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 二年半前───。

『契約書は必要ないだろう? どの書類にも君達の名前が残ることはない』
 あの日、ブラインドが掛かる窓を背に、安納鼎はそう言った。
 中野浩太、小林圭、片桐実也子、山田祐輔、長壁知己。五人が三度目に集まった日、そこから全ては始まる。
 叶みゆき。彼女は企画側の人間だ。安納の右側に控え、何故か気まずい表情で視線を伏せていた。
 安納が言う通り、noa音楽企画のどの書類にも、五人の名前は記されていない。それぞれの連絡先は叶みゆきしか知らないし、事務所側が知っていることと言えば五人の本名くらいだ。
『"Kanon"の曲をヒットさせる自信はある。それを損なわせない腕を持つ演奏者を集めたつもりだ。宜しく頼むよ』
 この時点で"Kanon"の曲はいくつか聴かされていた。そしてお互いの音も聴きあっていた。
『一年に一度、正体不明、全てのプロフィールを隠したアーティスト。その隠れた部分を人は知りたくなる』
『あの…っ』
 片桐実也子だった。
『…絶対、私たちのことがバレるっていうこと、ないんですよね? 本当に正体不明のまま、カノンの曲を演らせてもらえるんですよね?』
『素性を明かしたくないのか?』
『……』
 肯定の沈黙だった。
『僕も、名前や顔が出るようなことがあるのは困ります』
『同じく』
 山田祐輔、長壁知己も実也子の意見に同意する。実也子のフォローに聞こえなくもなかった。
 不安がる実也子に安納は言葉を添えた。
『そのことについてはこちらが言い出したことだし、君らの意見を尊重するつもりだ。それを覆すことはない』
 そう、あの時は。
 近い将来何が起るかなんて想像できなかった。
 こんなことが起るなんて、安納だって考えていなかったはずだ。
『年寄りは心配性だね。なっ? 浩太』
『呼び付けにすんなっ』
『年寄り…って、私、まだ十代なんだけどなぁ』
『片桐さん…、それ言ったらこっちの立つ瀬がないですよ』
『俺は年寄り組でいいよ。事実、そーだし』
『んじゃ、年上三人組。そんなに気にすることー?』
 安納との契約内容は納得済みだったはずだ。なのにしつこく確認するなんて。
『…えーと』
 実也子は言葉に詰まる。
『変に目立つのは柄じゃないんですよ。小林くん』
『そーいうこと』

 そう言って、笑っていた。


*  *  *


(……怒ってるだろうな…あいつら)
 はあ、と大きな溜め息をついても、息苦しい嫌悪感は少しも軽くならない。
 胸を締め付ける感情がある。苦い。すごく不安になる。思わず腕を壁に叩きつけたくなる。
 不安に駈られる。
 中野浩太は品川の某ホテルの廊下を歩いていた。変装用の眼鏡と帽子は、似合っていない、という域を超えて怪しい人にしか見えなかった。
 浩太は何度目かの溜め息をついた。
 二年半前。『B.R.』結成当時、『B.R.』という名と共に自らの名前も知名度が上がってしまうのを恐れたのは実也子だ。そして祐輔と知己。当時、浩太は高校一年だったが、何か事情があるのだろうと推測するくらいはできた。事情を尋ねるとなかったのも、知られたくなさそうだったからだ。特に実也子は顕著で、事務所やスタジオに出入りする際に、『B.R.』の内部情報が漏れないよう人一倍気を遣っていた。
 今回、不本意とはいえ自分の不注意で『B.R.』がこんな風に世間で騒がれることになってしまった。
 浩太は駄目押しの溜め息をつく。
「………。怒ってるだろーな、あいつら」
 小さく、呟いた。

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