キ/BR/YourSong
≪2/3≫
2
今日の主役の母親である菊枝がアルコールを断り水を頼んだとき、菊江をひそやかに呼びに来た係員がいた。とりあえず着いて来るよう言われて、周囲の雰囲気を気遣いながら菊枝はそっと席を立つ。防音も兼ねている重いドアを開け、通路に出た。新郎新婦の友人達による出し物で盛り上がっている会場内とは対照的に、通路はひっそりとしている。菊枝は騒々しい空間に少し悪酔いしていたので、係員に呼ばれたのはちょうど良かった。ここの空気はとても清々しく思えた。
通路に出て、ようやく係員は用件を口にした。
「あちらの方がお呼びでございます」
その手が示す方向へ、菊枝は目をやった。
「あらぁ!」
目を丸くする。
そこには長い廊下を背にして立つ、頬をふくらませて今にも泣き出しそうな表情の人物がいた。黒髪を肩の上で切り揃え、ピンク色のTシャツにジーンズ姿。化粧っ気もないが、23歳になる菊枝の娘だった。
「……おかーさーん」
その声も小さく震えて、爆発してしまうのをどうにか抑えているような響きがあった。
「よく来れたわねぇ」
「ひどいよー…父さんも母さんもー。私のこと仲間はずれにしてさー…。ひどいよおぉぉお」
堪えきれなくなって、とうとう泣き出した。両手で握り締めたハンカチに顔を落とす。
「やっぱり離れて暮らすなんて嫌だよー…、仕事は辞められないけど、こんなことあるんじゃ、嫌だよー」
「文句はあの子に言ってよ」
「お母さんも同罪だよ、私、すごく、傷ついたっ」
「後で謝るから、早く準備しなさい。───出たいんでしょ?」
「私、すごく怒ってるよ? あの馬鹿、殴ってもいい?」
「明日の結婚式が終わってからにしてちょうだい。婚礼写真で新郎の顔に痣があるなんて母さん嫌だわ。一生残るのに」
菊枝が真顔でそう答えると、娘のさらに後ろで誰かが吹き出した。
「さすが親子ですね」
「ここン家って、かあちゃんも面白いのな」
いくつかの笑い声が重なった。菊枝はもう一度、目を丸くした。
「まぁ! みなさんも、いらっしゃってたの?」
* * *
「こんにちは! 新郎の片桐俊哉の姉で、片桐実也子といいます」
な…っ! と、彼は叫びかけた。いや、実際、叫んでいた。立ち上がりかけて、椅子が派手な音を立てた。しかしそれに気を止めたのは私だけだった。何故なら、彼と同様、皆、雛壇の上のひとりの女性に注目していたからだ。
「なんで来てるんだ…」
彼は呟いた。目を見開き、驚いている。そんな彼を横に、私は冷静に彼女を見ていた。
雛壇の上、マイクの前に単身たたずむ彼女は、多くの視線に見つめられ少し緊張しているようだった。
「あの…、突然ごめんなさい。ここに立たせてくれて、ありがとうございます」
ちょこん、と頭を下げる。
ピンク色のTシャツにジーンズ。招待客でないことは一目瞭然で、今まで会場内にいなかった新郎の姉の登場に会場の客たちは「何やらおもしろそう」と雛壇のほうへ目をやった。
「私は、…えーと、音楽をやってるんですけど、十年くらいひとすじの楽器があります」
息を吸う。
「弟の結婚式で演奏する!っていうのが、───ずっと前から…本当に昔から、ずっと、夢だったんです…」
段々と声が震えて、小さくなって、顔を両手で隠しうつむいてしまった。
「だから…」息を吸う。
「俊哉ッ! 一生、恨むからねっ」
言葉は強かったけれど、声は震えていた。マイクを通して、微かに嗚咽が聞こえた。会場が静まり、彼女の呼吸だけが聞こえる。
私の隣では彼がどうにか動揺を抑え、椅子に座り直していた。
「…相変わらず、泣き虫なんだから」
「泣くよ。そりゃあ」
私は声だけで返す。彼が顔を向けたのがわかったけど、それには合わせなかった。まっすぐ、前を見ていた。
このあたりで、会場のあちこちからひそひそ話が聞こえてきた。ある者は不審そうに、ある者は興奮して。
「あれ…、Blue
Roseのミヤコじゃない?」
Blue
Roseとは、デビュー一年ほどの五人組のバンドの名前だ。テレビやラジオで彼らの曲を聴かない日はないくらいの人気バンドである。芸能人が何故、こんな地方の一個人の結婚披露宴に来ているのかという思いだろう。数人がざわめき始める。
「私は東京で仕事をしてるんですけど、忙しいだろうからって、気を遣ってくれたみたいで…。弟のヤツは、今日のこと全然教えてくれなかったんです。もう少しで私の夢が潰れるところだったわけだから、…恨まれるくらいは覚悟してるよねぇ、俊くん」
今度は会場中の視線が彼に集まった。
彼女もこちらを見ていた。ただ、見ているのは彼じゃない。私だった。彼女は目に涙を溜めた顔で笑うと、マイクに向かって言った。
「だから今朝、連絡をくれた花嫁さんには、一生、感謝します」
≪2/3≫
キ/BR/YourSong