/BR/Lの歌
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1.

 叔母さんのことは、もうよく覚えてない。
 どんな顔でどんな声だったか、もう思い出せない。
 叔母さんの息子───私の従弟───とは、今でもたまに会うけど、叔母さんとはもう何年も会ってないから。

* * *

 叔母さん───ひーちゃんを思い出そうとすると、彼女は必ず唄っている。きれいな声で囁くように、息をするように唄う。料理をしながら、公園で遊びながら、お風呂に入りながら。私と従弟が眠る布団の傍らで、子守歌を唄う。
 そしてまるでそれが遺伝したかのように、従弟もよく唄っていた。喋るより唄うほうが多いくらいに。
「ひーちゃんたちって、いっつも唄ってるよね」
 幼い私がそう言うと、ひーちゃんは微笑んだ。
「おばさんがあの子に教えられるのはこれだけなの」
「うまく唄えるべんきょう?」
「ちがうちがう。そんな大変なこと、教えられないよ」
「じゃあ、なぁに?」
「いろんな歌がいっぱいあるってこと。それらを唄うのは楽しいってことを、おばさんはけーちゃんに知ってもらいたいの。こーちゃんも一緒に唄う?」
「うたうー」
 ひーちゃんが教えてくれた歌のいくつかは、今も時折、喉から込み上げる。彼女がいるのはいつも、優しい思い出のなかだった。




 ここだけの話、従弟───けーちゃんは泣き虫だった。幼稚園でもいじめられていたようで、よく泣かされて帰ってきた。
「けーちゃん、また泣いてるの?」
 幼少時の3歳差は大きい。一人っ子の私は、この年下の従弟に姉貴風を吹かせたものだ。
「こーちゃん」
「まったくもー。男の子はそんな泣くもんじゃないって、おじさんも言ってたでしょ!」
 ぽかり、と頭を叩くとけーちゃんはびっくりするほど大声で泣き出した。小さい体で、声だけはでかいんだ、この子は。
 手をつなぎ家に連れて帰ると最初に出迎えたのはおじさんだった。大声で泣き続けているけーちゃんの脳天にガン、と拳を振り下ろす。
「うるさい」
 と、その一言でけーちゃんを黙らせた。
「…」
 声を詰まらせてけーちゃんは泣きやんだ。───この父子はどこかおかしい。けーちゃんは泣き虫だけど、おじさんの力技には絶対に泣かなかった。
「そりゃ、ウチの息子だもん。赤ん坊の頃から躾てるんだよ」
 とは、おじさんの言。
「おじさんは元々、静かなのが好きなの。音楽以外の騒音は許せないタチなんだ」
「おじさんもお歌、唄うの?」
「いーや。おじさんは聴く専門。あいつらとは違う」
「あいつらって?」
「ひーちゃんとけーちゃんのことさ」
 と、子供の私を諭すように笑った。



 うちの本家は東京にある。本家、などと言っても、特別堅っくるしい家柄というわけでなく、単に家系図を上へ辿っていくと生存している人間で一番上は私のおじいちゃんになり、そのおじいちゃんが東京に住んでいるというだけの話。
 私の父はおじいちゃんの3番目の子供で、けーちゃんのおじさんが4番目の子供。
 けーちゃんのおじさんは結婚して、奥さん(ひーちゃん)の実家の稼業を継ぐために地方都市へ引っ越したんだって。そこでけーちゃんは生まれた。
 一方、私の父は仕事の特質上、引っ越しが多くて、一時けーちゃんと同じ町に住んでいた。あの家族との思いでのほとんどはそのときのもの。
 ───幼心に不満だったのは、うちの親戚筋はひーちゃんのことをあまり良く思ってないことだった。
「あんな芸人崩れと結婚しおって」
「4男があんなミーハーだとは思わなかったな。…賭けてもいい、すぐに離婚する」
 と、けーちゃんのおじさんを責める声がある。意味が解らなかったがひーちゃんの悪口を言っていることは判った。



 ある年の七夕の夜、私はいつもみたいに、けーちゃん家に遊びに行った。
「ひーちゃん、けーちゃん、おじさーん!」
 走って飛び込んでいくと、出迎えてくれたのはおじさんだった。
「いらっしゃい、こーちゃん」
「ひーちゃんは?」
「奥にいるよ、行っておいで」
「うん!」
 靴を脱いで玄関をあがり、音を立てて廊下を走り抜ける。
 居間は照明が消えていた。さらに奥のキッチンのあかりが部屋の中を照らしている。「ひーちゃ…」
 私は何故か声を抑え、足を止めた。
 2人はベランダにつながる窓枠に並んで座っていた。
 ひーちゃんはささやかな笹の枝を持っていて、それを空にそよがせている。枝には折り紙で作った飾りと短冊がぶらさがっていた。───そして唄う。
 2つ並んだ大小の背中がこちらを向いていた。ベランダの手摺りの向こうには街のあかりが僅かに漏れて見えるだけで、2人の向こう側は夜が広がっている。キッチンの照明で2人の影ができて、ベランダに伸びていた。その、鮮やかな明暗。
 ひーちゃんとけーちゃんは唄っていた。夜ということで気を遣っているのだろう、小さな声で、囁くように。顔を寄せ合い、まるで会話をするように唄う。
 時折笑い合う、交互に唄う。それがとても自然に見えて、本当に歌だけで2人は会話しているようだった。
 なんとなく、私は足をとめてしまった。
 その様子がとても神聖なことのように思えて、2人の空気を壊すことがとてもいけないことのような気がして、声をかけられなかった。
 振り返ると、おじさんはキッチンのテーブルでお酒を飲みながら2人の歌を聴いていた。2人の背中を、ひとり眺めていた。
「…ッ」
 途端に胸が辛くなる。
 意味も解らず愕然とした。
 そのときの気持ちを何て言おう。ひーちゃんに抱きつきたいのに、それはいけないことのように思えた。一緒に唄いたいのに、その空気を壊すことが怖かった。
 おじさんはひーちゃんとけーちゃんを眺め静かに微笑う。───私はその気持ちがとてもよくわかった。わかってしまった。
 回れ右しておじさんの隣の椅子に腰掛ける。するとおじさんは不思議そうに声をかけてきた。
「どうした、こーちゃん。まざってきたら?」
 声にはせずに頭を振る。泣き出しそうな表情に気付いたのだろう、おじさんは優しい声をかけた。
「じゃあ、おじさんと晩酌する?」
「する」
 短い返事に軽く笑って、冷蔵庫からジュースを出してくれた。
「…おじさん」
「ん?」
「こーこ、ひーちゃんとけーちゃんのうた聴くの好き」
 好きなものは好きと簡単に口にしてしまえる程、私は子供だった。言わずにいられなかった、おじさんも好きでしょう? 同意を求めたかったのだ。
 ぽん、と、おじさんはけーちゃんをよく叩く手で私の頭を優しく撫でた。
「おじさんはこーちゃんの歌も好きだな」
 そんなことが聞きたいんじゃない。おじさんは私の言いたいことが解っているはずなのに。
「こーちゃんはまだ自由に唄ってな。おじさんだけじゃない、ひーちゃんもけーちゃんも、みんな、こーちゃんの歌が好きだよ」

* * *

 従弟が泣かなくなったのはいつからだろう。
 私が東京のおじいちゃん家に引っ越した後だったから、はっきりとした時期は判らない。
 ただ同じ頃、叔母さんがあの家を出たという話を聞いた。叔母さんを疎んでいた親戚筋はそれみたことかと嘲笑う。
 2人の歌はもう聴けないのだろうか。
 それはとても悲しいことだった。

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