キ/BR/03
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「あれー。ヤギじゃーん」
自分が呼ばれたのだ、ということは、八木尋人はすぐに気付いていた。それでも無視したい気持ちになることには、誰も責めないで欲しい。
尋人は駅から歩いて5分のレコード屋に居た。新譜を物色しているときに背後から呼ばれたのだ。うんざりしながらも、このレコード屋が大学時代の行動範囲内であったことを思い出す。そして、背後から現れた二人組みは大学時代の同級生なのだ。こんな偶然も、ある。
「いい加減、その呼び方やめろ」
「久々に会ったのに、何よその言い草は」
頬をふくらませて不満を言ったのは塩谷茅名、そして、
「珍しいな、ヤギが真っ昼間から活動してるなんて」
対照的におっとり笑いかける佐藤順がそこには居た。
「何やってんの?」
「レコード屋でCD見てるのがそんなに珍しいか?」
「ヤギーっ、あんた、その性格、ぜんっぜん変わってないのねぇっ」
「おまえもな」
全く意味のない尋人と塩谷の問答を、面白そうに見ていた佐藤は尋人の手元を覗き込んで言った。
「何、見てんだ?
…『B.R.』?
ヤギってこういうのも聞くんだ」
尋人の手元には、『B.R.』の三枚目のシングルがあった。意外そうな声を返す佐藤の手に、尋人はそのCDをポイと渡す。
「まーな。……でも、どっちかっていうとこれは、今、入ってきた奴の趣味」
「え?」
尋人が指差す先、店の出入り口に目をやる。ちょうど、スーツ姿の女性が当たりを見回しながら自動ドアをくぐったところだった。
待ち合わせなのかキョロキョロ視線を巡らすと、やがて目的のものを見つけたのかホッとした表情を見せ早足で歩き出した。
「尋人、お待たせ」
遅れてごめん、と日辻篠歩は頭を下げた。
「おまえ、時間通りに来たことないからな。もう慣れたよ」
「ちょっとぉ、それって酷い……、って、あれ?」
ふと、尋人の隣に立つ人物と目が合う。
「あれ………」
何やら懐かしさを感じたのは相手も同じようで、しばらくの沈黙の後、一番先に口を開いたのはカップルの男のほうだった。
「……ヒツジ?」
それにつられて女のほうも、あっ、という表情を見せる。
「あー、ヒツジだーっ。やだぁ、ひっさしぶりぃ!」
抱き付かんばかりの勢いで名前を呼ばれると、さすがに篠歩のほうも二人の名前を思い出した。
「佐藤くん?
…それに塩谷っ」
大学時代の同級生。篠歩自身、二人に会うのは数年ぶりだ。
「ちがいまーす。籍入れたんだよーあたしたち。あたしも佐藤だよん」
手を頬に当てて、わざとらしく科をつくりポーズを取って見せる。
「うそっ、聞いてないよっ」
「ごめーん、ハガキ出そうと思ってたんだよ」
「遅いよ、もおーっ。でもおめでとーっ」
場所もわきまえず大騒ぎしている女性陣を横目に、尋人は佐藤に話し掛けた。
「よく覚悟したなー」
「おかげさまで」
「ま。おめでと」
「ありがと」
尋人の素直じゃない祝辞に笑いながら、佐藤はそれにしても、と続ける。
「まだヒツジとつるんでるなんて、この間会ったとき言ってなかったじゃん」
「腐れ縁だよ」
「…それって、今の質問の答えになるわけ?」
「うるせー。俺だって分かんねーんだから、ツっこむな」
ぶはっ、と佐藤は吹き出し、その余波でくすくす笑いが込み上げてきた。しかしそれも尋人の厳しい視線に抑えられ、佐藤はさらに次の話題でごまかした。
「あー、そうそう。ヤギ、お前、最近店に来ないじゃん。リクたちがぼやいてたぞ」
「暇なくてな。…あいつらちょっとは巧くなったのかよ。この俺が実力無いヤツを記事にするわけねーだろって言っとけ」
実はこの二人はとある店の常連で、佐藤とはそこで何回か顔を合わせていた。
「リクのとは別の日だけど、来週土曜のチケット余ってるよ。ヒツジと来れば?」
「え?
なになに?」
自分の名前が出たことに反応し篠歩が顔を出す。
「ライブハウスのチケット。ヒツジもたまにはこーいう所に顔だしなよ」
「ライブハウスー?」
「まぁあえて言うなら、席料払うだけで飲み放題、生演奏付きの喫茶店ってとこ」
「…かなり違うと思うぞ」
「まぁまぁ、忙しいなら気分直しにでも、どう?」
* * *
結局、2枚分の料金と引き換えにチケットを置いて二人は去っていった。
「うまく買わされたっていう気もするけど…篠歩はよかったのか?」
「ご祝儀代わり、なんてセコいことは言わないけど。…『B.R.』のほうも煮詰まってたところだし、丁度いいんじゃない?
気分転換にはさ」
「あれから何か分かったか?」
「全然。いろいろ職権乱用もしてるんだけどね。尋人のほうは?」
「同じく、進展無し。……」
尋人はふと思い付いたことがあり、棚から『B.R.』のCDを取り出した。顔に近づけてそのジャケットに見入る。
「なに?
どうしたの?」
篠歩も後ろから覗き込み、尋人の意図を探ろうとする。
「カノン……」
そんな呟きが返ってきた。それなら篠歩も知っている。
『B.R.』のジャケットにも書かれている、『B.R.』に関わる人物で唯一公開されている名だ。
「『B.R.』の作詞作曲家の名前でしょ?」
「いや…、Kanon≠チて、どういう意味なんだろうと思って」
「音楽用語じゃなかった?」
音楽方面の知識にはあまり明るくないけど、そんな曲名を聞いたことがあるような気がする。
「なじみがあるのは英語表記のCだ。Kじゃない。ま、どっちにしろ意味はわからんけど」
「Kは何語なの?」
「ドイツ語」
「なんだ。音楽用語って、確か、ほとんどはドイツ語でしょ? 気にするところが違うと思うけど」
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