/BR/祐輔
10/13

 本村沙耶は山田祐輔を探しに図書館へ来ていた。
 静かで、穏やかな空間。本校舎での慌ただしい様子とはまるで違った、別世界。
「……」
 沙耶はそっと、足を踏み入れた。
 日阪慎也は、今日は祐輔は来ていないと言った。
 沙耶は、祐輔がここに居ると確信があるわけじゃない。居ないなら居ないで別の場所を探すだけ。
 何故なら。
 今、山田祐輔に会いたいと思った。
 それだけなんだけど。
 図書館の司書は事務室に篭っている。他に人の気配は無い。
 静まり返った部屋に、本棚の林、古い本の葉。
 この、妙に閉塞感があるくせに、不安になる広さを感じさせる部屋を、沙耶は好きではなかった。
 好きだという人間は、どんな思いでこの空気に浸るのだろう。
「山田くん…?」
 祐輔はそこにいた。
 いつも、煙草を吸っている窓のそば、その壁にもたれ、祐輔は座り込んでいた。
 手足を投げ、頭を垂れて。
 沙耶の声が聞えたのか、腕がぴくと微かに動いた。
「──君のせいで弾けなくなった」
 うつむいたまま、低く、小さな声。
「どうしてくれるんですか」
 額を手の平で支えて、自棄気味に発音されてしまう言葉を繕うこともしないで。
 祐輔は沙耶に言った。
 山田祐輔の演奏が聴きたい。
 ただそれだけの、沙耶の一言に、祐輔は潰されてしまった。
 ピアノを弾けなくなった。もう弾きたいとも思わない。指が動かない。十年近くやってきたことを、一瞬で忘れてしまった。
 そうだ。そもそも。
 ピアノを弾きたいなんて、思ったことがあっただろうか?
 どうして始めた? いつ? どうして続けてきた? 何か理由があった?
 誉めてくれていた。
 コピーで皆、満足してくれていたじゃないか。
 山田祐輔の演奏が聴きたい。
 本村沙耶。
 嫌な存在。直感があった。
 関わりたくない。
 でも、彼女の演奏を聴いた。───初めて、音楽に感動した。
 あの深さ、音の表現力。彼女の内なる世界。
 嫉妬? あんな風に演奏できたらいいと思った。
 それだけ。
 でも、自分は弾けなくなった。
「…山田くん」
 沙耶の声。
 コツコツと近づく音がして、沙耶は祐輔のすぐ隣に座りこんだ。
 顔を上げると、その顔がすぐ近くにあった。じっ、と、祐輔を見つめている。
 そして、顔が近づいて。
「沙──…?」
 唇が触れあった。
 沙耶は、祐輔にキスした。
 図書館の中、他に人の気配はなかった。
 祐輔が目を見開きただ驚いているだけの間に、沙耶は離れた。
「……山田くんは」
「え?」
「山田くんは、山田くんの中の山田くんに、何もないと思ってる」
「……?」
 祐輔は混乱した。沙耶にキスされたこと、そして沙耶の言葉にも。
 沙耶は変わらない表情で続けた。
「だから、他人と同じように弾けるの。他人の真似しかできない。だって真似しないと弾けないもの。山田くんは、自分のなかに何も無いと思ってるから」
「───」
 祐輔は不思議と、素直に沙耶の言葉を聞くことができた。
「でも私には、ちゃんと見えるよ? 山田祐輔というヒトが。他人の真似しかしないけど、音楽好きなこと。それを自覚してないこと。他人と上手く付き合えない自分にストレスを感じてること。煙草を吸うことで解消してること。本の匂いで落ち着こうとする、他人に弱いところを見せたくないプライド、弱さ。この窓からの景色が好きなこと。…それが、山田くんの知らない、山田くん」
 間を開けた。
「自分を分かろうとしなきゃ、ピアノも弾けないよ」
 ピアノで音を出すのは本当に簡単で、ただ、鍵盤を押すだけでいい。ピアノはある意味打楽器なので、それだけで音が出る。
 でも音を出すことと、楽器を奏でることは違うから。
 そして演奏というのはやはり表現で、表現するのは演奏者。演奏者は何を表現するのかというと、それはいろいろあるけれど、結局は「自分」。それにすべては回帰する。
 自分を、表現する。
 自分を晒す? そんなことできない。わざわざ、他人に自分を見せるなんて。
 そう思っていた。つい、さっきまでは。
 祐輔はくくっと、微かに笑ったようだった。
「山田、くん?」
「……僕の知らない山田祐輔は、随分と器が小さいんですね」
 と、言った。顔に手をあてて、苦笑していた。
 沙耶も、笑ったようだった。
 初めて、笑顔を見た。



