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03話「それから。」 |
部活は結局続けることにした。利用しているようで後ろめたさを感じなくもないが、そのほうが情報源として何かと都合がいいからだ。 心優しい部長には申し訳ないが、木崎健太郎はこれから幽霊部員となる。 (まぁ、こっちのほうが面白いからだけどさ) 面白い要素はいくつかあるけれど。 “仕事”と呼べるものも既にいくつかこなしていた。早い話、健太郎が趣味でやっていることが、そのまま報酬になるのだ。これ程おいしい話もないだろう。 パソコンと呼ばれる箱を操作して、外の情報を得る。簡単に思えるがなかなか熟練が要求される仕事だった。数十年前までは形の無いものに金を払うなど、考えられなかった。しかし現代ではサービスとも全く違う、情報が金になる時代なのだ。 そう考えると、阿達史緒が所属の組合の意向を無視して、木崎健太郎を引き抜いたのは、なかなか的確な判断だったと思われる。 「おーっす、司ぁ」 駅から事務所に向かう途中、白い杖をついて歩く七瀬司を発見し、健太郎は小走りで追い付いた。 近付く足音で既に気付いていたのか、司は特に反応を示さずにゆっくりと振り返る。 「やあ。学校が終わる時間にしては少し早いようだけど」 「六限サボり。つまんない授業だからさ」 隣に並ぶと、司のほうがわずかに背が低い。健太郎は学制服の上に学校指定のコート、司には見えないが学校帰りであることは一目瞭然だ。事務所のすぐ近くに住む司は、セーターに無造作にひっかけた白いダッフルコート。すぐ屋内に入るのだから、防寒に対してあまり重装備ではない。一見、品の良い坊っちゃんのようだが、その少し歪んだ和やかな性格を、健太郎は思い知らされていた。 「ケンの成績は知らないけど、卒業できる程度には授業に出たほうがいいんじゃないか?」 含み笑いとともに司が言った。心配しているわけではない。完全に面白がっている節が見えるのが、彼の性格の複雑なところなのだ。 「ちゃんと計算してるよ。手抜かりはないはずだ」 「あははは」 「そーいや司って学校とか行ってないのか? 確かそういう歳なんだよな」 「そう、祥子と同い年。高校は行ってないよ・・・昔、盲学校に通ってた時もあったけど」 嫌になってすぐやめたよ、と司は明るく言う。そして続けた。 「それを言うなら、史緒なんかケンと同じはずだけどね」 「あっ!」 健太郎は大袈裟に驚いた。今まで全く念頭になかったことらしい。 「そういえばそうかっ・・・でも、史緒の学校生活なんて、とてもじゃないけど想像できない」 遠慮の無い健太郎の意見に、司は思わず吹き出した。 事務所の建物内に入ると、司の持つ杖に仕事はなくなる。馴れた場所では、彼は危なげなく、感覚だけでその足を進めることができた。これはかなり特異なことのはずだ。最初はハラハラ見守っていた健太郎だが、今ではごく当たり前のこととして受けとめていた。 そして階段を昇り、「A.co.」と書かれた事務所のドアを、健太郎が開けようとした、その時のことだった。 「だからあんたのこと嫌いだっていうのよっ!!」 (・・・・・っ) 突然、耳に穴を開けそうな声が聞こえた。健太郎は驚いて、一度掴んだノブを反射的に離す。 「今の声・・・」 ドアの内側からだった。健太郎は司を振り返る。司は何もかもわかっている様子で肩をすくめた。またか、とでも言うように苦笑している。 (・・・) 健太郎も声の主はわかっていた。が、内心驚きが勝る。こういうことは、初めてではないのだけれど。 確認するかのように、誰に宛てたでもない疑問を、健太郎は呟いた。 「祥子・・・・・?」 その疑問に答える代わりに、司の手が健太郎の腕を引いた。