キ/BR/02
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7月××(±0)日。
毎年レコーディングを行うスタジオはこじんまりとした一軒家で、これはnoa音楽企画の所有物だった。
全板張り・防音の「スタジオ」は、音響器材やコンソールのあるPA室と、ガラスで隔てられた、スピーカーとマイクが並ぶ録音室から成る。建物の中には他に給湯室と座敷が2部屋。先ほど浩太が言ったように合宿中カンヅメになると、座敷は仮眠室と呼ばれるようになるのだ。
「じゃあ、3時から音合わせ始めますので、よろしくお願いします」
「おっけー」
「了解」
「はーい」
みゆきが指示を出すと、それぞれは準備にかかる。
「あ、かのんさん。器材の電源入れておいてくれます?」
「そうそう。早くねー」
準備と言っても、バンドメンバー全員は座敷に荷物を放り出すと、競うかのように録音室に駆け込み、それぞれ音出しを始めた。
板張りの壁、床、天井は伊達ではなく、勿論、音を響かせる為のものだ。窓もなく閉塞感は拭えないが空調は整えられている。
「わーい、圭ちゃんの歌、久しぶりだよー」
実也子は自分の楽器の弓を整えながら嬉しそうな声を出した。発生練習を始めていた圭は少し照れた顔で、
「何だよ。CD持ってんだろ?」
と、マイクに向けて言う。みゆきが器材の電源を入れておいてくれたらしく、その声はスピーカーから響いた。
「生とは全然違うもん」
「浩太、お前、いつ練習してんの?」
ギターのチューニングが始まる。知己もドラムを叩き始めると、室内は一気に音でいっぱいになった。
「んー。たまに、バンドの助っ人したり、部屋で鳴らしたりする程度だよ」
「いい加減、直んないのな。そのカッティングのときのクセ」
「個性がある、って言ってもらいたいね」
「あー、そうそう。そういえば、この間、うちの教室に高校生の女の子が入ってきましてね」
一斉に音がやんだ。これは祐輔の口から女子高生の話題が出るなんて、という少々悪いほうの興味が全員に働いた為と思われる。
「うちの教室」というのは、祐輔が地元で開いているピアノ教室のことだ。
「好みだったとか?」
「違いますっ」
圭のとぼけた言葉に笑いが生じる。気を取り直して祐輔は話し始めた。
「小さい子ならともかく、ある程度大きくなってからそういう事を始めるのって、やっぱり理由があるんですよ。それでピアノを始める動機を尋ねたら、何て答えたと思います? 僕、すごく驚いて危うく教本を落とすところでしたよ」
「さあ」
「見当つかないよー」
くすくす笑いながら、祐輔は答えた。
「“『B.R.』の曲を演奏したい”だったんです」
は? と、誰かが口にした。
「誰に頼んだのか、耳コピの楽譜まで持参してましたよ。確か、出版社からは出てませんでしたよね」
正体不明と言っても、『B.R.』の曲はもちろん、著作権登録されている。しかし社長はがんとして版権を手放さず、CDの他は、謎解き本、特集本、そして楽譜も、法的に製作は許されていない。自分で作るしかないのだ。
「あっはっは、そりゃ、驚くわ」
「本人が目の前にいるのに〜」
「楽譜はこいつに頼んだほうが早かったな」
「いえいえ、本当にあの時は驚いて、もしかしてバレてるのかとか深読みしちゃったんですから」
祐輔のその場面を想像して、他の面々はやはり笑うしかない。
『B.R.』は絶対何があっても正体を明かしてはいけない。
それでもそんな一場面を、楽しめるくらいはするのだ。
みゆきはPA室のドアを開けた。
「あ…」
録音室で5人が楽しそうに喋っているのに気付き、気が引けて、声をかけることに一瞬ためらう。しかし既に、自分が入室したことに気付いたメンバー達はそれぞれの立ち位置に戻り、楽器の音を止め、みゆきの指示を待っていた。
「……」
何となく、溜め息をついてしまう。
彼女は未だ、自分の立場で、うまく立ち回ることができないのだ。仲間たちは、こんなにも協力してくれているのに。
「えー…と。音合わせ、始めてもよろしいでしょうか?」
『はーい』
『よろしくお願いしまーす』
向こうの部屋とのやりとりは全てマイクごし、スピーカーごしで行われる。
みゆきは気を引き締めるように一度深呼吸をする。
ヘッドフォンをつけ、コンソールの前に座った。
「では、長壁さんのバスドラからお願いします」
指示通り知己が音を出すと、みゆきは手元のミキサーで調節を始めた。
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