/BR/実也子
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「実也子っ、何ださっきのは」
「お願いだから騒がないで。…本当に、何でもないから」
 知己の手を振り払って、実也子は安心させるような笑顔を見せた。でもすぐに俯いた。
 今は知己の声さえ、鬱陶しく感じる。皆の、心配そうな視線も、何もかも。
 顔がひきつって笑えない。こんな私、見られたくない。
 前田先生。
(自業自得だ…)
 好き勝手に生きてきたことの、これは罰だ。
「実也子っ」
「何でもないったら!」
 強く、叫んだ。
 しまった、と思った。
 口元を抑える。自分の発した声が信じられなかった。
「…あ。ごめん」
 呟いた。
(こんなの私らしくない…)
 私らしくないよ、と言い聞かせるように、強く、胸の中で呟いた。
「ミヤ」
 え、と顔を上げる。
 圭が濡れたハンカチを差し出していた。
「冷やすと、腫れ、おさまるから」
「あ…」
 左頬を押さえていた左手で、それを受け取る。
「ありがとう」
 圭は時々ハッとするような気の遣い方をするときがある。ありがたいな、と、心から思った。
 まだ熱い頬にハンカチを当てると、ひんやりとして気持ち良かった。
 心も落ち着いてきた。
 鼓動が安定してきて、深呼吸をすると気分が変わった。
 知己の顔を見ると、相変わらず何か言いたそうな目をしていた。実也子はもう一度深呼吸をして、
「…さっきの彼は、昔の知り合いなの」
 と切り出した。
「もう何年も会ってなかったんだけど、今回のことで私のこと聞いて、会いに来てくれたみたい」
「その知り合いが何でおまえを殴るんだよ」
「………」
 実也子は言葉に詰まった。説明が難しいし、説明したくもない。
 答えないでいると、祐輔が口を挟んだ。
「───塚原正志でしょ。あれ」
「何で知ってるのっ?」
 実也子は飛び上がった。
 祐輔の口からその名前が軽々出てくるなんて。
「今年のコンクールに出てましたよ。ほら、三月の。前田公昭の門下生の一人」
「前田…って、この間言ってたクラシック界の大物ベーシスト?」
 浩太が尋ねる。祐輔は頷いた。
「ええ。前田公昭には七人の弟子がいるんです。年齢はバラバラですが、皆それなりに活躍しています。何でも前田公昭は公式のコンクールには門下のうち一人しか出場させないとか。今回はその中で最年少ながら塚原正志が出場しました」
 すらすらと語る祐輔の言葉の内容は、実也子が当たり前のように知っていることだった。
「……あ、あいかわらず詳しいねぇ」
 どうにかおどけた声を出すが、思った通りには響かなかった。
 祐輔は実也子に視線を向けて、さらに続けた。
「でもこれって、クラシック界ではかなり有名な話なんですよ。雑誌にも書いてあります。実也子さんも前田公昭のファンって言ってたし、多少知ってるんじゃないんですか?」
 祐輔の台詞は、疑問ではなく確認だった。
 ここまで言われて、実也子のほうも気付かないはずがない。
 観念したように溜め息をついて、実也子は苦笑して言った。
「祐輔、意地悪だなぁ…。気付いてるんでしょ? もう」
 察しの良すぎる彼のことだ。もしかしたら祐輔の台詞だけで他に気がついた人がいるかもしれない。
 例えバレているとしても、できれば口にしたくなかった。
「…そうよ」
 でもあえて実也子ははっきりと明確に、自分の過去を明かした。
「私は、十三歳から十九歳になるまで、前田公昭に師事してたの」

