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7月××(+4)日。

 広めの給湯室にはテーブルが置いてあり、メンバーたちはそこで食事をすることにしている。
「おっはよー」
 練習がない、中休みの今日。寝過ごした圭が給湯室のドアを開けると、そこには祐輔が新聞を広げていた。
「おはようございます。圭」
「あれ? 他の皆は?」
「浩太は学校の部活に顔を出さなきゃならないとかで朝早くに。かのんさんは何やらバタバタしてて、ついさっき出かけました。長さんと実也子さんはデートらしいですよ」
「あ。やっぱあの二人ってそーいう仲なんだ」
 分かりきっていた答えを聞かされたように、そっけなく言いながらテーブルにつく。手を合わせて「いただきます」と言うと、圭は用意してある朝食に手を付け始めた。
「どうでしょうね。実也子さんが無理矢理連れ出したという感もありますけど」
「またまた。祐輔もわかってるくせに」
「黙ってたほうが面白いこともあります」
 薄笑いを浮かべ新聞をめくる祐輔を横目で見やり、圭は食パンをくわえながら軽い溜め息をついた。こんな性格を隠そうとしない彼なので、きっと知己や実也子も自分たちがネタにされていることに気付いているのだろう。
「祐輔は? でかけないの?」
「大学時代の友人に会ってこようと思います。圭は?」
「俺はじーちゃん家に顔出さないと。一応、それを理由に家出させてもらってるから」
 夏休みといえど一週間も家を空けるには、中学生にはそれなりの理由が必要なのだ。孫に甘い祖父母に協力してもらい圭は東京に来ている。
「未成年も大変ですね」
「大変ていうか…。まぁ、『B.R.』に居るのはいい勉強になるよ。反面教師がいっぱい居るし」
 圭の言葉を聞いて祐輔は新聞の向こうで吹き出した。
「今の台詞は聞かなかったことにしてあげますよ」




 数えられない程の足音と、ぬるく浸かれるような喧燥。
 中野浩太は久しぶりに出会う不特定多数の人々に戸惑いながら、見慣れた通学路を歩いていた。久しぶりというのはここ数日は決まった顔しか目に入らなかったからだ。ついでにここ数日冷房の効いた室内にしかいなかったので、真夏の日差しは耐え難いものがある。制服であるワイシャツの背中はあっという間に汗だくになり、不快指数を上昇させていた。効果がないと分かっていても、つい学生鞄で顔を扇いでしまう。皮製の鞄の匂いを受けながら、浩太は考え事をしていた。
(かのんと、"kanon"の曲はどうもイメージが合わない)
 浩太は常々そう思っているが、それを口にしたことはない。
 叶みゆきが『B.R.』の曲を創っている。それは知っているが、どうもピンとこない。何よりも圭が歌うあの詞をみゆきが書いたとは、浩太は思えないでいた。
 下手に口にしても、実也子あたりに怒られるだけだろうし、別にイメージに合わないからどうしようと思うわけでもない。Kanonとの違和感が拭えず、叶みゆきがどんな人間なのかつい口を出してみたり観察したりしてしまうわけだが、それは周囲にあらぬ誤解を招いているようだ。
(じょーだんじゃねーっつーの)
 声には出さず、そう呟いた。
「…?」
 おや、と浩太が目に止めたものがあった。
 二〇メートル先、歩道の車道側、ガードレールに手をかけて道端に座り込んでいる人影がある。胸に手を当てて、肩が大きく揺れている。もちろん寝ているわけではない、それにホームレスにも見えない。
 道端にいるため、周囲の迷惑になることもなかったが、行き交う人々はその人影を目に止めても立ち止まることはしなかった。
 浩太はその人影に駆け寄った。
「おい、具合でも悪いのか?」
 とりあえず声をかけてみる。額を抑えうずくまっている人物からは返答がない。性別は男性。子供ではないようだ。
「おい」
 本格的に心配になって語調を強めると、男は上体を起こし顔を上げた。
「あ、すみません」
 微かに笑い、思いのほかしっかりした声を返す。
「大丈夫です」
 血の気が失せた顔。本当に大丈夫なのか浩太は疑ったが、浩太の手を借りて危なげながらも立ち上がったところを見ると、全くだめだというわけでもないのだろう。
 十六…十七歳くらいだろうか。多分、自分と年齢は近いんだろうな、と浩太は思う。
 背丈は並みだが浩太よりは低かった。人懐っこい性分なのか、浩太と目が合うとにっこり笑った。
「ありがとう」
 その言葉が手を貸した自分に対するものだと気付くと、浩太は真正面に礼を言われたことに照れた。
「いや…、あ、誰かに連絡取るとか、病院行ったりしたほうが──」
「あ、平気、気にしないで。だいぶ楽になったし」
「でも」
「本当に大丈夫。…実を言うとただの寝不足なんだ」
 気恥ずかしそうに頭を掻いて笑う。あ、そう、と浩太は気が抜けるのと同時に安心感を覚えた。
「いくら寝不足だからって、こんなところで倒れてると踏まれるぞ」
 相手の話しやすい人柄も手伝って、浩太は冗談半分に言う。
「あはは、ほんとにね」
「大人しく家で寝てれば?」
「そういうわけにも…──って、わっ、今何時っ?」
 突然、大声を出し、時計を探しているのか鞄やポケットを荒らし始めた男に、浩太は手首を向け時計を見せた。
「十時十五分」
「やばいっ、先生、時間に煩いのにっ。ごめん、僕、電車の時間があるんでっ」
 慌ただしく去ろうとする男に、浩太は気を付けろよ、と声をかけた。
 すると男は満面の笑みを浮かべて大袈裟なほどに手を振る。
「うん、ありがとう。じゃあっ」
 名前くらい聞いておけばよかったな、と、走り去る背中を見ながら浩太は思った。


* * *


 浩太と別れた後も、所々で休みながら彼はどうにか目的の場所へとたどり着いた。
 神経研究所附属理和病院。
 赤煉瓦の仰々しい門構えで、その向こう側には緑の葉が茂った並木が続いている。そして青い空。それらの色の対比を、彼は気に入っていた。
その門柱から上体を起こした人影があった。
「希玖っ!」
 長い髪を揺らし、眼鏡をかけた少女が駆け寄る、……叶みゆきだ。
「あれー。みゆきちゃん、どうしたの? 確か、今、合宿の最中じゃなかった?」
「……」
 息を上げてうまく声にならない言葉を、息継ぎの間にどうにか押し出そうとする。元々、彼女は言葉でものを伝えるのは上手くない。それを承知している彼はにこやかに微笑みながら待った。
「…どうしたのじゃないよ。家に行ったら病院へ行ったって言うし、病院に来てみたらまだ来てないし……。先生も慌ててるし。途中で発作起こしてるんじゃないかって、すごく心配したんだよ?」
 体調を気遣うように顔を覗き込むみゆきに、希玖はにっこり笑って返した。
「あはは、ごめんごめん。駅で休んでたら時間くっちゃって」
「大丈夫なの?」
「ああ。…途中で眠りこけるところだったけど、親切な人が手を貸してくれたりね」
「あんまり無理しないで…ね」
 二人は揃って歩き始めた。
「みゆきちゃん。僕、さっき、中野浩太に会った」
「えっ?」
「駅の近くでね。そういえば彼は東京の人間だったよね」
「希玖……」
「あんまり話できなかったんだけど、挨拶くらいしておけばよかった?」
 心配そうな視線を向けるみゆきに、希玖は笑って返した。
 この、理和病院のN2棟に週1回、安納希玖は通っている。

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