キ/BR/実也子
≪10/16≫
ばん、と地下駐車場に車のドアがしまる音が響いた。
「はい、おつかれさん」
運転席から降りたのは木田理江という二六歳の女性。背中まで伸びる黒髪に黒いパンツスーツ、派手過ぎないメイクに赤いルージュとマニキュア。この女性の格好良さは、今、助手席から降りた実也子の憧れでもある。
「ありがとう理江さん。わざわざ向かえに来てもらっちゃって、ごめんね」
財布を持って出なかったので、唯一可能な通信手段──携帯電話で実也子は知人の理江を呼び出したのだ。実也子とは年が離れているが気兼ねなく話ができる友人であり、姉のような存在でもある。
その理江は車の鍵を指に絡ませながら笑った。
「別に構わないよ。私も実也に会いたかったし。でもいいの? 今、忙しいんじゃない?」
「あ、うん、大丈夫。…わぁ、理江さんの店に来るのも久しぶり〜。懐かし〜」
地下から階段で三階へ上がる途中、実也子は声を上げた。
この建物は理江の所有で、一、二階は木田楽器店の店舗になっている。戦前から開業している老舗で、大物演奏家御用達の店でもあった。三年前、父親から受け継ぎ、今は理江が店長に就任している。
店長になる前から理江は店を手伝っていて、知識は全て父親から教わり、結局大学にも行かず稼業を継いだ。理江はヘビースモーカーであるが、店内で吸うことはない。煙草の煙が木製楽器を焼いてしまうからで、その辺りの心意気も父親から受け継いでいた。
三階は理江の住居になっており、実也子は過去何回か泊まりに来たことがある。
「ねー理江さん。明日、ベース弾かせてもらない? 一日二時間はやらないと腕が鈍っちゃうから」
実也子は両手を合わせて甘えた声を出した。この場合のベースとはコントラバスのことだ。
「いいけど、ホテルに戻らなくていいの? お仲間にはここに泊まるって言ってあるの?」
「うん。それは大丈夫」
にっこりと笑う実也子を理江は訝しがったが、特に追求はせず自宅のドアを開けた。
*
理江がシャワーを浴びに消えて、一人部屋に残された実也子は、即座に携帯電話を取り出し上野の某ホテルへ電話をかけていた。
「俊哉、頼みがあるの。ホテルに電話して、長さんに伝えて。私は友達のトコ泊まるって。心配しないでって言って。お願いっ」
理江の「お仲間にはここに泊まるって言ってあるの?」という言葉で実也子はある可能性に気が付いた。同時に(やばいっ)と思った。
遅くまで連絡も無く帰らない実也子を、知己たちは探そうとするだろう。彼らは実也子が行きそうな場所は数える程しか知らないので、もしかしたら部屋にある実也子の手帳にも手を付けるかもしれない。それ以前に、心配させない為には連絡を入れておく必要がある。
『……自分で言ったら?』
電話の向こうからは俊哉の怪訝な声。実也子はどうにか説得にかかる。
「言えたらあんたに頼まないよー」
『いいけど。…どうせ木田さんの所に居るんだろ?』
バレてるし。察しの良すぎる弟を持つのも大変だ。
実也子は念を押すことを忘れなかった。
「それは言わなくていいからねっ。ていうか、言わないでっ」
ここまで言っておけば大丈夫だろうというくらいしつこく念を押して、実也子は電話を切った。
ふう、と溜め息をつく。
「───実也」
ひっ、と実也子は叫びそうになった。突然の声、それは勿論理江のもので、振り返りその姿を見止めると実也子は飛び上がった。
「わーっ、理江さんっ」
恐らく聞かれた。そして見抜かれてしまった。
理江はいつからかそこに立っていた。バスローブ姿で、髪から水滴を滴らせて。
理江は目を細くさせ、厳しい目つきで実也子を睨んだ。
「実也。ちょっとそこに座りなさい」
あちゃー、と茶化すことも許されなかった。
見抜かれてしまった。
理江の視線の痛さに目を伏せる実也子。
「まさか、ここを逃げ場にしてるわけ?」
「…っ」
一発必中。理江の言葉は実也子をぷすっと射した。ずきんと胸が痛んだ。
うつむいたまま何も言わない実也子に、理江はさらに言葉を続けた。
「一晩って言ってたけど、あわよくば数日居座るつもりだ。図々しいね」
シャカシャカとタオルで髪をかき混ぜながら、あからさまな皮肉を口にする。
実也子は青い顔でごくんと唾を飲んだ。理江の性格は分かっているつもりだ。
「理江さん…」
「連絡は全部シャットダウンするわけ? 突然仕事が入ったら? 連絡取らせないの? あんたプロだよね? ははっ、サイテー」
理江は実也子の目を真っ直ぐに見据えて、言った。
「言っとくけど、このまま何もしないで逃げるつもりなら、今すぐ出て行ってもらうよ」
「理江さん…、違うの」
「言い訳は聞きたくない」
冷たく言いきる理江。実也子はうっと言葉を詰まらせた。
本当に、違う。今回は前のように自分に付きまとう環境から逃げてきたわけじゃない。
自分の過去の悩みを、仲間たちに話すことができなくて、仲間から逃げてきた。
「理江さん…っ!」
弱い部分を見せることができる、強さ。
過去の確執を埋めるためにそれと向き合う、強さ。
自分に足らないものは、よくわかってる。
「もぉ、事情説明くらい、させてよぉお」
ここで理江に嫌われるのは、すごく、つらい。
両手を結んでうつむく実也子を目にして、理江は苦笑した。実也子の隣に座り、その頭を抱き寄せた。
「ひどいこと言ってごめん───でも、私が何も言わなかったら、実也は何も説明してくれなかったでしょ?」
図星だった。
申し訳ないと思った。
*
実也子もシャワーを浴びさせてもらい借りたパジャマに着替えて、理江の部屋の隅に座り込んでいた。膝を抱えて、流れる音楽に耳を傾ける。
理江は実也子のために布団を敷いてくれた後、自分のベッドに入って雑誌を読んでいた。
室内のCDコンポの横にはさすが楽器屋店長というべきか、数百枚のCDが壁を埋めている。理江の選曲で今夜のBGMは、何故か、Blue
Roseの前身『B.R.』の最初で最後のアルバム「SONGS」だった。
懐かしい曲の数々を聴いて、実也子は膝に顔を埋めた。
───人生最初にハマった音楽はジャズだった。次はクラシック、その世界で食べていくと思ってた。
でも、今は、芸能界でお金を貰っている。
世の中何が起こるか分からないものだ。その世の中で、自分が今悩んでいることなど、本当に小さなことなのだろうけど。
デビュー曲の「Blue
Rose」が流れた。自分のパートを意識しないで聴けるのは、それなりの時間が経った証拠だ。
「…最近、悩んでることが二つあるの」
前触れもなく、実也子は呟いた。
「うん?」
実也子が語り出すまで、理江は待っていてくれた。雑誌から目を離して、実也子のほうを向いた。
≪10/16≫
キ/BR/実也子