キ/BR/圭
≪6/8≫
好きな音楽を見つける能力は誰にでもある。
それはこの身体という鋳型に、ピタリと当てはまる音楽と出会えたときに気付く。
まるで、鋳物の錠がカチリと音を立てて回り、扉を開けて、見たことのない向こう側の景色が広がる。そんな感覚だ。でも。
(俺はいつも、その景色を素直に見ることができなかった)
自分の鋳型に合う音楽を見つけられる人は沢山いる。
けど。
俺は、その音楽からこの鋳型を造られた。この喉も声もすべて、その音楽から造られた。
それを独占したかった。
だってそれは俺だけのものだった。
いつもそこにあり、いつもこちらを向いていた。求める必要なんてない、手を伸ばせば触れられた、抱きしめることができたから。
まるで心を見透かすようにこの身体に染み入る。悔しいときや悲しいときにその声を聴けば素直に泣けた。優しい気持ちになれた。
幼い俺の未熟な思想も稚拙な反抗もすべて受けとめてくれた。貸したゲーム機を壊されて友達と喧嘩した日も、悪態吐いて父親に殴られた後も、その声は俺の怒りを冷やし冷静に考えさせ、大好きで大切な人達と楽しく過ごしていくにはこんな時どうすればいいかをそっと示してくれていた。
たからものだった。その声に出会えてよかったと、ある夜、声を殺して泣いた。
それは俺だけのものだと思っていた。
知らなかったんだ。その声を希んでいる人が他にも大勢いるなんて。
「ね。圭くんはどっちがいいと思う?」
不安な面持ちの母が覗き込んでくる。11歳のときだった。
母の後ろで、いつもは不敵な面構えの父が難しい顔で視線を落としている。
「お母さん、ロンドンのレコード会社に誘われたの。CD出さないかって」
「……は?」
そのとき初めて、母が結婚前にマイナーな歌手だったことを知った。母が毎日のように歌っていた歌は古いレコードに収められているものだった。
「仕事を受けたら長い間向こうにいなきゃいけなくなる。でもお母さんは、お父さんや圭くんと一緒にいることも大切だし…でもまた歌いたいっていう気持ちも、正直あるんだ。ずっと悩んでたけど、まだ決めかねてるの───ねぇ、圭くんはどっちがいいと思う?」
「おい、やめろっ」
呆然としている俺と母の間を父が割って入った。
「あなた…」
父が母に、声を荒げるのを初めて聞いた。
父は母を指さして詰め寄った。
「おまえが歌いたいっていうなら俺は止めない。もし後になって圭が離れていった母親を恨んだとしたら、それはおまえの決断の結果だ。その決断を圭に押し付けて責任をなすりつけるようなマネはやめろ。圭に後悔させないでくれ。おまえはおまえの意志で、ここを出ていくんだ」
「私、そんなつもりじゃ…」
「どんなつもりでも、おまえの行動を決めるのはおまえだけだし、それに責任を取るのはおまえ自身だ。どっちを選んでも後悔する選択を圭にさせないでくれ」
「───いいよ」
「圭くん?」
母の思いも、父の気遣いも俺はよく解っていた。
どう答えればいいか、ちゃんとわかってたんだ。
「俺、母さんの歌をいろんな人に聴いてもらいたいよ? それってスゲー自慢できるじゃん?」
* * *
「はじめまして。小林圭の母で小林久利(ひさと)です」
知巳が連れてきた中年女性は浩太たちの前でゆっくりと頭を下げた。
「圭がいつもお世話になってます」
ぴたり、と。
何故かそこにいる全員───浩太、みゆき、実也子、祐輔が目を見開き、言葉を失った。
突然現れた圭の母親に驚いたからじゃない。
「…ぇ」
「わぁ…」
それぞれの反応は意味を成さないもので、浩太もまた、それに耳を奪われていた。
人の喋り声を耳にして驚いたのは初めてだった。
透きとおった、その向こう側まで見えるような透明な声。
特に高い声というわけでもないのに、両耳をすり抜けていく心地良い響きを、人間のものかと疑ってしまうような美しい声を、誰が驚かずにいられるだろう。
「…あのっ」
浩太はその声を知っていた。
「もしかして、森村久利子(くりこ)?…さん?」
「…えっ!?」
反応したのはみゆきで浩太に視線を投げる。「まさか」と口が動いたがそれは声にならなかった。
当の本人、小林久利(ひさと)はにっこり笑って、
「あら、光栄です」
と言った。その美しい声で。
「えっ、本当に? 森村久利子さんが小林くんのお母さん?」
普段は大人しいはずのみゆきが顔を赤くさせ大声をあげた。そのみゆきと同じ興奮を浩太も味わっていた。
「ど、どうして日本に? …あ、確か再来月に」
「ええ。今朝、成田に着いたんです」
「結婚してるって噂はあったけど…まさかあんなでかい子供がいたとは……───おわっ」
その浩太の肩を背後から引き寄せる腕があった。
「中野」「んだよ」
「すごいキレイな声の人だけど…有名な人なの?」
実也子が小声で聴いた。
「はっ?」どうやら知っているのは浩太とみゆきだけのようで、祐輔と知巳も実也子と同じ思いだったようだ。確かに、バンド内で鑑賞音楽ジャンルに節操が無いのは浩太とみゆき、それから希玖くらいで、他の連中は極端に偏りがある。仕方ないのかもしれない、が。
「馬鹿っ、世界中でレコード売れてる歌手だよ。名前は知らないかもしれないけど、曲は絶対、聞いたことあるって」
さらにみゆきも、
「昨日の早坂さんの番組でも紹介してたでしょ。ロンドンを拠点にしてるアーティストで、あまり表には出てこないけど今度日本でコンサートをすることになったって。チケットはこれから発売ですが一騒動あるのは必至ですよ」
浩太とみゆきの一生懸命な解説を聞いて、森村久利はクスリと笑った。
「おこがましいようですけど、よろしかったら招待させてくださいな」
「えっ」
飛びつかんばかりの浩太。しかし、
「…あ、でも、お忙しくていらっしゃるのよね」
がくっ、と項垂れた。
「あ───…、うー…、かのん、どうにかならない?」
「そればっかりは…マネージャーさんに訊いてみませんと」
みゆきも残念そうに浩太を宥める。
さらにその後ろでは、やっと事情を飲み込めた実也子がぽつりと呟いた。
「圭ちゃんのお母さん、歌手だったんだぁ」
「初耳ですね…」
「全然知らなかった」
祐輔と知巳が頷く。その会話に小林久利は顔をしかめた。それをごまかすように、
「…あー」
こめかみのあたりをぽりぽり掻くと、
「やっぱりお母さんのこと自慢するっていうのは嘘かぁ」
と苦笑した。
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キ/BR/圭