/BR/祐輔
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 あいつはヴァイオリンを弾くときだけ性格変わるんだ。と、慎也は言った。
 それは本村沙耶という人物を知り、その演奏を聴いたことがある者なら誰でも知っていることだった。
 祐輔は沙耶の演奏を聴いたことが一度もない。
 だから今日、今、それを思い知ることになった。

 空気が、張り詰めていた。
 スゥッと表情が変わる。緊張が伝わる。
 沙耶が操る弓が弦を響かせる。それは想像していたものとは全く違う音だった。
 激しく、荘厳。
 あの華奢な体のどこからこんな力強さが生まれるのだろう。
 いつもどこかぼーっとしているような沙耶からは考えられない、音。
 指先に集中していることが痛いほど伝わってきた。
 激しく揺られるトリル。吸い込まれそうな迫力。心臓を揺さぶられる感覚。
 性格変わるんだ、と言った慎也の言葉も今なら納得できる。
「─────」
 講堂、舞台の上で、本村沙耶はヴァイオリンを構え、弓を操っていた。
 それを聴きに来ている生徒数は祐輔のときより遥かに多いだろう。その理由も、この音を耳にすればよくわかる。
 いつものトロく感じられるほどの穏やかさは、このときの力を取っておく為かもしれない。
 そんな風に感じられるほど、激しいまでの迫力。
 譜面も見ないで、目を瞑り、音の世界を作り上げている。聴衆をも引き込む力強さ。
「どうだ? 祐輔」
 隣から慎也が声をかけた。
「……」
 答えることはできない。
「祐輔?」
 祐輔も、彼女の演奏に聞き入っていたのだ。
 ただ一言、
「…まいった」
 それだけを口にした。
 どうしよう、と思った。
 はじめて。
 ───はじめて、音楽に感動したかもしれない。







 伴奏を受ける旨、本村沙耶に伝えたところ、彼女は別段驚いたりしなかった。
 けれども少しの沈黙の後、彼女ははっきりした声で言った。
「条件があるの」
 その言葉は彼女のほうの優位性を示すものだった。
 柄にもなく、祐輔は意見する。
「…そちらから勧誘しておいて、条件ですか」
「そうよ」
「一応、覗いましょう」
「私、山田くんの演奏が、聞きたい」
 沙耶の言葉に、祐輔は眉をしかめた。
 伴奏を弾きうけると言っているのは自分だ。山田祐輔以外の何者でもない。
「…意味がわかりませんが」
 続ける。
「シモーンやケイナのピアノなんて、CDで聞けるもの。山田祐輔のピアノが聞きたいの。わからない? 私の伴奏にコピーはいらない、山田くんのピアノを聴かせて欲しい」
「────」
「山田くんの演奏を、聴かせて欲しいの」
 沈黙する祐輔の隣で、その一方的な会話を聞いていた慎也は溜め息をついた。
 沙耶の言いたいことも分からないでもない。名演奏家の完璧なコピーを平然と弾きこなす祐輔の、その本人の演奏というのは誰も聴いたことがない。聴いてみたいとは思う。
 演奏家というものは、それなりの技術さえ持っていれば、後は個人の感性、独自の世界観で個性が決まる。
 あまり「自分」を晒すことのない山田祐輔の感性を、そのピアノ演奏で聴いてみたい。しかし。
 山田祐輔の性格が、自分を晒すなんて、できるのだろうか。
「練習は火曜と金曜の放課後。あと一ヶ月、宜しく」
 返事も聞かないまま、沙耶は本件をまとめた。棒読みのような口調の割に容赦がなかった。
 じゃあ、やめます。と、断わればいい。
 けれど口は動かず、声も出なかった。
 一度受けてしまったこと。簡単に意見を返すわけにはいかない。
 これも、祐輔のプライド。
「…宜しく、お願いします」
 それだけ、硬い声で、言った。苦々しい口調だった。

「何で祐輔に拘るんだ」
 帰り際、慎也は沙耶に尋ねた。駅まで一緒に行こうと誘ったのは沙耶のほうだった。
「…」
 慎也の問いに沙耶は答えない。
「あいつは、お前と同じく伴奏者に収まるタマじゃないと思うぜ?」
「…そう言っても、山田くんだって今のままじゃソリストには、なれない」
「あいつにその気はないよ」
「え?」
「演奏家にはならない、って。祐輔の口癖だから」
 口癖。
 というよりも、慎也にはもっと別のもののように思える。
 僕は、演奏家になるつもりはありませんよ。
 祐輔はそう言うけれど、本当は、他人に言うことによって、自分を戒めてるような。
 そんな気がする。
「どうしてもだめだったら、俺がやろうか?」
 慎也の申し出に沙耶は素直に驚いた。微かに笑いながら、
「慎也も、私の伴奏なんてやりたくないくせに」
 と言う。
「そんなことないよ」
「でも私も、七歳の女の子に引きずられてるような演奏者は、遠慮するわ」
 だははっ、と慎也は声をあげて笑った。
「その嫌味っぷり。祐輔と似てるわ」
 当たってるけどな、と慎也は笑いをしまいこむ。そして話題を転じた。
「…気が向いたら顔見せに来いって、父さんが言ってるぞ」
 慎也の台詞に、沙耶は肩をすくめた。
「気が向いたら、ね」
「オイ…」
 このぶんじゃ、いつ気が向くのやら。
 慎也は呆れて苦笑いしつつも、改札で別れる沙耶を見送った。

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/BR/祐輔