/BR/祐輔
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 山田祐輔は寮の練習室にあるピアノの前に座っていた。
 そして考える。自分の指を見て。
(僕の、演奏…?)
 ずっと、本村沙耶の言葉がひっかかっている。
 今まで考えたこともなかった。
 コピーの特技は昔から持っていたし、その演奏で周囲は評価してくれた。
 それでいいと思っていた。
 それでいいわけじゃないのか?
 ──演奏家の存在価値について、考えたことがある。
 昔の巨匠が書いた曲を奏でるだけの存在。勝手に解釈を歪曲させて、同じものを表現した気になっている存在。そうだ、大体。クラシックを奏でること事体、模倣でしかない。
 既成の曲をカラオケで歌う素人や、昔話を読んで聞かせる年長者と、一体どれだけの差があるというのだろう。──差、など無い。まるきり同じ存在。
 奏でるだけならレコードやCDと同じだ。…そこで生まれる矛盾。レコードだって、演奏者の演奏なのだ。
 では、古い時代の音楽をレコードにして、周囲に聴かせるだけの存在?
 よく耳にする「名演奏者」とは一体なんだ。何が優れているというのだろう。
 表現力? ただ、他人の曲を自分なりに解釈しただけで、何が表現力だ。
 何を言っても、演奏者など、演奏するだけでしかないのに。
 何も創り出すことができないくせに。
「……っ」
 ふと、とあるメロディーが頭の中を過ぎった。
 音楽に携わっている者なら、こういうことはよくある。
(───ああ、これは)
 最近、聴いた曲。
 本村沙耶の、演奏だった。
 この曲は知ってる。何人もの演奏を聴いた。何も思わないはずなのに。
 心の中で繰り返される音楽。
 本村沙耶の演奏を聴いてから。
 これが、本村沙耶の演奏……。





* * *


「禁煙、なんだけどな」
 ごほっ、と祐輔はむせた。
 いつものように図書館で煙草を吸っていると、本村沙耶が現われたのだ。
 最近は週二回顔を合わせているのに、わざわざこんな所で会うなんて。
 祐輔は前回と同じように携帯灰皿に揉み消し、ぱちんと蓋を閉める。
「失礼しました」
 何となく、長く同じ空間に居たくなかったので、祐輔は早々に立ち去ろうと荷物をまとめる。そんな中で、沙耶は本棚に向かいながらも、背後の祐輔に声をかけてきた。
「山田祐輔は、見つかった?」
 山田祐輔は、見つかった?
「──」
 祐輔は立ち止まり、息を飲んだ。
 見抜かれている、と思った。自分が今闘っている、葛藤。
「…そんな人間は、元々いないのかもしれませんよ」
 そう返すのがやっとだった。
 強がりでもいい。弱さを見せたくなかった。
 沙耶が振り返る。逃げ出したかった。でも、足が動かなかった。
「私は」
 沙耶の声。
「私は、見えてる、けど」
「え?」
 不可解な台詞に、反射的に祐輔は聞き返した。
(見えてる…?)
 何を?
 沙耶はまた本棚に向き直って、
「何でもない」
 と言った。








 十月最初の週、学内を揺るがすニュースが起こった。
 ピアノ科三回生、万年A組一番だった山田祐輔がE組に転落したのだ。
「山田がEぃ? うっそだろー。んな急に下手になるわけないじゃん」
「はじめてじゃないか? あいつ入学以来Aに居たもんな」
「先生方も大騒ぎだってさ」
「そりゃそーだろ、学校期待の星の危機だもん」
 恒例発表の日の朝。校内は上よ下よの大騒ぎだった。学年・学科問わずこの話題で持ち切りになっていた。
 様々な憶測が飛び交い、情報が入り混じる。
 事実を知るのは、同じクラスの面々だけだ。しかしピアノ科三回生A組の二十名は口を重くし、そのうちの誰かはこの結果は納得しないと言ったという。
「日阪っ、説明しろっ」
 と、教室に飛び込んできたのはピアノ科四回生数名だった。日阪慎也を名指ししたのは、山田祐輔と仲が良いことを知っているからであろう。
「…おはよーございます。先輩方」
「挨拶はいいっ、山田の転落劇は何事だ」
 四回生の間でも山田祐輔の腕と、今回の事件は噂のネタになっていた。
 慎也は何名かのクラスメイトと視線を合わせた後、苦々しい口調で言った。
「サボリですよ」
「なにぃ?」
「先週、あいつは実技の授業をぜんぶサボったんです」

 山田祐輔は、学校の練習室でひとり、ピアノを弾いていた。
「……っ」
 指がかたい。たどたどしく、いつものように弾けない。
 イメージが湧いてこない。
 何故、と思う前に祐輔は、どうしよう、と思った。
 忘れてしまっている。
 指が動かない。
 忘れてしまった? コピーの弾き方さえ。
 焦り始めると気持ちは止まらない。
(…本村沙耶のヴァイオリン)
 今まで祐輔は、尊敬する音楽家はいなかったし、特に好きという音楽もなかった。
 沙耶が弾いた曲は、既成の、何度も聴いたことがあるクラシック曲。
 それなのにどうして、こうも沙耶の曲が耳に残る?
 どうして。
 本村沙耶。ヴァイオリン。
 山田祐輔の演奏が、聴きたいの。
「っ!」
 バーンッ
 何かが弾けたように、祐輔は両の拳を鍵盤に叩き付けた。
 そして駆け出した。


 その日。昼になっても、山田祐輔は教室に現われなかった。

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/BR/祐輔