「祐輔が言った通り、さっきの塚原くんは兄弟弟子。…前田先生の顔に泥を塗る気かって、叱られた。だから、叩かれたの」
 こんな所で何してるんだ、と。よく顔が出せたものだ、と。彼の言いたいことは、分かった。
 殴られるくらいのことは初めから覚悟してた。
 単なる暴力じゃなく、無言の戒めのようなものがあって、八人の間では厳しく監視しあっている節があったから。前田公昭の弟子、という誇りと責任が、そのような関係を作るのだ。恥ずかしくないようにと、お互いがお互いを高める。
 あれだけの言葉と、一発叩くだけで塚原が帰ったことのほうが、実也子は意外だった。
「あ、でも気にしないでね。あの人は、クラシックが高尚な音楽だって、思い込んでるだけなの。…先生はそんな風に教えたこと、なかったのにな」
 ははは、と少しだけ笑うことができた。
 少し間をあけて、祐輔が尋ねた。
「…前田公昭のところをやめたのはいつですか?」
「筧さんのお店でKanonの曲を聴く二ヶ月前」
「どうしてやめたんだ?」
 ちくんと胃が痛んだ。
「────…」
 知己の質問に、実也子は口を閉ざした。一度だけ視線を泳がせて、
「私ね、十三のときから先生に弟子入りしてたんだよ。中学一年だった」
 と、語り始める。知己たちの目を見ないように、続けた。
「でも群馬の地元の学校へ通ってた。平日の放課後は、地元のベーシストの先生に教わりながら前田先生のメニューをこなすの、夜の十時まで。土日と、夏休みとかは、東京に来て練習、先生の家に泊まってた。……ははっ、今思い返すと笑っちゃうよ。そんな生活を、六年間も続けてたんだよ? 高校も地元だったからね。ほんと、感心しちゃう」
 声が震えた。四人は黙って聞いていてくれた。
 少しだけ胸が痛んだ。
「前田先生はとても厳しい方だし、私は他の兄弟弟子とも折り合い悪かったし…。結局、その厳しさに耐えられなくなって、…そんな生活に我慢できなくなって、飛び出しちゃった」
 やめた理由はそんなところ、と実也子は付け足した。
「……」
 それを聞いていた実也子以外の四人──知己と祐輔と浩太と圭は、誰からともなく目を合わせた。四人とも言いたいことは同じなようで、それに対する回答も同じであることを視線だけで確認し合う。
「…? なに?」
 それに気付いた実也子は、一人わけが分からず首を傾げた。
「───ミヤ」
 どうやら代表として圭が言うことになったらしい。でも。
 実也子に向けられた四人の視線はとても厳しいものだった。
「それを本気で信じさせようって思ってるなら、俺ら、かなり、なめられてるな」
 え?、と実也子は呟いた。意味がわからなかった。
「え…、なに? どうして?」
「嘘ついてまで言いたくないなら、別に無理して訊かなくてもいいじゃん」
 と、含みを持たせて言ったのは浩太だ。
「中野? …私、嘘なんかついてないよ?」
 誰かが溜め息をついた。
 そして圭が言った。
「この中で一番努力家なのってミヤだぜ? 努力家って言葉が違うなら単に練習好きって言ってもいい。だから、そんなミヤが、練習がキツくて逃げたってのは嘘だな」
「…っ!」
 実也子は動揺した。その表情を出してしまった。
 図星をさされたのは、勿論嘘をついた自分が一番よくわかってる。
 でも。
 本当のやめた理由なんて。
 皆に言いたくない。絶対、言いたくない。
「…買い被りすぎだよ、皆」
「もっとはっきり言うと、今のおまえが嘘付いてるのは誰でもわかる」
「……っ」
 知己にまで言われて、実也子はカッとなった。
「───……よ」
 四人を見回して、呟く。小さすぎて声が届かなかったらしい。聞かせるつもりもなかったが。
「え」
 前田先生のところをやめた理由?
 それを訊くの? あなたたちが。
 すっと息を吸う。
 叫んだ。
「皆にはわかんないよっ!」
 そして駆け出す。ミヤ、と後ろで圭の声が聞えた。構わずにホテルのロビーを横切った。
 走った。
 行き先もどうするのかも決めてない。ただ皆の前に居たくなかっただけで。
 過去の、痛いところを刺されただけで。
 実也子は、逃げ出した。



 実也子が足を止めたのは、ホテルから二ブロック先、数百メートル走った後だった。
 我に返って、財布がホテルの部屋に置きっぱなしだということに気付く。それから上着も着てない。いくら春先だと言っても夜はまだ寒いだろう。
(……どうしよ)
 ホテルに戻るつもりはなかった。
 今は知己たち四人には絶対会いたくない。顔も見たくない。
 前田先生のところをやめた理由?
(言っても分かんないよ。皆には)
 そんな風に腹立たしいくらい、実也子は昂ぶっていた。
 何故なら。
 実也子が前田公昭の下から逃げ出したのは、自分が持つ欠点に耐えられなくなったからだ。
 初めは気にならなかった。
 でも一度気になると、自分がみじめな存在だと気付くまで時間はかからなかった。
 ───そして、あの頃どんなに望んでも手に入らなかったものを。
 彼らは持っているのだ。
「……これは、ヒガミだよね」
 目に涙を浮かばせて、実也子は失笑し、呟いた。
 皆が意識せずに持っているものを、自分は欲しがっている。未だ、欲しがっている。
 前田公昭のところをやめた理由は、自分はそれを持っていないから。
 それを何気に尋ねられたからといって、質問の無神経さに頭にきて、ヒステリー起こして、逃げ出してきたなんて。
 単なるヒガミでしか、ない。
「……」
 実也子は壁に寄っかかり、くすくすと笑った。
 少しだけ、泣けた。

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