そのせいでバランスを崩し、後ろによろける。一歩退いて、体勢を整えた時。 バタン! 危うくドアと壁にサンドイッチされるところだった。この時初めて、健太郎は司の行動の意味を知る。司は近付く足音を聴き、彼女の性格からこういう結果になると判断し、健太郎を退がらせたのだ。, 激しい音をたてて開かれたドアは、力余って壁を叩き、反動でもう一度閉まった。 そしてそこには想像通りの人物が立っていた。三高祥子である。その表情は形容しがたい怒りをたたえていた。 「・・・・」 祥子は司と健太郎を一瞥する。その視線だけで、健太郎は思わず道を開けてしまった。その健太郎の横を、祥子が無言で通り過ぎた時。 「祥子、外に出るなら上着を持っていったほうがいいよ」 げっ、と健太郎は思ったがもう遅い。司の何気ない一言は祥子の神経を逆撫でする。寒いからと気をきかせるのはわかるが、この場合逆効果だと、司は気付かないのだろうか。 (もしわざとなら、それこそ悪趣味だ) そうでないことを願う。・・・そう願いたい。 司の言葉に反応し、祥子は振り返る。ツカツカと歩み寄り、苦々しく一語一語はっきりと一言。 「お気遣いありがとう」 「どういたしまして」 さらりと司が返す。祥子は我慢できないとでも言うように、踵を返し、今度は走ってこの場から立ち去った。 健太郎は同情の念を祥子に送っていたが、ふと思い立って、その姿を追う。 その気配に気づいたのか司が声をかけた。 「ケン?」 「すぐ戻る」 簡潔にそう答えて、健太郎は通ったばかりの廊下を、再び戻っていった。 司は一人残されて溜め息をついた。 「・・・いいフォロー役になるかな。彼は」 悪意のある言い方ではない。微かに唇に笑みを浮かべて、司は呟いた。 ところで、祥子と言い合っていたのは誰か。 司は当然すぎるほどわかっている。 祥子と史緒の関係は複雑だ。健太郎がうまく間に入ってくれればいいけれど。司はそう思う。 祥子から見れば史緒の側に立つ司が、慰めの言葉でもかけたりしたら、さっきの十倍の言葉と声量で怒鳴り返されるだろう。だからさっきのような物言いをした。それが最適だと、司は経験から知っていた。 ノックを2回、事務所のドアを開けた。 「史緒? 今、祥子が出てったけど・・・」 司が事務所に入るとやはり阿達史緒がいた。 「司」 かけよってくる声で、島田三佳もいることに気づく。それを受け止めて、挨拶程度の言葉を交わした。 「コートが残ってるでしょ? また帰ってくるわよ」 「いや、そうじゃなくて・・・」 祥子に用があるならその時に言ったら? と、論点のずれてる史緒の言葉に司は脱力する。 「今度は何を言って祥子を怒らせたんだい?」 「喧嘩じゃないわ。いつもの会話よ」 史緒は平然と言う。 三佳はこの部屋に居たわけだから、一部始終を見ている。司は意見を求めたが、三佳は小さく囁いただけだった。 「あの二人に関しては口出ししたくない」 「・・・・・・」 この場合祥子を気の毒に思うべきなのか、それとも史緒の性格に呆れるべきなのか。 この二人の言い合い(どちらかというと、祥子が一方的)はいつものことだ。こういう風にしか、二人の関係が成り立たないことを、司と三佳も知っている。 しかしそれでも司は、少しだけ、祥子を気の毒に思った。 どんなに祥子が熱くなっていても、史緒は本気ではないから。 これは決して、同情ではない。 歩道を大股で歩く祥子は、追ってくる健太郎に気づいていたが足を止めなかった。 「祥子っ!」 呼び止める声も無視。今はまだ、先程の史緒の態度を怒っていたいから。 すれ違う人影は少ない。もともと派手な通りでもないし、大きい店もないのだ。ただ気持ち良いほどに整然と並んだ街路樹だけは、祥子は気に入っていた。 目的地に到達する前に、健太郎の手が祥子の肩を捕まえた。 