キ/BR/圭
≪7/8≫
その声から産まれたのだという確かな証だったのに、この声は急速に醜くなっていった。
変声期。生まれて初めて絶望を体験した。
『B.R.』解散直後だった。来年はもう同じようには歌えない、そう覚悟していたはずなのに、直面した現実に泣いた。
(返してくれ)
その声から産まれたのだという確かな証を失くした。二度と戻れない。
街に流れる以前の自分の声に嫉妬した。
母は昔と変わらず今も綺麗な声で歌い続けていた。
───俺もそんな風に歌いたい。
羨ましい、嫉妬、憧れ、追いつきたい、近づきたい。
物心ついた頃からすぐ傍にあった声。真似するように一緒に歌っていた。
歌が好きだった。
母の歌が好きだった。
「俺、母さんの歌をいろんな人に聴いてもらいたいよ?」
それは嘘だ。手放したくはなかった。独占していたかった。
でも後悔はしない。
立ち直るには時間が必要だった。
でも立ち直ることができると直感していた。
俺には俺の、歌う場所があったから。
声が、歌を紡ぐ。
「……」
圭はベッドの上で目を覚ました。
頭がぼーっとしている。熱もまだ下がっていないようだ。
(あんまり時間経ってないのかな)
多分、夕方だろう。気温が下がってきている。湿度も低くい。静かで穏やかな空気だった。
(───…?)
(…歌が聴こえる)
よく知っている声と歌。夢の中でも響いていた歌だ。
(そういや、寝る前にCD聴いてたっけ…)
気持ちが良いので圭はそのまま目を瞑って歌を聴いていた。
とても静かだった。
その声は確かに音なのに、無音たり得ないのに、静かだと感じた。
空気が澄んでいく。
その空気がとても懐かしかった。
(ん?)
ぱちりと見開く。
それでも歌は聞こえ続けていた。あたりまえだ、CDを流しているのだから。しかし。
(…あれ?)
耳にイヤホンの感触が無い。それに。
(この声…)
オケが無い。CDの音源とは違う、囁くような歌声。
(───)
圭を起こさないように。
(…どうしてッ)
目頭が熱くなる。
「何で、ここにいンだっ!!?」
大声を出して飛び起きた。
勿論、頭は痛かったけれど痛がる余裕は今は無い。
(どうして)
ベッドの脇で、圭の母親が椅子に座っていた。圭のポータブルプレイヤーを膝に置いて、それを聴きながら歌っていた。
久しぶりの母の姿に圭は動揺した。
そして目の前であの声が歌っているのを耳にして感動した。
しかしそこで歌は途切れた。その両耳からイヤホンを外すと、
「あれ、起きちゃった?」
と笑った。その声で。
「おはよ。圭くん」
「……母さん?」
声が震えた。その声はやはり母のものとは全然違うものだった。似てもいない。少し胸が痛んだ。
「そうよ。忘れられちゃった?」
「え…どうして? ここに…」
一瞬、名古屋の実家にいるのかと錯覚した。
でもここは東京で、圭は独り暮らしをしていて、…母はここの住所を知らなかったはずだ。
「お母さんの帰国チェックもしてくれてないの? 薄情だなぁ」わざとらしく嘆息して。「成田着いて、お父さんに帰るコールしたら、圭くんの看病してこいって」
「…だからって」
まだ頭がふらついている。母の言葉を半分も理解できなかった。
(あれ? じゃあ…)
(浩太たちは母さんと会ったのか…?)
「大丈夫? まだ熱があるの?」
母が手を伸ばしてくる。そこで圭は熱から我に返った。
「近付くなッ!」
大声を出して、全身でその手を拒絶する。
「…圭くん?」
やり場のない手を空に晒して母は戸惑いを見せた。
(…ったく)
「歌手だろ? 風邪引いてるやつに近付くなんて…」
(自覚無さすぎだ)
母の声を壊したらと思うとぞっとする。
圭は不用意に近づく母に怒りさえ覚えているのに、その母は無邪気に笑い出した。
「相変わらず厳しいなぁ圭くんは。───でもさぁ」
「なんだよ」
「病気の息子を放っておけるわけないでしょ?」
真顔で覗き込んでくる。
圭は少しだけ泣きそうになって、しばらく言葉を返せなかった。母はそのまま何も言わず、圭の反応を待っていた。
「…いつまで日本にいる?」
「コンサートの他にもいくつか仕事あるから2ヶ月くらい」
「後で時間つくるから…」
「ほんとっ?」
「だから、今日は帰れ」
わざと強い声で雰囲気を変えて、至近距離にいる母の肩を押し避けた。照れ隠しだ。
「圭くん〜」
「母さんにうつすわけにはいかないだろが!」
「そういう厳しいところ、お父さんにそっくり」
「そりゃ親子だから!」
半ばヤケになって答える。
「ふふふ。じゃあ、圭くんが帰れ帰れ言うから、今日は帰ります」
音を立てて椅子から立ち上がり、ポータブルプレイヤーを圭の枕元に戻す。
「お母さんの曲、聴いててくれてありがとね」
「げっ」圭は顔を歪ませておもいっきり口にしてしまった。
(しまった、聴かれてた)
照れ臭さが全身を襲う。「たまたまだよ」そう言い訳しても、きっと母にはバレてる。
圭はその表情を隠すため、母に背を向けてベッドに横になった。
「早く行ったら?」
「ハイハイ」
軽く笑いながら母はバッグを手に取る。「時間空けるって約束、忘れないでよ?」
「わかったから!」
今はとにかく早く出て行って欲しい。
久しぶりに会ったのだからもう少し声を聴いていたい。
そのジレンマに悩まされるが、圭は母の顔を見ることができなかった。
「あ、もうひとつ」
ドアに手をかけた母が声をあげる。
「あのね、3年前にね、ウチの日本人のスタッフが一枚のCDを持ってきたの」
思わせぶりな台詞回しだった。
「休憩中に皆で聴いたんだ。日本では今、彼らの噂で持ち切りなんだって。正体不明なバンドなんだって。ボーカルは高く澄んだ声で、男声女声の区別できない綺麗な声。伴奏とも息が合って、楽しそうに歌ってた。───とても綺麗な声だった」
圭は毛布の中で目を見開いた。
「その日の夜は眠れなかった、…本当に一睡もできなかったの」
「……。なんで?」
背を向けたまま毛布の中で呟く。
「だって、私が知る最高のライバルが出てきたんだもの」
「───…」
圭はそこで上体を起こし、振り向いて、見開いて母を見た。母は微笑んでいた。
「うかうかしてられない。立ち止まってたらあの子が追いついてくる。怠けてる姿なんか見せられるはずない。そう思ってお母さんは必死で走ってきた」
「……追いつかせてよ」
「世の中そんなに甘くない!」
手のひらを見せてつっぱねる母を見て、圭は笑いが込み上げてきた。
「ひでぇ…」
それでも緩んでしまう顔を抑えられない。「…!」
不意を突かれた。
母は踵を返し戻り、ベッドに手をかけて、圭の横顔にキスした。
「───待ってたよ」
「…ッ」
圭は意味の無い声をあげて真っ赤になる。
頬に手を当ててそっぽを向くと「…すっかりかぶれやがって」と小さく呟いた。
≪7/8≫
キ/BR/圭