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 安納希玖の病気は先天性のものだ。
 彼が赤ん坊の頃、母親は「お昼寝ばかりしていて手のかからない子」と笑っていたという。
 初めて異変に気付いたのは希玖が四歳の頃だった。日中、突然倒れるということが続けて起き、貧血かと心配した母親が希玖を病院へ連れて行った。そこで、病名を知らされた。
 ナルコレプシー。この病気の症例者の中でも、希玖はかなり重度なほうだと分かった。
 この日から、彼は「生活時間」と引き換えに、三十錠もの薬を飲むことを余儀なくされる。昼間に起きている為には、それだけの薬を飲まなければならなかった。普通の食事が喉を通らなかった。気分が悪くなって何回も吐いていた。かと言って薬を止めれば夢の中に落ちてしまう。
 幼い頃はきつ過ぎる薬を飲ませてもらえず、病院のベッドの上で何年も過ごしたことがある。退院しても、通院生活が続いた。
 当然学校には行けない。通ったことはない。病院内の友達。彼らはすぐに退院していった。
 淋しかったけれど、でも、それほどでもない。
 希玖には一人だけ、ずっと付き合ってる友達がいた。
 叶みゆき。同い年の従姉。
 多分、彼女の母親(安納鼎の姉)が希玖の見舞いに連れてきたのだと思う。初めにあったのはお互いが八歳の時。みゆきは誰にも教えられずに、希玖の病気を受け入れ、理解していた。少々心配性であるきらいがあるが、希玖のよいパートナーだった。
 彼女とは音楽鑑賞という趣味において、よく気が合った。歌謡曲に始まり次はクラシック、さらにハマったのはテレビCMや効果音などの「曲」ではない「音」。お互いCDを交換したり、流行歌批評もした。ある時病院へボランティアで来た中庭での楽団演奏を、楽譜に起こしお互いの記憶違いを指摘し合ったり。
 でも、二人とも楽器は使わなかった。
 興味がなかったのかもしれない。
 一人や大人数で奏でる音、歌。嫌いなわけでは勿論無い。ただ、耳に入る心地よい音楽に浸るのが好きだっただけで。
 希玖が十歳のとき、父親がパソコンを持って現われた。(みゆきはその時初めて安納鼎と会話した)
 多分、安納は玩具として息子にパソコンを与えたのだろう。ゲームやインターネット、病床の希玖には良い暇つぶしになるかもしれない、と。
 しかしそれは暇つぶしでは終わらなかった。
 そのパソコンを用い、希玖は次々と曲を作っていったのだ。
 溢れ出す才能の解放。
 今まで溜めてきたものをすべて吐き出すかのように、希玖はいつもパソコンに向かっていた。自分のなかの世界を形にする充実感。そして解放感。安納希玖から紡ぎ出される音楽はとても心地よく、耳に優しく、ときには感動さえ覚えた。
 みゆきはいつも、それらの曲を聴き続けてきた。となりで、希玖の音楽に浸り続けてきた。
「きっとこの曲がいつかCDになって、皆が耳にするかもしれないね」
「だめだよ。これはまだ未完成だもん。ギターとかバンドにやってもらって、歌も入れて、…本当に完成したものをいつか聴けたら、すごく幸せだけど」
 安納鼎が自分の息子が作った曲を初めて聞いたのは三年半前───。希玖が十四のときだった。
 その半年後。希玖とみゆきが十五歳の夏、『B.R.』プロジェクト開始。
 安納鼎は息子の曲が売れると打算したわけじゃない。
 皆に聴かせるに値する。
 そう、判断したのだ。
「でもお父さん。僕のことが知られるとあの人達怒るんじゃない?」
「その点はぬかりない。正体不明なバンドを作るんだからな」
 …そして今に至る。
 正体不明なはずの『B.R.』のメンバーの顔が割れてしまった。そして今、安納鼎は手の平を返したように大々的な演出と舞台を用意して『B.R.』を世間に発表しようとしている。
