/BR/知巳
6/9

 noa音楽事務所では社長が禁煙家のせいか、嫌煙権を主張する厳しいルールがいくつかある。
 まず、決められた場所以外での喫煙は禁止。社長室や事務員が働くオフィス、会議室はすべて禁煙。来客を迎えるロビーでは、喫煙スペースがしっかり決められている。
 各階の片隅にある自販機など置いてある休憩室は、数少ない喫煙できる部屋の一つだった。そのため部屋の中は煙草の匂いが染み付いてしまっている。
 ところでBlue Roseのなかで喫煙家は知己と祐輔だけだ。(他、実也子以外は未成年なのだから法律的には当然といえる)新企画打ち合わせの休憩時間、知己は煙草を吸いに休憩室に来ていた。他には誰もいない。前から思っていたがこの階は活動する人口密度が特に低いようだ。
 一人で煙草の匂いがする部屋にいるのは反って落ち着く。
「…」
 ぷはーと煙を吐いた。
 知己は今朝見た夢を思い出していた。
(ヤス、…か)
 加賀見康男は死んだ。
 もう十年近く経つのだから当時ほどではないものの、込み上げてくる感慨は、やはりある。
 リズはまだライブハウスで歌っているという。キョウさんは色々なアーティストのセッションに参加しているらしい。次郎さんは他のジャズバンドで活躍していて、省吾は何とかという歌手のプロデューサーをしていると聞いた。
 恭二には一度再会したものの、他のメンバーとは解散以後会ってない。会いたくない理由はないが、会えば嫌でもヤスのことを思い出すし、ヤスの話題が出ることは明らかだ。
 軽く口にできるほど、知己の中ではまだ時間が経っていない。
「長さん」
 実也子が顔を覗かせた。
「おう、どうした」
 実也子は煙草を吸わない。でもその匂いが嫌いなわけではないらしい。
 仲間内で、圭は自分の喉のために喫煙所には近寄らないし、浩太は根っからの嫌煙家だ。この部屋に近寄ることはない。
 実也子はすぐ近くに駆け寄って、知己と同じように壁に背をかけた。
「えへへ、隣に立ちたかっただけ」
「何だそりゃ」
 たはは、と知己は苦笑する。
 咥えていた煙草を灰皿に揉み消して、もう一本、火を点けた。煙を吐くときに実也子のほうへ向けないことは注意した。
 実也子は本当に隣に立っているだけで、何も喋ろうとしなかった。
 隣に、立っているだけだった。
 知己も何も言わなかった。
 煙が漂う中、ゆっくりと時が過ぎた。
 それは息苦しい沈黙ではなく、自然で落ち着いた時間。
 煙草が短くなるまでの五分間。
(……?)
 何故だろう。その間、知己は今朝の夢の淵に、深く沈まずに済んだ。
 実也子が、そこにいるだけで。
 そのことに気付いて、知己はそっと実也子の横顔を見た。実也子はまっすぐ前を見て、ただそこに佇んでいた。
 知己自身、自分の心情を態度に出すようなことはしてない。そういうことは既に身についているからだ。
 けれどもしかしたら彼女は彼女なりに何か勘付いて、気を遣ってくれているのかもしれない。
 そう考えると胸が熱くなった。
 これだけのことで、と自分に向けて非難めいたことを言う。でも、今朝の夢は知己の想像以上に知己を陥らせる影響力があったようだ。沈みかけていた気持ちが、実也子の存在に少し軽くなった。
 実也子から顔を背けて煙を吐く。もう一本取り出そうとしたところで、実也子はガシッとその手を掴んだ。
「吸いすぎ」
 それだけ口にして、知己を睨み付ける。
「…」
 その表情が何だか可愛くて、知己は笑ってしまった。
「長さん? 何笑ってんの? 私、怒ってるんだけど」
 実也子は知っているだろうか。知己が常用している煙草は、加賀見康男が愛用していたものと同じ銘柄だということ。
「…長さん?」
「───…」
 知己は笑いをしまいこんで正面から、壁に背をかけている実也子の肩に手を置いた。
 折れそうな細い肩。それを声に出して指摘すると、実也子は枕を投げつけてきて、必ず怒る。その理由はついこの間分かった。「男の子に生まれたかった」と、彼女は言った。自分の非力さが嫌だと。
 でも。実也子が男だったら嫌だなー、と知己は苦笑する。
「え…?」
 知己は上体を屈ませて、実也子の唇に、顔を近づけた。
 がちゃり。
 ドアが開いた。
「……っ!」
 未遂のまま顔を離して、知己は実也子の後ろの壁に腕をついた。鼓動が早くなっていた。
 ドアが開かれたということは、誰か入ってきたということだ。
「……お取り込み中でしたか」
 冷静に響いた声は、知っているものだった。
「祐輔…っ」
 安心して良いやら悪いやら。知己は極度の疲労感を覚えた。でも、一番騒がれなくて済む人物ではある。
 懐にいる実也子が一歩前に出た。
「祐輔のばかーっ、せっかくいいところだったのにぃっ」
 と、拳を握り締め、恥ずかしさではなく不満を露にする。
「あのな…」
 と、知己が言ったのは祐輔の乱入ではなく、実也子の反応にだ。祐輔は思わず吹き出してしまって、くすくす笑いながら謝罪を口にした。
「それは失礼しました」
「祐輔も、煙草?」
 照れ隠しも手伝って知己は違う話題を口にした。
「いえ、言伝です。お客様ですよ、お二人に」

6/9
/BR/知巳