/BR/実也子
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 翌朝。
 木田理江はいつも通り九時に店を開けた。
 片桐実也子はまだ三階で眠っている。最近眠れないと言っていたが、今日はぐっすりと眠っているようだ。起こすのも気が引けてそのまま寝かせてある。
 理江は朝の仕事を開始した。
 窓を開けて一通り空気を流す。ディスプレイ用の楽器をケースから出して飾り、はたきをかける。ピアノなど鍵盤楽器類は蓋をあける。
 それから入荷予定の荷物のチェック。午前中に届く予定の楽器以外の小物類。メンテナンスの道具や付属品などがそれにあたる。
 理江が伝票とにらめっこをしている最中のことだった。
 からん、と音をたててドアが開かれる。本日第一号のお客様がいらっしゃったわけだ。
「いらっしゃいませー」
 と、常套句を口にしてから顔をあげた。
「……あっ」
 理江は大声を上げそうになった。
 ───知っている人物だった。
 ドアから入ってきたのは初老の男性。ほとんど白くなった髪の毛を丁寧に撫で付けて、年季を感じさせる顔の皺、茶色のジャケットを羽織っていて、様相にどことなく品の良さが伝わってくる。
(あらあら)
 理江は表情には出さずに苦笑した。
 この辺りはさすがプロ、理江はいつも通りの笑顔で客を迎える。
「おはようございます。前田先生」
 客の名は前田公昭。二十年以上も前から、この店の常連だった。
 木田楽器店店長の挨拶に前田も穏やかに微笑んだ。
「やあ、理江ちゃん。おはよう」
「そのちゃん付けはいい加減やめませんか。私、もう二六ですよ」
「君が生まれたときから知っているから、ついね。いつもの、もらえる?」
「はーい」
 理江は踵を返し、背後の棚を開け、物を探し始めた。作業の手を休ませないまま、理江は話題を振る。
「確か先生は今日コンサートでしたよね」
「ああ。…理江ちゃんも来るかい? 招待席のチケットならあるよ」
 平然と前田は言うが、そのチケットを売るところに売ればいい値段になるだろう。
「いーえ、ありがたいですけど、私は仕事がありますので」
 理江は分かっている。店を休んで行くなんて言ったら、この先生は怒るに決まってるのに。
 理江は探し出した品物を店名印の紙袋に入れて、ぱちんとホッチキスで止めた。
「はい、先生。千百五十円になります」
「はいはい」
 理江のさばさばした物言いは前田も気に入っているのだ。微かに笑いながら、お金を差し出した。
 お釣と領収書を受け取る。領収書の宛名は「前田公昭」。但し書きは「品代」(意外と無難な性格)。
 理江は「ありがとうございました」と笑顔を向けた。
 が、いつもならすぐに背中を向ける前田が、今日はすぐに帰ろうとしない。
 「先生?」と首を傾げた。
 次の前田の台詞は、理江の予想もしていない言葉だった。
「…君は片桐と仲が良かったよね?」
 どきっ、と思いながらも、理江は平静で言い返した。
「どの片桐さんですか?」
 商売柄、沢山の人達と出会う。その中には同じ名字の人はけっこう居るものだ。
 前田は苦笑した。
「意地悪だな。片桐実也子だよ」
 片桐実也子、と。前田は口にした。
「…先生の口からその名前が出るなんて。数年ぶりですね」
「最近、連絡取ってたりするの?」
「そりゃあ友達だし、たまにはね。…どうしたんですか? あの子のこと訊いたりして」
 チャンスだ、と理江はほくそ笑んだ。前田公昭の本心は前田公昭に聞くのが一番だと、思い立ったのだ。いっそのこと上にいる実也子と対面させてしまったほうが実也子が悩んでいることもすっきりするかもしれない、と意地悪く思っていた。
 どうしたんですか、あの子のこと訊いたりして。という理江の質問に、
「いや、元気でやってるかな、とね」
 と、前田は言葉を濁した。
 理江は無理が無い程度の話題転換を試みる。
「あの子、芸能界に入ったでしょう? そのことについて先生自身はどうお考えなんです?」
 理江の質問を、意外にも冷静に前田は受け止めた。
「僕は別に…。そうだな、この世界に戻って来てくれて良かったと思ってる。あのまま消えるには、惜しい子だったよ」
 やっぱりな、と理江は思った。
 前田公昭が弟子のなかで片桐実也子を可愛がっていたのは、理江も知っている。弟子のなかで唯一の女性、という理由もあっただろうが、それ以前に、音楽に対する誠実さ、ひたむきな努力、向上心など、そういったものが、実也子は誰より長けていたから。
 本人は周囲からの期待には無頓着で、反対に、先生に対する尊敬の念や、先輩弟子への憧れなど遠慮無く口にする。そういう性格だったから、弟子仲間ともうまくやっていた。
 そんな実也子がやめて前田は残念がっただろうし、その前田が実也子が芸能界に入ったからと言って憤慨するとは、理江は思わなかった。
 実也子は塚原の言葉を、イコール前田公昭の言葉と錯覚していたようだけど。
(どうしてああ鈍いかなー)
 時として実也子は本当に鈍いところがある。
 多分それは、中学や高校での生活を通して培うべきところなのだろう。実也子は学校へは通っていたものの、学校での対人関係は無いに等しい生活を送っていたから。
 そんな青年時代を過ごしてきたことに、原因があるのかもしれない。
「実也は…、楽しくやってるみたいですよ。ほんとに」
「そうか」
「…確か、実也を初めてこの店に連れて来てくれたのは前田先生でしたね。実也はまだ十三で、私は高校生だったかな」
「ああ、そうだったな」
 理江は思い出し笑いをする。
「明るくて小さくて、飛び跳ねるように元気な子だったから、お弟子さんとは思いませんでしたよ。私、先生のお孫さんかと思いましたもん」
 前田もはにかむように笑った。
「娘、とは思ってくれないのかい?」
「あら、失礼しました」
 声をたてて二人で笑い合った。
 ふと、思い立って理江はもう一つ質問してみる。
「実也が先生のところをやめた理由、先生は知ってらっしゃるんですか?」
「ああ、知ってるよ」
 あっけない回答に、理江は驚いた。
「えっ! 実也が言ったんですか?」
「やめる時に本人から聞いた。…私としては複雑だったね」
 と、複雑な表情をして前田は言った。
 理江はふーっと息を吐いた。
「先生はどう思います? ……私は、つまらないことを悩んでるなぁって、思ったんですけど」
「僕は立場が違うから、何とも。でもベーシストで同じ悩みを持つ人は多いらしいね。勿論、それでも続けている人は沢山いるけど」
「そうですよねー」
 やめちゃうなんて馬鹿だなぁ、と当時から理江は思っている。本人は真剣に悩んでいるから強くは言えなかったが。
「でも、結局はこの世界に戻ってきたわけだから、僕としては嬉しい限りだ」
 前田はそう言って微笑んだ。理江も、口の端をもちあげて笑った。時計に目を落とした。
「──じゃ、僕はこれで帰るよ」
「あっ! 先生待って」
 引き止める。振り返った前田に、理江は照れ臭そうに言った。
「やっぱり、先生のコンサートチケット、一枚、いただけます?」

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