 開き直り? でも派手に『B.R.』が現われて調子に乗ったマスコミがKanonに興味を持たないとも限らない。それは安納鼎のもっとも避けたい事態ではないのか。
 それにKanonは実は叶みゆきではなく、安納希玖だという事実は、仲間たちにも秘密だと念を押している。この念の入りまくった秘密ゴッコはまだ続くのだろう。下手なことをするとは思えないのだが。
 みゆきはますますこんがらがる頭、額を押さえ深々と溜め息をついた。そして訊いた。
「…おじさんは、何を考えてるのかな」
「何?」
 首を傾げる希玖に、みゆきは要領が悪いながらもたどたどしく、希玖に説明した。
「ああ…。でもそれ、僕はわかるよ」
「え?」
 あまりにもあっさりと希玖が言った。驚くみゆきに説明するため、うーんと数秒考え込んでから、
「…抽象的な言い方をすると、影を濃くするには光を作らなきゃね、ってことかな」
 と、真剣な顔で言う。は? とみゆきは眉をしかめる。希玖の言葉を反芻し、頭を回転させ希玖の言葉を必死で理解しようとする。でもわからない。
「具体的に言うとどうなるの?」
 と、みゆきにしては気の利いた返しかたをした。希玖は、
「具体的に言うと、お父さんは僕を愛してる、ってこと」
 と、真剣な顔で言う。
「………降参。わかんないよ」
「うん、まあ。お父さんはお父さんなりに、僕のことを考えてくれてるんだと思う。『B.R.』のメンバーを潔く発表するのだって、多分、Kanonを世間に晒さない為なんだ」
「どういうこと?」
「例えば、ここで『B.R.』を下手に隠そうとすると、ストーカーまがいのマスコミが出てくるのは間違いないよね。浩太を監視して他のメンバーを調べようとするだろうし、もしかしたら僕までたどりつくかもしれない。『B.R.』の売り方もそうだけど、隠せば知りたがるのは人間の当然の心理だからさ。だからお父さんは『B.R.』を堂々と発表することで、下手に裏を探られないようにする。つまり『B.R.』という光源により影をつくり、そこにKanonを隠す。なんだかんだ言っても結局親馬鹿なんだよ、あの人」
 自分と、自分の父親のことなのに容赦無い言い方をする。
 でもみゆきは気付いていた。希玖の言う通りだとすると、安納鼎はKanonを守る為に『B.R.』を犠牲にしようとしているということだ。
 正体をバラされたくないのは、彼ら五人も同じ思いなのに。
「────………Kanonのため、か」
 溜め息混じりにみゆきは呟いた。
 みゆきが考えたようなことは、希玖はすでに予想していたに違いない。Kanonもまた、自分の名が広まるのを恐れている一人だから。
「そう。みゆきちゃんが知ってる通り、僕がこんなことしてるっていうのが世間様にばれたら、ごく一部の人は非難するだろうしね」
 そんな風に、笑う。
 『B.R.』は正体をバラしたくないと言ってる。
 Kanonは自分の名を広めたくない。
 安納鼎は希玖の音楽を発表したい。
(そして私は……────)
 自分の望むものは分かってる。安納鼎に談判してあっさりと却下されたものだ。
 そのことを考えるといつも息苦しくなる。手の平に汗が滲んで、胃が痛くなる。
「…」
 言葉が喉まで出掛かる。そして息はそのまま声になり、言葉になった。
「…でも希玖」
「え?」
「ごめんなさい。…分かってるんだけど、私は、ちゃんと言いたいの」
「───なにを?」
 みゆきの声から真剣さが伝わったのか、希玖は真顔で返した。みゆきは言った。
「皆に。私はKanonじゃないって、ただの代理なんだってっ! …希玖の事情は知ってる、隠れなきゃいけない理由も分かってる、のに、こんなこと言うのは勝手だって分かってる。───でも」
 唾を飲む。
「Kanonの名は、私には重過ぎるよ」
 絞り出すような、声。

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