キ/BR/祐輔
≪3/13≫
ピアノを弾くのは嫌いではなかった。
とくにバッハのオルガン楽曲は好きだった。あの、数学で表せそうな音の集合体が、いい。音楽と数学が似通う学問だということがよく分かる。逆にショパンは苦手だった。ショパンの曲は切ったら血が出る、という名言があるが、それくらい生々しく人情的だということだ。感情を露にした人間的な曲を奏でるには、自分は人格的に問題があるようだから、と祐輔は思っていた。
祐輔がピアノを弾くのは、数学の問題に挑む気持ちによく似ている。解けた後の満足感。達成感。そんな気持ち。
煙草の煙が空を舞った。
一人になりたかったので祐輔は図書館へ来ていた。教室に居ると人の良いクラスメイトたちが豊富な話題を投げかけてくるからだ。嫌なわけではないが、長い時間付き合うのはさすがに疲れる。
図書館の隅、本棚に埋もれた場所で祐輔は煙草を吸っていた。煙草と古い本の匂い、静かで落ち着く。
祐輔のポケットの中にはいつも煙草が入っていた。しかし人前で吸うことは絶対にしなかった。これにはどうと言った理由はなく、単に二十歳前から吸っていたことの名残である。
「禁煙」
心臓がドキッと鳴った気がした。その、突然の人の声に。振り返る。
「…なんだけど。ここ」
まるで棒読みのような感情のない台詞。
女生徒が一人、立っていた。髪をアップにまとめて、サマーセーターにロングスカート。そんな厚着な格好でも華奢だと分かる体格。片手にヴァイオリンケースを抱えていた。
「──失礼しました」
祐輔はすぐに携帯灰皿に咥えていた煙草を捨てた。人に見られたのは迂闊だった。
「本、探したいの。ちょっと、ごめん」
とゆっくり抑揚のない声で言うと、彼女は祐輔のすぐ隣の本棚に目を走らせ始めた。すでに祐輔の存在は意識の外の様子。
祐輔は突然現われた女生徒にまだ驚いていた。喫煙姿を見られたこともそうだが、どうもこの女生徒は妙な雰囲気を持っていた。先程、祐輔を注意したにも関わらずその表情は非難も苦笑もなく無関心で、喋り方もどこかおかしい。
そんな風に思っても、祐輔は長く気に留めることはなくその場を去ろうとした。その時、もう一度女生徒から声がかかった。
「ピアノ科の、ヒト?」
やはりおかしなイントネーション。
「…そうですが、何故わかりました?」
改めて女生徒と向き合うと、どうも焦点の合っていないような視線を向けられた。
「楽器、持ってないし。煙草吸っていたから、声楽のヒトじゃない、でしょ」
ぼーっとしているように見えて結構観察眼があるらしい。質問を返された。
「ヤマダユウスケって、知ってる?」
まっすぐに祐輔の目を見て、言う。
「は?」
まさか自分の名前が出るとは思わなかった。しかも、知ってる? とはどういうことだ。わざと言っているのでなければ、彼女は山田祐輔の顔を知らないのだろう。
どう答えるべきか祐輔は悩んだ。自分だと名乗るべきか、知っていると質問に答えるべきか、知らないと嘘付くべきか。
この、奇妙な雰囲気の女性に長く関わりたくなかったので、祐輔は一番早く会話を終わらせることができる三つ目を選んだ。
「いえ、知りませんが」
「そう。じゃあ、皆が言ってる程、有名でもないんだ」
と、簡単に納得する。
わざと言ってるのか? と疑いもしたが、祐輔が観察する限り、嘘は付いてないと、思う。
「その人がどうかしたんですか?」
「ううん、…いい。ピアノ科には知り合いがいるから、そっちに訊いてみる。ありがと」
礼まで言われる始末だ。
「…はあ」
女生徒は祐輔から視線を外して本棚に意識を戻した。祐輔の存在はもう忘れたかのような態度。
(………)
祐輔はその後ろをすり抜けて、図書館を後にした。
妙な女と関わってしまった、と思った。
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キ/BR/祐輔