キ/BR/祐輔
≪8/13≫
あいつはヴァイオリンを弾くときだけ性格変わるんだ。と、慎也は言った。
それは本村沙耶という人物を知り、その演奏を聴いたことがある者なら誰でも知っていることだった。
祐輔は沙耶の演奏を聴いたことが一度もない。
だから今日、今、それを思い知ることになった。
空気が、張り詰めていた。
スゥッと表情が変わる。緊張が伝わる。
沙耶が操る弓が弦を響かせる。それは想像していたものとは全く違う音だった。
激しく、荘厳。
あの華奢な体のどこからこんな力強さが生まれるのだろう。
いつもどこかぼーっとしているような沙耶からは考えられない、音。
指先に集中していることが痛いほど伝わってきた。
激しく揺られるトリル。吸い込まれそうな迫力。心臓を揺さぶられる感覚。
性格変わるんだ、と言った慎也の言葉も今なら納得できる。
「─────」
講堂、舞台の上で、本村沙耶はヴァイオリンを構え、弓を操っていた。
それを聴きに来ている生徒数は祐輔のときより遥かに多いだろう。その理由も、この音を耳にすればよくわかる。
いつものトロく感じられるほどの穏やかさは、このときの力を取っておく為かもしれない。
そんな風に感じられるほど、激しいまでの迫力。
譜面も見ないで、目を瞑り、音の世界を作り上げている。聴衆をも引き込む力強さ。
「どうだ? 祐輔」
隣から慎也が声をかけた。
「……」
答えることはできない。
「祐輔?」
祐輔も、彼女の演奏に聞き入っていたのだ。
ただ一言、
「…まいった」
それだけを口にした。
どうしよう、と思った。
はじめて。
───はじめて、音楽に感動したかもしれない。
伴奏を受ける旨、本村沙耶に伝えたところ、彼女は別段驚いたりしなかった。
けれども少しの沈黙の後、彼女ははっきりした声で言った。
「条件があるの」
その言葉は彼女のほうの優位性を示すものだった。
柄にもなく、祐輔は意見する。
「…そちらから勧誘しておいて、条件ですか」
「そうよ」
「一応、覗いましょう」
「私、山田くんの演奏が、聞きたい」
沙耶の言葉に、祐輔は眉をしかめた。
伴奏を弾きうけると言っているのは自分だ。山田祐輔以外の何者でもない。
「…意味がわかりませんが」
続ける。
「シモーンやケイナのピアノなんて、CDで聞けるもの。山田祐輔のピアノが聞きたいの。わからない? 私の伴奏にコピーはいらない、山田くんのピアノを聴かせて欲しい」
「────」
「山田くんの演奏を、聴かせて欲しいの」
沈黙する祐輔の隣で、その一方的な会話を聞いていた慎也は溜め息をついた。
沙耶の言いたいことも分からないでもない。名演奏家の完璧なコピーを平然と弾きこなす祐輔の、その本人の演奏というのは誰も聴いたことがない。聴いてみたいとは思う。
演奏家というものは、それなりの技術さえ持っていれば、後は個人の感性、独自の世界観で個性が決まる。
あまり「自分」を晒すことのない山田祐輔の感性を、そのピアノ演奏で聴いてみたい。しかし。
山田祐輔の性格が、自分を晒すなんて、できるのだろうか。
「練習は火曜と金曜の放課後。あと一ヶ月、宜しく」
返事も聞かないまま、沙耶は本件をまとめた。棒読みのような口調の割に容赦がなかった。
じゃあ、やめます。と、断わればいい。
けれど口は動かず、声も出なかった。
一度受けてしまったこと。簡単に意見を返すわけにはいかない。
これも、祐輔のプライド。
「…宜しく、お願いします」
それだけ、硬い声で、言った。苦々しい口調だった。
*
「何で祐輔に拘るんだ」
帰り際、慎也は沙耶に尋ねた。駅まで一緒に行こうと誘ったのは沙耶のほうだった。
「…」
慎也の問いに沙耶は答えない。
「あいつは、お前と同じく伴奏者に収まるタマじゃないと思うぜ?」
「…そう言っても、山田くんだって今のままじゃソリストには、なれない」
「あいつにその気はないよ」
「え?」
「演奏家にはならない、って。祐輔の口癖だから」
口癖。
というよりも、慎也にはもっと別のもののように思える。
僕は、演奏家になるつもりはありませんよ。
祐輔はそう言うけれど、本当は、他人に言うことによって、自分を戒めてるような。
そんな気がする。
「どうしてもだめだったら、俺がやろうか?」
慎也の申し出に沙耶は素直に驚いた。微かに笑いながら、
「慎也も、私の伴奏なんてやりたくないくせに」
と言う。
「そんなことないよ」
「でも私も、七歳の女の子に引きずられてるような演奏者は、遠慮するわ」
だははっ、と慎也は声をあげて笑った。
「その嫌味っぷり。祐輔と似てるわ」
当たってるけどな、と慎也は笑いをしまいこむ。そして話題を転じた。
「…気が向いたら顔見せに来いって、父さんが言ってるぞ」
慎也の台詞に、沙耶は肩をすくめた。
「気が向いたら、ね」
「オイ…」
このぶんじゃ、いつ気が向くのやら。
慎也は呆れて苦笑いしつつも、改札で別れる沙耶を見送った。
≪8/13≫
キ/BR/祐輔