 次のチャイムが鳴るまで、二人は壁のもたれ寄り添って、その場に座りこんでいた。
「…慎也と付き合ってるんじゃないんですか?」
 そういえばこんな風に尋ねたこともなかった。
 先ほどのキスがただの慰めなのか確認するために言った。
 沙耶は微かに笑って、
「慎也は、私の、兄」
 と言った。
(……?)
 祐輔は我が耳を疑う。
「はぁっ?」
 大声を出した。沙耶は落ち着き払った様子で言葉を続けた。
「両親が離婚してるの。十五年前に。苗字が違うのはそのせい」
「慎也は何も言ってませんでしたよ?」
「妹が同じ学校の同級生、っていうのは、慎也のコンプレックス。妹のほうが成績が良いっていうのも、そう」
 勝手に入学してきたのはそっちだっていうのに、と、沙耶は勝手なことを言う。
 本村沙耶と日阪慎也は兄妹だった。
「慎也も成績が悪いわけじゃないですよ。常に五番以内にはいますし」
「私は、ヴァイオリン科の一番だもん。…なんて、奢るほうも馬鹿みたいだけど、それにコンプレックス持つほうも馬鹿みたいだよね。そもそも学科が違うんじゃ、勝負にも、ならないし」
「同じ学科には僕がいるからだめですよ」
 くすくすと、二人は笑い合った。
「──それにね」
 と、沙耶が話し掛ける。
「慎也は、だめなの。昔聴いた、ある人の演奏を今も、引きずってるから」
「ある人?」
「…多分、慎也が十一歳のとき、かな。まだ一緒に暮らしてたときだから。私は六歳とか五歳とか、そのくらいだった。慎也がコンクールの全国大会に、出たの。大会の優勝者は七歳の女の子。その女の子は当時は新聞に取り上げられたりもして騒がれていたって。その演奏を、ずっと忘れられないって、言ってた。でも女の子はその大会を最後に音楽界から消えた。──慎也は女の子の弾いた曲を今も弾いてるし、当時の記事の切り抜きを保管してる。…妹としては、この人大丈夫かなって、心配したこともあるけど」
 間を開けた。
「どの音楽を追いかけて行くか、なんて。……個人の自由だもん、ね」
 慎也の経緯にそんなことがあったとは知らなかった。
「私は、初めて山田くんの演奏を聴いたとき、すごく感動した。だからコピーじゃなくて、山田くんの音も聴きたいと思った」
 ほんとだよ、と付け加えた。


 その後。
 山田祐輔は一週間でA組に復帰し、さらに次の週にはトップに返り咲いていた。
 ヴァイオリン科のコンクール課題曲は「亡き王女のためのパヴァーヌ」。ピアノ伴奏にヴァイオリン・ソロという構成。
 本村沙耶・山田祐輔のタッグは話題を呼んで、先生方の間でも噂のタネになり、周囲の予想通り、一位となった。
 後に二人が付き合い始め、同学院新聞部主催のアンケートで「ベストカップル賞」を受賞したときの、山田祐輔による「ま、当然でしょう」という名言は後世に語り継がれているという。
 そして卒業するまで、山田祐輔は「演奏家にはならない」と公言していた。

 ───この次の年の夏、祐輔はKanonという名を知ることになる。

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/BR/祐輔