「待てってば、祥子っ」 「うるさいわねっ。祥子祥子って馴々しいのよ!」 手を払い振り返る。たった十数日の付き合いの、しかも年下の人間に呼び付けにされたくはない。しかしなんとこの木崎健太郎という人物は、1日でメンバー全員の名前を覚え、次の日には呼び付けにするという度胸ある偉業をこなしていた。本人は気にもしていないが。 「じゃあ、三高」 「それもだめっ!」 健太郎の想像以上に、厳しい声が返る。 しかし次に発せられた祥子の言葉は、もう少しで聞き取れないほど、小さなものだった。 「史緒と同じこと言わせないで」 (史緒と同じこと・・・?) 健太郎が知るわけもないが、先程の会話と同様のものを、過去、祥子と史緒は交わしていた。それは二人が出会って間もない頃のことだ。その時のことを思い出し、地団駄を踏むような思いにかられた。 思わず大声を出しそうになるのを押さえつつ、祥子はそのまま目的地である『月曜館』へと足を進める。もちろん健太郎もその後に続いた。 「いらっしゃい、祥子さん。木崎くん。珍しい組み合わせですね」 ドアを開ける時に鳴る鈴の音と同時に、マスターが顔をあげた。ここに初めて来たのは司との待ち合わせの時だったが、今ではマスターとも打ちとけ常連になっている。 「勝手についてこられただけです。・・・・そういえばあんた、どうしてついてきたの?」 祥子はマスターの前でも不機嫌さを隠さない。裏表がない、とまでは言わないだろうが、基本的に正直な人間なのだ。 「聞きたいことがあってさ」 祥子の悪口にもすでに慣れていた健太郎はそんな風に言って、先に店の奥に進み、ボックスに腰を下ろした。 健太郎が部活の幽霊を決めたのは、こっちの生活のほうがおもしろいからだ。この場合おもしろいのは、主に仕事よりその人間及び人間関係である。個性的であるだけでなく、謎が多い背景を持つ。興味を持っても不思議ではないだろう。 しかし、無断でメンバーのプライベートを探るのは禁じられていた。 『とくに木崎くん。あなたは調べる手段と才能を持ち得ているわけだしね。それを行使するのもルール違反よ』 と、阿達史緒は言う。そう釘を刺されたからには、これからここに居る為にも、うかつに調べるわけにもいかなかった。 無断で調べるなと言うのなら、直接尋ねるのは構わないのだろう。健太郎はそういう結論に達した。とりあえず聞き出せるものは知っておきたい。 健太郎から見て阿達史緒という人間は、落ち着きのあるしっかり者で、OLのような笑顔と丁寧な対応で依頼人の受けもいい。祥子以外のメンバーとはうまくやっているように見える。健太郎には、何故祥子が史緒を嫌うのかわからないのだ。しかも他のメンバー達は、二人の仲を納得したうえで、あえて口出しをしない。それがどうもよくわからない。 「あんた、目が悪いんじゃないの? あれのどこが笑顔よ」 「は?」 「あえて良い言い方をするなら、外ヅラがいいって言うのよ。あれは」 まったく呆れるわ、と祥子は言ったが、呆れるのではなく怒っているということは目に見えて分かった。良い言い方を例に出したのは、祥子なりに史緒に気を使った・・・というわけでもなさそうだった。 「・・・・」 それなら悪い言い方はどんな言葉になるのだろう。今この状況で、祥子にそれを尋ねるのは火に油を注ぐようなものだ。それを察し、健太郎は大人しくカップに口をつける。 「とにかく、あの無神経無表情、何考えてるのかわからないところが腹たつの」 おや? と健太郎は思う。 A.co.に集うメンバーは皆、何らかの特異な特技を持つ。健太郎もそのように説明されている。七瀬司はその耳の良さ。関谷篤志は運動神経。しかし健太郎は全員の特技をいちいち聞かされたわけではなかった。 