/BR/実也子
8/16

 翌日。
 午後六時。
 部屋の電話が鳴ったとき、相手が誰なのか実也子は咄嗟に判断できなかった。
(かのんちゃん…? …長さんかなぁ)
 どちらにしてもこの時間にかけてくるのは珍しい。
 みゆきがかけてくる場合は仕事のことだろうし、知己の場合食事の誘いとかだったら個人的には嬉しい。
 ベッドに腰かけて、枕元の電話をとった。
「はい、もしもーし。片桐でーす」
 ホテルの電話の場合、普通は名乗らなくても良い。実也子はほとんど勢いで受話器に向けて言った。
 返ってきた声は想像したうちの誰でもなかった。
「フロントでございます」
 きれいな、高い声が返ってきた。その人物の顔もすぐに頭に浮かんだ。フロントカウンターにいる、すでに顔見知りとなった女の人だ。
「あっ、はい。何でしょう」
 実也子は改まった声を返した。
「フロントに塚原様という男性の方がいらっしゃっています。片桐様に面会したいとのことですが、いかがいたしましょう」
 呼吸が止まった。
「すぐ、行きますので、ロビーで待っててもらえるように伝えてもらえ、ますか?」
「かしこまりました。この件は安納様にお伝えしたほうがよろしいでしょうか?」
「いえ、その必要はありません。全くの、プライベートですから」
 受話器を置くときに、最大限の注意を払った。少しでも気を抜くと、落してしまいそうに手が震えていたから。
 ドクン、と。自分の鼓動が嫌に耳につく。
「はぁ…」
 わざと声に出して、実也子は溜め息をついた。
(やっぱり……、来たか)



 会うのは四年ぶりなのに、実也子は相手をすぐに見つけることができた。
 多分、今二八歳だっただろうか。よく覚えていない。
 それからもう一つ。実也子は、彼が自分のことを良く思ってないことを知っていた。
「こんにちは。片桐さん」
 目の前で懐かしい顔が笑った。
 彼は自分の嫌いな相手に対しても笑顔を見せられる人柄だ。それを性格と呼ぶか外面がよいと呼ぶかは難しいところだ。
「────…塚原くん」
 彼の名は塚原正志といった。
「久しぶりだね」
 と言っても、塚原が実也子との再会を喜んでいるわけじゃないことは伝わった。
「…もし来るなら、塚原くんだと思ってた」
 七人のうちで。
 塚原の、仲間…とは言えないかもしれないが、とにかくあと六人同じ立場の人間がいる。塚原正志を入れて七人。
 片桐実也子を入れて、八人に、なる。
「はは。ほら、弟子の中では俺が一番年下だろ? 押し付けられちゃってさ。──と言っても、君なんか放っておけっていう意見のほうが多いんだけど」
 実也子は塚原が何しに来たのかよくわかっていた。
「…先生は?」
「何も言わない。演奏会が近いんだ、ゴタゴタしたくないんだよ」
「…」
「で、片桐さんは今頃現われて、先生の顔に泥を塗る気?」
「まさか…っ」
「知ってるだろ? 先生の芸能界嫌い。君がどう思ってるか知らないけど、マスコミは近いうちに君らの経歴を調べあげるだろうし。君が昔、先生の門下生だったとバレたら、こっちも迷惑するんだけどな」
「───」
「それと、俺らの中には、クラシック界を志し半ばで諦めた君が、芸能界で騒がれているのを、面白く思ってない奴もいる。はっきり言って君は目障りだから」
 実也子はしっかりと、塚原の言葉を受け止めた。
 それでも崩れることはない。それは塚原に対して、ある種の「意地」が働くからだ。
 対等なライバル関係を保つためには、気弱な態度は見せないことだ。
 実也子は挑戦的な口調で言った。
「…変わってないなぁ、塚原くんは」
 次の瞬間。
 パンッと渇いた音をたてて平手が飛んだ。
 塚原の右手が、実也子の頬を叩いたのだ。実也子はよろけたものの、どうにか倒れずに済んだ。
 頬が、熱くなった。
「……っ」
 何をされたかは、すぐに理解できた。
 目に涙が滲んだ。でもこれは酷いことを言われたせいじゃない。殴られた屈辱からでもない。
 ただ、少し痛かっただけだ。それだけの涙だ。
「君も、自分勝手なところ、全然変わってないね」
「言われなくても、…分かってる」
 自分がどんなに我が儘で、勝手で、周囲に迷惑かけてきたかなんて、よく分かってる。
 そんなこと、塚原に言われるまでもない。
 ほとんど押しかけで弟子入りしたのに、勝手にやめて、教わった技術を利用して別の場所で活躍しようなんて、虫の良い話。
 言われるまでもない。
 けど。
 塚原の言葉を、平気で聞いていられるわけじゃない。
 塚原の言葉は全て真実だから、深く、胸に突き刺さっている。
(どうしよう。泣いてしまうかもしれない)
 もしこれが塚原の前じゃなかったら、泣いているかもしれない。もし私が一人だったら。
 もし、誰か───。
「実也子っ」
 知己の声が聞えた。
「長さんっ?」
 駆け寄ってきたと思ったら、間に割って入って、塚原を睨み付けた。塚原は知己が誰かなのか分かっているらしく、事情説明も言い訳もなく、無言で目をやっただけだった。
「何やってんだ!」
 先ほどのシーンを、知己は離れた所で見ていたらしい。咄嗟に弁解したのは実也子だった。
「長さん、何でも…何でもないから、騒がないで」
 未だ熱い左頬を押さえながら、知己を抑制する。
 ホテルのロビーで男が女を殴ったのだ。周囲の幾人かに注目されているのが分かる。これ以上騒ぎを広めたくない。
「…でも、実也子」
「ほんと。私は大丈夫だから。───塚原くんも、せっかく来てくれたのに申し訳ないけど、用件がそれだけだったら今日は帰ってくれる? 本当に、ごめんね」
「ああ。もう二度と来ないよ」
 じゃあな、と捨て台詞を残して、塚原はホテルのエントランスから出て行った。

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/BR/実也子