/BR/圭
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 例えば。

 白い森にひとり立つ。

 重力に抗えない雪が静かに降り続く。
 白い地面に跡をつけるのは堕ちた雪だけ。
 漂うことさえできない凍てついた大気は肌を刺し、焼いた。

 髪の先から、気が遠くなるような冷気が近づいてくる。

 どこまでも続く針葉樹の影。
 他には何もない。深い森の中。

 そっと肩を抱く寒冷。

 雪に埋もれゆく自分。

 そこに音は無い。
 唯一持っていた声はすべて雪に消えた。

 ───その孤独感は心地良くさえあった。
 深く青い海の中を漂うように。

 体の芯が温かい。
 その静けさは胸を熱くさせた。その熱に泣くほどに。

 ここはとても綺麗な場所だけど、目指す場所じゃない。
 行かなきゃいけない。ここにはいられない。

 ずっとこの居心地の良い場所で雪に埋もれていたかった。
 この静けさに包まれていたかった。
 でも歩きはじめなきゃいけない。この汚れ無い白い地面を、この足で踏み荒らしても。

 ───あの人の音楽は、そんな情景に引き込むちからがあった。





 意識が戻ったと自ら自覚した。
 取り戻した現実に、かすかに人影が見えた。
「───…ぁさん?」
 その人影が振り返る。「え?」
「!」
 圭は何か叫びかけて、ガバッと勢いよく上体を起こす。
 が、そのまま倒れそうになった。ぐぁんぐぁんと頭が鳴っていた。
「大丈夫? 熱下がってないから大人しく寝てて?」
 ベッド脇に駆け寄ったのは実也子だ。心配そうな顔が覗き込んでくる。
「えっ、俺、さっきなんか言った?」
「ん? よく聞こえなかったけど、なに?」
「…っ」起き抜けに呼びかけた言葉、それを思い返し一瞬で頭に熱が昇る。(よ、よかった…)
 その安堵感と引き替えにさらに熱が上がったようだ。冷たいものを食べたときのようなシャレにならない頭痛に襲われて圭はそのままベッドに横になった。
(いて〜っ!)
「圭ちゃんっ?」
 自分の部屋にいる。と、圭はその枕とシーツの感触で今更ながら気付いた。
(ラジオの仕事で…何かあったっけ?)
 頭痛のせいで圭の思考稼働率は普段の60%以下、それでもどうにかこの状況を理解した。
「…俺、どれくらい寝てた?」
「半日くらいかな。もう次の日のお昼」
「は!?」圭は大声をあげた。「仕事はっ!?」
 毛布の中でまた頭を抱えるはめになる。大声を出すと頭に響いた。「あたたたた…」
「もぉ! 大人しくしてなさい!」
「でも、スケジュール入ってただろ?」
「仕事はマネージャーさんが調整中、かのんちゃんは社長に相談しに行ってるよ」
「ごめん。自己管理能力、疑われるな」
 その声は深く落ち込んでいた。
「そんなこと考えなくていいんだよ…圭ちゃんらしいけど」
「みんなは?」
「長さんの部屋にいる。さっきまで祐輔もここにいたんだよ」
「…じゃあ、ミヤも、ここはいいからさ、みんなの所行ってろよ」
「でも、圭ちゃん病人じゃない。面倒見させてよ」
「ミヤにうつしたら仕事復帰がさらに遅れるだろ」
「…」
「ていうか、俺、人がいると寝付けないからさ。大丈夫、何かあったらちゃんと呼ぶし」
「…わかった。───けどねッ! キッチンにごはん作っておいたからちゃんと食べて、あと水分もたくさん摂って、薬はあんまり飲まないでね。汗掻いたら着替えもちゃんとすること! あとは…」
 実也子が大人しく出て行くはずもなく、その長すぎる捨て台詞を圭は苦笑しながら聞いていた。
「明日になっても熱が退かないようならお医者さんに行くからね!」
「意地でも下がらせるよ」
 ひらひらと手を振り返すと、やっと実也子は部屋を出て行った。
 そこで圭は大きな溜め息を吐く。誰もいなくなった部屋だ。遠慮はいらない。
 布団を少しだけはぐと、汗を掻いた身体に寒気が走った。ついでに痛みが頭を撃った。(あいた〜)それをやり過ごすと圭は手を伸ばし、ベッドの下の収納引き出しの中から一枚のCDを取り出す。
 圭の所有するCDは机の横のCDラックに整然と並べられているが、そのアーティストのCDだけはここに置いていた。部屋を訪れた他人に見られたくない。圭にとって特別なものだった。
 枕元のポータブルプレイヤーにそれをセットする。イヤホンを両耳につけて、プレイさせて、音量を調節して、圭は乱暴に布団をかぶりなおした。
 早く治して仕事復帰しなければならない。さらに明日までに熱を下げなければ病院に連れて行かれてしまう。
(注射嫌いなんだよな〜)
 CD一曲目の前奏が終わり歌が聴こえ始めた。
 圭はきつく目を閉じた。

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/BR/圭