう鮮明になった。薫の叫ぶ声が聞こえた。 西山は部屋を出て廊下を駆ける。 「薫!?」 その姿をすぐに見つけることができた。ほっと安堵の息を吐きかけるが、その呼吸は途中で止まった。逃げようとする薫の腕を掴んでいるのは矢矧義経だった。 「ナイスタイミングだ」 と、西山を見た矢矧が指を鳴らす。 「西山、逃げて!」 薫は見たこともない悲痛な表情で叫ぶ。困惑した西山は矢矧と薫、両者を見比べた。そしてすぐに状況を察することができた。 (とうとう、この子も…) 知ってしまったのだろう。今まで想像すらしなかった、沢山のことを。 「矢矧さん。薫には手を出さないでください」 「おまえにそんなことを言う権限があったとは知らなかった」 「西山! 逃げろ…早く」 矢矧から逃げようとするが逃げられない薫を、西山は憐れむような目で見た。 「矢矧さんからは逃げられないよ。 それはここにいる職員全員が覚悟していることでもある。例外は薫だけだ。 「───うわっ」 矢矧が薫の腕を引き、その手を遅れてやってきた黒服に引き継いだ。 「放せ!」 その叫びが聞き届けられることは勿論なく、無視されて、薫は黒服に捕まった。 手が空いた矢矧は西山へ近づいた。 西山は一歩も動かずに、矢矧が目の前で止まるのを待った。 「矢矧さん、こんな遅くに何事ですか」 「 「ですね」 「芳野に心酔していたおまえがどうして 「だから、今まで大人しくしてたでしょうが」 「そうそう、ひとつ聞きたいことがあったんだ」 「なんですか」 「恵をそそのかしたのはおまえか?」 「違いますよ」 「じゃあ、丸山か」 「違うんじゃないですか? ───あの子はここの職員が考えているよりずっと頭がよかった。自分の意志で逃げたんですよ、あなたから」 卑しむように小さく嗤う。 矢矧は目を細めた。 「ここに薫がつくった薬がある」 と、指先の赤い薬を見せた。 「…?」 赤い錠剤だった。1年前、西山は一度目にしている。しかしそれは処分されたはずではなかったか。 矢矧はいっそう低い声で言った。 「おまえが飲まなきゃ、薫に飲ませるよ」 「───」 西山の頭のなかで何かが弾けた。 (こうなることは解っていたじゃないか) どこか冷静に囁く自分がいる。 (解っていながら、今まで逃げなかったのは、俺の意志だろう) 「矢矧さん」 「決めたか?」 「俺が飲みますよ。でも、わざわざそれを薫に見せることはないでしょう?」 「いい覚悟だ。けど、見せなきゃ意味が無いんだ」 「…酷いな」 「それは5年前から解っていたはずだな?」 「ええ」 不思議と胸の内は穏やかだった。苦笑さえこぼれるほどに。 「…少し、時間が足りなかったか」 「なに?」 西山は首を横に振った。 「いえ、なんでも」 「だめだ! それは…」 薫は矢矧の背に向かって叫んだ。その向こう側に立つ西山は目を見開き、目の前の赤い薬を凝視している。 「西山…、なにしてる、早く逃げろ!」 掴まれている腕が軋んで痛む。けれどそれを気にしてはいられなかった。あの薬の犠牲者を出すわけにはいかないのだ。 西山は矢矧をいくつか言葉を交わすと、矢矧の隣を通り過ぎてこちらに近づいてきた。 「西山!」 黒服に捕まえられている状態のまま叫ぶ。 西山は目の前までくると、いつもと同じようにおおらかに笑った。 「大丈夫だ」 「大丈夫じゃない、あの薬は」 「薫。───そうだな、あと2日ばかり眠っててくれないか」 「なにを…」 西山は腰をかがめて薫を覗き込んだ。芳野と同じように。 薫は言葉を出せなかった。背筋に言いようのない不安を感じて歯を食いしばった。 「そのあいだ悪い夢を見るかもしれないけど、それは少し運が悪かった悪夢でしかないから、目覚めたらすぐに忘れられる。大丈夫、忘れられる…忘れるんだ」 「西山ぁ」 「いいか? 2日だぞ。大丈夫。次に目が覚めたとき、悪夢は終わっている。次に見た景色が薫の未来を決める。とても素晴らしいものだ。怖がらないで───その目で見てくればいい」 西山は微笑んだ。やさしい表情のはずなのに、薫は恐くて仕方なかった。 「そこまでだ」 と、矢矧が西山の肩を掴んで引いた。 「矢矧! やめろッ」 薫の声は割れていた。 「次に目が覚めたときも君はここにいるよ。当然だろう?」 そう言うと矢矧は西山の腕を引いて一歩離れた。そして息を吸う。 「薫! よく見ておけ!」 矢矧の声が高らかに響いた。 片手で西山の胸ぐらを掴んだまま、別の手で西山の輪郭を握る。 矢矧は西山の顎を掴んで口を開けさせた。 薫は黒服から逃れることができない。 矢矧は西山の口の中へ、赤い薬を投げ入れた。 薫は歯を食いしばる。 「───…ッ!!」 その毒性はつくった薫が一番よく知っている。 西山が息絶えるまで5分間。 薫は目を逸らすことも意識を放棄することもできず、最後まで薬に蝕まれる人体を目にしていた。 |
矢矧義経の支配力はその下で働く職員全員の臓腑を握っていることと同義だ。私もその奴隷のひとり。ただ、あの子だけがそれを自覚していない。奴隷であることは同じで、ただ自覚してないのだ。 ここに居続けることが悪いとは言えない。他の職員と同じように、矢矧とともにいるのもひとつの生き方だろう。 ただ、あの子は世界を知らないから。 もっと沢山のものを見て、聴いて、体験して。それから、どこで暮らし何がやりたいのかを判断して欲しい。 私はあの子に世界を見せてあげたいのだ。これはエゴだろうか? おそらく私は、あの子を矢矧から逃がすことで、島田芳野博士を助けることができなかった無念を晴らしたいのだ。 そんな自己満足のために、勝手な使命感を以てこんなものを書こうとしている。決して、あの子のためではなく。 だから、私はあの子に何も残したくない。記憶にさえ残りたくない。 この手記も読ませたくない。 私の願いが叶った暁には、どうか燃やして欲しい。 その日がくることを祈りつつ、これから手記を書き始めることにする。 |
薬姫-弐 了 |
壱/弐/Stratosphere |