三高祥子のそれも今まで知る機会がなかったが、健太郎は何となく、本当に何となく、もしかして・・・というくらいに推理を働かせて、それに納得していた。 だから先程の祥子の言葉に違和感を感じたのだ。 「祥子って、そーいうの分かるんじゃなかったっけ?」 途端、祥子の表情が陰った。 「・・・何であんたが知ってるの」 祥子の言葉の意味を理解するのに、健太郎は5秒必要だった。そしてようやく、どうして健太郎が祥子のちからのことを知っているのか、と尋ねられたことに気づく。 「いや、だから何となく。鋭い奴なんだなー、と」 「それで?」 「“それで”って?」 「・・・・」 質問の意味がわからない健太郎を見やり、祥子は深い溜め息をついた。 (どうして・・・?) 阿達史緒の所へ集まる人間は、何故祥子のちからを、ごく簡単に受け止められるのだろう。 確かに、思考が読めるとか、そういうわけではないのだから、あまり驚くことではないのかもしれない。しかし喜怒哀楽、そしてそれより複雑な感情、それらを見抜かれるのは、気持ちの良いものではないだろうに。 全く気にしない人間がここ一ヶ所に集まったのが、阿達史緒の人を見る目のおかげだとは、祥子は素直に認めたくなかった。 「おい、さっきの疑問。史緒のそういうのも分かるんじゃないのか?」 本当に全く気にしてない様子で健太郎が言う。祥子は健太郎のその態度にに本気で呆れながら、 「万能じゃないの。あまり動揺しない人からは読み取れないのよ。史緒は心の中までポーカーフェイスなの。顔は笑っててもね」 と言った。その言葉は少しだけ、史緒への怒りを取り戻していた。 「・・・へぇ」 祥子の、史緒への感情に、健太郎が気付くのは、もう少し先のことになる。 さっきも言った通り、祥子は史緒の外面の良さに怒っているのだ。それを自分たちの前でも崩さないことに、本音を顔に出さないことに、腹を立てているのだった。 その時。 「じゃじゃーん」 突然二人の耳を突いたのは、効果音では無く、聞き慣れた肉声。 場が静まったのは一瞬だった。 祥子はその声の主を認めると、目を細めて笑った。 両手を大きく広げて明るい声をかけたのは・・・川口蘭である。いつのまにかテーブルのすぐ隣りに立っていた。 「蘭」 祥子は腰をずらし、蘭に席を譲る。 「事務所に行ったら篤志さんいなかったんで、散歩してたら祥子さんと健さんがお茶してるのが見えたから、ご一緒させてもらおうと思って」 蘭は一礼して、祥子の隣りに座る。健太郎はというと、まだ蘭のペースに慣れないのか、その登場のしかたに頭を抱えていた。 「・・・どーいう奴だ、おまえは」 「やだなー、健さん。どこにでもいる中学生じゃないですか」 からからと笑う。 カウンターで頼んであったのか、蘭の前にミルクティーが運ばれてきた。それをおいしそうに口に含む。 「で? 何の話をしてたんです?」 「皆の特技の話」 祥子が答えた。健太郎が派手に頷くと、蘭は納得したように言う。 「健さんが全員のを知る機会って、今までありませんでしたもんね。極端に出番が少ない人もいるし、特に三佳さんとか・・・」 「そう! あのガキって何者っ?」 びしっと指を差し、健太郎は身を乗り出した。 島田三佳。阿達史緒とともに事務所と同じ建物の中で暮らしている。メンバーのうちで、比べるまでもなく最年少。 「事務所で働いてる・・・・んだよな、史緒の妹とかじゃなくて」 「・・・三佳のことあなどると、痛いめにあうわよ」 と祥子は言った。 「学校、行ってるのか? あいつ」 「一応、近くの小学校に籍は置いてるらしいです。通っているのを見たことは一度もないですけど」 「日本の義務教育には飛び級制度がないから」 そうそう、と蘭と祥子は二人で頷き合っている。その意味がわかるはずもなく、健太郎は、は? と聞き返した。 