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「おはよう、希玖」
 病室のドアを開けて、叶みゆきが入ってくる。すでに出かける支度を整えていた安納希玖は笑顔を返した。
「おはよー、みゆきちゃん。今日も寒いね」
「おはよう、叶さん。今日は希玖のこと、よろしく頼むね」
 隣で希玖の主治医である関久弥も手を振った。
「おはようございます、先生」
 心配する関医師を他所に、外出許可をもぎ取ったのは希玖本人だった。関は絶対に駄目だと言い張っていたが、すべての事情を話したら納得してくれた。
 今日ばかりは、行かなきゃならないから。
 いつもパジャマ姿の希玖だが、今はコート姿でベッドのとなりに立っている。これからみゆきと渋谷MG会館へと向かうのだ。
「とうとうだね。みゆきちゃん」
「…だね」
 どこか淋しそうに、みゆきは笑う。
「彼らは?」
「朝一でホテルから直行してる。今はリハーサルしてるころかな」
「ミキサーは誰?」
「筧さんがやってくれるの。…私じゃ、ライヴは務まらないし。助手やれって言われたけど、断わっちゃった」
「どうして?」
「怖くなったの。こんな素人が、この業界にいることに」
 みゆきは希玖の目を見て、はっきりと言った。
「私、やっぱり甘えてたんだと思う。自分が表に出ないのをいいことに、『B.R.』の仕事を楽しんでた。この程度の力量で、満足してたの。…でも急に怖くなって、このままじゃ駄目だと思った」
「……」
「私、専門学校に行こうと思ってるの。ちゃんとオペレーターのこと勉強して、また、この業界に戻ってきたいの」
 喋るのが苦手なはずのみゆきが、一生懸命自分の思いを伝えようとしている。それを受け止めて、希玖は微笑んだ。
「学校なんて行かなくても、お父さんに頼んでみたら? noa音楽企画だって優秀なミキサーはいるし、彼らの助手をしてたほうが実践で身につくかも」
「希玖〜。決心を揺らがせること言わないでよ〜」
「あははっ。────僕もね、みゆきちゃん」
「ん?」
「アメリカへ行ってこようと思うんだ」
「希玖っ?」
「例の研究所」
「どうしてっ? 何か言われたのっ?」
「別に。ただちょっとは献身しないと、夢見が悪いと思っただけ」
「希玖……」
「心配しないで。四月には戻るよ」
 そろそろ時間だよ、と関が言う。希玖はマフラーを手に取り、歩き始めた。
 ショックで歩き始めることのできないみゆきは立ち止まったままだ。
 希玖はみゆきに手を差し伸べた。
「大丈夫だよ。僕らのプロジェクトは、これで終わりじゃないんだ」
「……」
 みゆきはぎこちない笑みを見せて、その手を受け取った。

 『B.R.』とは「Blue Rose」の略。
 「Blue Rose」。その意味は、ありえないもの。
 まだ手にしていない何か、…不確定な未来。
 まだ手にしていない何かを探しながら。未来へと、歩いてゆくのだ。

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