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 東京都。十二月十一日。
 神経研究所附属理和病院。

 病院の棟と棟の間にはちょっとした広場があって、そこは中庭と称されている。建物に囲まれているにも関わらず日中は日当たりが良く、入院患者の散歩やちょっとした社交場として利用されていた。
 中庭の中央には二メートルほどの樫の木があり、クリスマスの季節になると子供たちが飾り付けをして、日が沈むと電飾が灯った。自慢してもいいが、これはちょっとしたものだ。
 午後五時。いつも通りツリーのあかりが灯った。中庭の芝生の上に、病院の窓からの明かりが映っていた。
 実際、この季節のこの時間は寒くて外に居るどころではない。気温は10℃以下まで下がり、はしゃぎたい盛りの子供たちにドクターストップがかかることも理由の一つである。
 そんな中、安納希玖は中庭の椅子に腰掛け、西の空を仰いでいた。白いパジャマにカーディガンを羽織っただけのその姿はやはり寒そうだった。茶色の髪が風に晒されても、希玖は身震い一つせずにただ空を眺めていた。
 太陽は西の空へと追いやられ、そして沈もうとしている。空はもう夜の色。深い群青、闇から光へのグラデーション。ビルの輪郭ごしに光る色だけが、太陽の沈んだ方角を教えてくれていた。風が一層冷たく吹いた。
 冬の匂いがした。
(…)
 遠くで、救急車のサイレンが鳴っている。
 希玖はかたく目を閉じることで、その音を意識から遮断した。
 その時。
「早く病室へ戻れって、関先生言ってるぜ?」
 突然の背後からの声に、希玖は目を丸くした。反射的に振り向いた。
「よぉ」
「……っ」
 そこには中野浩太が立っていた。ジャンバーにマフラー、それでも防寒対策は完璧ではないらしく、首を縮ませて両手をポケットに突っ込んでいる。
 希玖は笑った。
「あはははははは」
 座ったまま体を折って大声で笑う。突然のそれに浩太は亥を突かれた。
「…なっ、…前触れもなく笑うなーっ」
 それでも笑い続ける希玖。浩太は何がそんなにおかしいのか分からず、自分の格好を見直してみたり、後ろを振り返ってみたりする。見当違いの行動に希玖はさらに笑い続けた。
「浩太って、ホント、ヒマ人だねー。こんな時間にこんな所に来るなんてさ。他に行く所ないの?」
 笑い涙を拭って、希玖は言った。
「ワリーかよ?」
 むっとして浩太は逆に問うが、実は行く所がないのは事実だった。
 家にいてもマスコミは押し寄せてくるし、この状況で他の友人と会うのは更に騒がしい事態になる。『B.R.』のメンバーは全員東京を離れているし、社長が用意してくれたホテルに居るのもいい加減飽きたのだ。
 それに、どうやら浩太は自分が思っている以上に、希玖のことを気に入っているらしい。
 気が付くとここへ足を運んでいた。
「悪くなんてないよっ。かち合わなければ、僕は大歓迎だよ」
「かち合うって?」
「それは秘密です」
 人差し指をたてて、くすくすと笑う。
「?」
「浩太、そんだけ厚着してるのにまだ寒いの? 風邪?」
「おまえが薄着すぎるんだよっ。そんな格好で外出て、一体何やってんだ」
 寒さも手伝って浩太はキレ気味だった。爪先から頭まで寒さが伝わってくるこの寒さの中、パジャマにカーディガンという希玖の格好のほうがはるかに異常だ。見ているだけで浩太は震えた。
「お月見してたんだよ」
「は?」
 希玖は西の空を指さした。かろうじてまだ明るさが残っていた。その夕闇の中に。
 ビルの間に太陽が沈んだ後の群青の、飲み込まれそうな空の中。
 月が、浮かんでいた。
「この時間のお月見がけっこー好きなんだ」
「…へーえ」
 浩太も、その景色に見入った。
(………あれ?)
 浩太はちょっとした既視感を覚えた。
 何か思い出しかけた。浩太はそれを辿るために黙りこむ。
(誰か、同じこと言ってなかったか?)
 深く集中しはじめると、その「同じこと」というのが何なのかさえも分からなくなってしまった。
(……?)
 浩太は考えることを諦めた。そのうち思い出すだろう、と見切りをつける。
 顔を上げると、希玖の笑顔と目が合った。
「浩太って、いい奴だよなっ」
「え?」
 希玖はにこにこしながら浩太を見つめている。ツリーの電飾が横顔を染めているその表情は決して冗談ではないようだった。が、突然で脈略のない告白を軽い冷やかしと思って、浩太は踵を返した。
「馬鹿言ってねーで、部屋戻ろうぜ」
「うんっ」
 勢いよく椅子から立ちあがる。
 浩太に続き歩きだそうとした、とき。
「!」
 ある兆しを感じて、希玖は額に指を置いた。
 一歩を踏み出せない足は軽く震えていた。
 心拍が速くなる。
 下半身の感覚がなくなり、意識がブレる感覚に陥る。
「……っ! ごめんっ、迷惑かけるかも」
 それだけ、言葉を残すのが精一杯だった。
 ぐらり、と希玖の体が傾いた。
「は? ……えっ、おいっ!」
 浩太は咄嗟に手を伸ばす。
 希玖の腕を引いた反動で、その体はそのまま浩太のほうに倒れてきた。
「…! うわっ」
 軽すぎるはずの希玖の細い体を支えることもできず、結局浩太は後方に崩れた。
 希玖もろとも、地面に派手に倒れ込んだ。
 ドサッ
「………。いってぇー」
 まともに背中から落ちた浩太はその痛みを口にせずにはいられなかった。下が芝生だったことは救いだろう。腹の上に希玖の頭が乗っているのは見なくてもわかった。
 背中の鈍い痛みが通り過ぎるまで、浩太は立ち上がることができなかった。
「希玖っ! …何だよ一体」
 浩太は完全に巻き添えにすぎない。しかも当の希玖は予告までしていた。
「……希玖?」
 返事はない。浩太は背中の痛みを堪え上体をあげた。
「おいっ!…希玖っ!」
 浩太の上に重なる希玖を起こそうとする。しかし希玖の肩を揺らしても、本人にその意志は見られなかった。
 意識がない。
 その時始めて、浩太は希玖がここに入院している患者なのだということを意識した。
 いつもへらへらと笑って、パソコンをしたり、散歩をしているところしか見てないので深く考えたことがなかったのだ。
「希玖っ!」
 完全に昏倒している。浩太は青くなった。
 浩太は希玖の病気を知らなかった。怖くなって、叫んだ。
「先生ーっ! 希玖が倒れたっ、早く来てくれーっ」

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