「三佳は頭いいわよ。特に化学なら、私たちよりはるかにね」 「うそっ」 確かに態度は偉そうだし、いちいち横やりを入れてくるし、饒舌で毒舌で子供にしては言葉を知ってるし生意気だ。それでも何か、健太郎は年上としての優越感を誇示していたかったのに、知能でも負けるとは・・・。島田三佳、末恐ろしい子供である。 「司さんと仲良しですよね」 「・・・私はあの二人が組んでると、仲が良いっていうより、何か結託している気がする・・・」 蘭のお気楽な発言に、祥子は苦笑いを返した。 「司は、耳がいいんだよな」 「そう。・・・私の特質があのメンバーの中にいてあまり目立たないのは、司がいるおかげでもあるのよ」 「どういうこと?」 祥子のちからが目立たないのは、司がいるせいだとは。二人の特技は全く違うもののようだけど。 「なんて言うか・・・、司は表情は読み取れなくても、その人の声だけで感情を見抜けるの。普段聞き慣れている人の声だったら、なおさら。目はぜんぜん見えてないはずなのに、時々ぎくっとするようなこと言うし」 「焦りますよねー、あれは」 祥子に同じく思い当る節があるのか、蘭が同調する。 表情からではないぶん、ごまかしは通用しない。司は声とちょっとした仕草による微音で、相手の感情を読み取る。慣れない人間は、まるで心を見透かされたような感じに陥るのだ。 健太郎はようやく、司のおかげで祥子自身のちからは目立たない、という発言を理解した。 (どーして、そういう人間が集まるのかな、あそこには) 阿達史緒を中心に、どんな理由からA.co.が設立され、どんな経緯でこれだけの人員が集められたのか、健太郎は知らない。そして初めに教えられた組織関係も詳しいことは知らされていない。 その隠された部分が、おもしろくもあるのだが。 「あたしですか? ・・・えーと、例えばあたしと健さんが力ずくで喧嘩をするとしますね。そうしたら、あたしが勝ちますよ」 ふと思い立って、健太郎が質問すると、蘭の自慢でも自惚れでも、はたまた謙遜も優越感も含まれていない答えが、彼女のいつもの調子で返ってきた。 隣りで祥子が頷く。健太郎は耳を疑った。 「・・・へ?」 「あたしの親がそーいうのを仕込むのが好きな人で、昔からいろいろやってたんです。実戦的じゃないけど、8割がた、勝つ自信はあります。さすがに篤志さんにはかないませんけどね」 からっと明るくこんな風に真正面から言い切られると、どうもこの人物に対する見方を改めなければならない気になる。 芯が強いのだろう。ただ明るく賑やかなだけではない。のかもしれない。 「あ、篤志さんだっ!!」 「えっ!?」 蘭の歓喜の声に、祥子と健太郎は同時に振り向いた。 見るとその通り、篤志がドアを抜けて、こちらのボックスに早足でやってきた。長髪をきっちり結んでいるところはいつもと変わらない。 「こんにちはっ、篤志さん」 「よお。・・・事務所に行ったら史緒がここに行けって言うから」 「史緒さんっ、あたしの為にっ」 蘭は両手の指を組んで、史緒への感謝の言葉を口にする。芝居がかった仕草ではあるが、蘭は本気だ。 それをなだめるように篤志が口を開く。 「そうそう、祥子」 「え? 何?」 「史緒からの伝言、仕事、だってさ」 篤志はさっきまた、史緒と祥子が一戦やっていたことを知らないので、何気なく言う。 それに篤志の言葉から、史緒は祥子がここにいること───祥子の行動を見抜いていたことがわかる。 健太郎は祥子のキレる音が聞こえたようなきがした。 「一番腹立つのは、人を怒らせておいて、謝らないで笑って話し掛けるところよっ! もうっ!」 祥子はそう叫び、それでも会計を済ませた後、事務所のほうへ向かって行った。 * * * 「祥子は実直、史緒は必要以上に秘密主義。