キ/BR/実也子
≪7/16≫
「ごめーん。食べ過ぎみたい。失礼、失礼」
実也子が元居たテーブルに戻ると、そのいつもの調子に三人は安心した。
「食べ過ぎって…、そんなに食ってたっけ?」
「皆がいないところで。夜食とかね。えへへ」
ぽりぽりと頭をかく。知己以外の三人は笑ってくれた。気を遣ってくれたのかもしれない。
「あ、そうそう。実也子さん」
と声をかけたのは祐輔だった。
「んー?」
「今度、僕と一緒にデートしませんか」
その、唐突な発言に、素直に驚くリアクションを返したのは浩太と圭だった。実也子は目を見開たものの、面白そうに祐輔の顔を覗き込んだ。満更、悪い気はしない。
「なになにー。どうしたの? 突然」
祐輔は、というと、この人物がポーカーフェイスを崩すはずもなく、いつも通りの口調で、いつも通り面白がっている。他人にとってはた迷惑なこともあるけど、祐輔の企てに実也子もあやかろうというのだ。
「こういうものがあるんですが」
ぴらっと、紙幣大の紙を二枚、差し出した。
実也子はそれに目を走らせると、ガタンッと立ち上がり大声を発した。
「あーっ!
これ、前田公昭のコンサートチケットっ? えっ、どうしてっ?
これ、なかなか手に入らないんだよぉっ?」
ふるふると震える手でチケットを握り締め、実也子は力んだ。
前田公昭。その名を実也子は当たり前のように口にしたが、浩太と圭と知己は首を傾げていた。
「ちょっとツテがありまして。…実也子さんの趣味でしょ?」
「なんでわかったのー?
私、今一番尊敬してる人って前田先生なんだよぉっ」
「何となく、技術的…というか拘ってるところが同じ方向だと思って。…どうです?
行きますか?」
実也子は隣に座る祐輔に抱き付いた。
「もちろん行くーっ、ありがとうっ、祐輔っ」
そのまま、興奮が収まらないのか実也子は「ありがとう」を連続した。祐輔も別段動じる様子もなく、どういたしまして、と言った。
「でも、長さんの視線が痛いので離れません?」
「誰がだよ」
合い向かいに座っている知己がつっこむ。
「やだー、長さん。やきもちぃ?」
笑いが収まらない実也子。大人しく椅子に座り直した。
「でも、いいの? 二枚あるってことは、沙耶さんと行く予定だったんじゃない?」
本村沙耶はこの間一緒に仕事をした祐輔の彼女だ。
「沙耶経由で二枚貰ったんですよ。何でも団員仲間が入手したらしいんですけど、合宿と重なって行けなくなったそうです。沙耶は実也子さんにあげたくて、チケット貰ってきたそうですよ。本人も合宿組ですから」
「じゃあ、後でお礼を言わなきゃ。ついでにエスコートに祐輔を借りるお礼も」
「こちらこそ、喜んで」
「ところで、前田公昭って誰?」
会話の区切れを狙って圭が疑問を口にした。
「あ、そっか。別にコンサートと言ってもアイドル歌手じゃないよ」
と、実也子は苦笑する。祐輔が言葉を継いだ。
「日本を代表するコントラバス奏者の一人────実也子さんと同じ楽器ですね。本人は多分六十歳くらいだったと思います。コントラバスでは珍しくソロ・コンサートも演るし、テレビにもたまに出てますよ。巨匠と呼ばれる一人であるにもかかわらず、オーケストラの一人として出演することもあります」
その祐輔の説明には、実也子も驚いた。
「祐輔、詳しいねー」
「それくらい有名だってことですよ。雑誌にもよく出ているし」
それは実也子も知ってる。雑誌の特集はけっこうチェックしているのだ。
「ミヤって、なんで弦バス始めたの?」
浩太が言った。
「あ、そっか。言ったことなかったっけ?」
でも改めて言うとなると照れるものなのか、実也子ははにかむように笑った。
「私はどっちかっていうとクラシック畑の人間だけど、元々この楽器を始めたのはあるバンドのファンだったからなの」
「バンド、って?」
「RIZっていうジャズバンド。解散したのはもう七年くらい前だから、中野や圭ちゃんは知らないかな。RIZのリーダーで、ウッドベース担当の加賀見康男って人がいてね。…あ、もう亡くなったんだけど。この人がものすごくかっこいいの! 十一歳の幼心にも本気で惚れたなー。とにかく、加賀見さんに憧れて、弦バス始めたの。私」
「えー、でもこの間、クラシックの演奏家に弟子入りしてたって言ってたじゃん」
「そう。加賀見さんの尊敬するベーシストがクラシックの人でね。私はほとんど押しかけで、その人のところに弟子入りしたんだ。一ヶ月も経たないうちに、今度はクラシックにハマってたよ」
「ジャズの次にクラシック……って、普通、逆じゃないですか?」
と、祐輔は苦笑した。でも、実也子らしいかもしれない。
「私の初恋は、RIZの加賀見康男さん。次は私の師匠だよ」
そう言って、笑った。
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キ/BR/実也子