史緒には自分のことを言いたくない理由も執着もないのに」 事務所がある建物の最上階よりさらに昇って屋上、祥子と史緒の今日の言い合いを見ていた三佳は言う。 少し低めの手摺りに腰をかけている。冬場はかなり寒いが、三佳はこの場所が好きだった。高い建物に囲まれて、景色はあまりよくない。それでも、都会の中に消えてゆく夕日ははっきりと望めた。 「でも、弱みを見せたくないのは史緒の性格だよ。特に祥子にはね」 その少し離れた所から司は答えた。 「まあな」 「あの二人はこれからもあのままだと思うよ、僕は」 「それには同意見だ。でも女同士の喧嘩なんて、見ていて楽しくもないが」 「史緒はいつも、どうせ本気じゃないんだろう」 司は苦笑する。 手摺りの上で、三佳は風上のほうへ顔を向け、冷たい風を肌で感じた。沈黙が生まれる。しかし気まずくはならない。二人の間では、沈黙さえも自然な空気だった。 司が手を差し伸べて言う。 「体が冷えるよ。そろそろ中に戻ろう」 すると、三佳は手摺りから下りて、司の隣に並んだ。司のコートの裾を掴む。 「三佳?」 歩き出さない三佳を訝り、司は三佳の名を呼ぶ。 すると、三佳は掴んだ手のひらに力を入れて、小さく呟いた。 「司たち三人のことは、私もよくはわからない。・・・けど、このままでいいのか? 今の状況が、史緒の望んだことだったんだろうか」 「・・・・」 三佳が自分たちの現在・未来について考えていることを知った。司は何も答えない。三佳の頭をぽんぽんと叩いて、そのまま歩き始めた。 「・・・さあ、どうだろうね」 時間は午後十時。 事務所の机の上には、A4の茶封筒と書類が溢れんばかりに席巻していた。その前には阿達史緒が座っていて、印鑑とペンを走らせるのに手はよどみがない。 明日の月一の会合の為、提出書類を揃えておかなければならないのだ。 隣のパソコンとつないであるプリンタからは、休みなく印刷用紙が吐き出されていた。 そんな時、机の端の電話が鳴った。 「はい、A.co.・・・・・・・」 事務的に口にした言葉は、受話器から聞こえてきた声に反応して、そこで途切れた。 この時、部屋の中には阿達史緒、一人しかいなかった。史緒は部屋を見回し、本当に他に誰もいないことを確認する。そして冷たい声を返した。 「・・・何の用?」 史緒はペンを持つ手を止めた。この人物相手では、集中しないと口で負けるからだ。 『ただ様子をうかがいに電話をしただけですよ。最近顔を見せなかったようですから』 三十近いはずだが、妙に馴々しい男の声が返る。 「別に心配もしてないんでしょ、あの人は」 『まさか。離れて暮らしている娘の安否をしない親はいないでしょう』 「どうだか。篤志のことが気掛かりなだけじゃないの?」 『それもありますね。社長は会社の為にも早く帰ってくることを望んでいます』 「伝えておいて。生憎、私も篤志も司も、元気でやってます、ってね」 『それはよかった』 感情の読めない寒々しい会話はここまでだった。史緒は少しためらって、受話器の向こうに声をかける。 「・・・一条さん」 『何ですか?』 「あなたも、私が家に帰ればいいって、そう思ってるの?」 疑問と解答の間に時間はなかった。 『それが社長のご意向ですから』 がちゃん、と史緒は受話器を切った。挨拶も何もなかった。 受話器を押さえ付ける手が微かに震える。・・・苛立たしい。 訳はあるのだろうが、理由のわからない焦燥感が史緒を襲った。 今の生活は自分が望んだものだ。けど完全に手に入ったものではない。 解決しなければならない問題は、まだ残っているのだから。 |
03話「それから。」 END |
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