キ/BR/Lの歌
≪3/6≫
2.
「よー、香子(こうこ)、ひさしぶり。じーちゃんいる?」
夏休み初日に玄関を開け放つなり、靴を脱ぎ廊下を走る姿があった。
「圭! あんた、中学受験するって話じゃん。遊んでていいの?」
「俺のことより自分の心配したら? 高校受験」
減らず口を叩く従弟に昔の可愛らしい面影はもう残ってない。幼い頃はよく泣いて、私の後を着いて歩いていたくせにさ。
圭は夏休みになると私の家(つまりおじいちゃんの家)に遊びに来る。おじいちゃんは圭を気に入っていたし、圭もおじいちゃんのことを好きなようだった。近所の子ともすぐに仲良くなって夜遅くまで帰らないことが多かった。
よく笑い、よく喋る。口が達者でなまいきも利くけど、それが微笑ましくもある。
「男の子はいいわねぇ」
私の両親もそんな明るい性格の圭が来ることを楽しみにしているようだった。……でも私は。
「香子、宿題教えろ!」
「それが人にモノを頼む態度か、コラ」
「教えてください」
「高いよ」
「おまえ、身内から金取るのかよ」
「お金じゃない」
「なんだよ」
「なんか唄って」
「確かに、高いな」
頓着無さそうに笑う。
───何故か、このときの私はむちゃくちゃ機嫌が悪かった。
「圭、ひーちゃん、どこに行っちゃったの?」
ひーちゃんは家を出たっていう。どこに行ったかは教えてもらえない。両親は知らないと言う。圭のおじさんと圭だけが、ひーちゃんの行方を知っている。
圭がその話題に触れて欲しくないことは解っていた。だからうちの親もおじいちゃんも私も、圭の前でひーちゃんの名前は出さないよう結託していた。それでも私がそれを口にしたのは、圭の明るさが鬱陶しかったからだ。
「なんだよ、急に」
「平然としてないで! むかつくから!」
「なに、怒ってんだぁ?」
「───私、…ひーちゃんと圭の歌が聴きたい」
そう言うと、圭はやっと笑うのをやめた。挑むように睨みつけると、圭は目を逸らした。
圭は明るくなったって皆言う。でも私はそうは思わない。
圭は泣かなくなった。そして唄わなくなった。一緒に唄う人がいなくなったからだ。
「それは無理」
「無理とか言うな!」
「…おまえ、無茶苦茶言ってるって判ってるか? いない人間と、どーやって唄えっていうんだ」
「圭はひーちゃんと唄いたいって思わないの?」
「…」
圭は喉を詰まらせた。勝った、と私は思った。
(ほら、やっぱり)
(あんたが望まないからだ)
(願っていながら、何もしないからだ)
圭が望めば、ひーちゃんはきっと帰ってくる。どんな理由があっても、例え一時期でも、きっと戻ってきてくれる。それなのに圭は何もしない。ひーちゃんがいないのは、圭のせいだ。
「ひーちゃん…帰ってこないの?」
「簡単には帰って来れないだろうな。自分から出て行ったんだから」
「ひどい言い方」
「ひどくないだろ、別に。…母さん、こっちにも顔を出しにくいけど、自分ちも敷居が高いんだぜ。親父に稼業を継がせておいて自分は出て行くなんて、ってあっちのじーちゃんとばーちゃんも親父に頭を下げる始末でさ、今更、どのツラ下げて───」
「圭はひーちゃんがいなくて淋しくないのッ?」
その瞬間、圭の表情が揺れた。(あ───…)
「…ごめんっ」謝ったのは私のほう。
「ごめん、…ごめんねっ」
手で表情を隠す圭の腕を掴んで、必至に謝罪した。自分の酷い物言いに気付いたから。
「いいって」
こちらに向けた顔は苦笑していた。その表情に、今度は私が傷ついた。
(どうしてこの子は)
(我が侭を言わないんだろう)
しばらくして、圭はぽつりと口にした。
「俺は唄うことをやめてないよ。やめるつもりもない」
「…でも、ずっと聴いてない」
「そりゃ、これだけ離れて暮らしてるんだし、それに子供の頃みたいに毎日唄ってるわけにもいかないだろ」
と、苦い笑みを見せる。
(そういう、ものなのかな)
ひーちゃんと圭はいつでもどこでも、いつまでも、唄っているように思えた。それが彼らの一部なのだと、幼い私は思っていた。
「ひーちゃん、…どこにいるの」
「遠く」
短く、呟いた。
そのあと、圭は小さく唄ってくれた。それは幼い頃よく聴いた歌で、圭の声も変わらずきれいだった。ただひーちゃんの声がここには無い。───そのことがやっぱり、少し悲しかった。
翌年、恒例通り夏休みに遊びに来た圭が言った。
「俺、一週間ほど知り合いのところに泊まってくる!」
「は?」
そのまま支度を始めた圭だが、圭を預かっている立場として簡単に受け入れられることではない。
「ちょっと待ちなさい! 誰のところ? 友達? 遊ぶだけなら泊まらなくてもいいでしょ?」
「心配いらない。できれば親父には言わないで。俺のケータイはいつでも出られるようにしておくけど、できれば連絡しないで欲しい。…あ、香子、帰ってきたら宿題よろしく」
「圭ったら!」
結局、肝心のおじいちゃんがそれを許したので圭は悠々と出て行ってしまった。
それから3年間、圭は夏休みになると遊びにきて、そのうちの一週間はどこかへ消えてしまうという妙な習慣ができてしまった。
「ねぇ圭、森村久利子って知ってる?」
宿題中の圭は手を止めて、顔を上げた。
「は? …ああ、歌手だろ」
「そう! 私、最近、知ったんだけど、むちゃくちゃハマった、泣いちゃった」
お気に入りの歌手を圭も知っていたことが嬉しくて、私ははしゃぐ。
森村久利子はロンドンを拠点に世界的に活躍する日本人歌手。派手な活動ではないので知る人ぞ知る歌手だが、彼女をよく知らない人でも歌は耳にしたことがあるはずだ。
「すごく、きれいだよね。世界が。音楽にこんな感想抱いたの初めて」
「…」
───何故かそのときの、圭のはにかむような笑顔を今でも覚えている。
「俺も好きだよ、森村久利子」
「へ〜え、珍しいじゃん」
本当に珍しいことだ。圭に好きな歌手を尋ねると「堀外タカオと山村シンジ」という世代を疑いたくなる答えが返えるのが常だし、そのときの圭はJ−POPやロックにはまっていて、森村久利子みたいなジャンルを聴いているとは到底思えなかったから。
「森村久利子が昔、日本の芸能界にいたって知ってる?」
「えっ、うそ、知らない。どのくらい前?」
「15年前」
「圭が生まれる前じゃん」
「そう。レコード漁ると結構出てくるよ」
「ふ〜ん、相変わらず、古い曲をよく知ってる」
「香子こそ珍しいじゃん。今まで聴いてたジャンルとはかなり違くね?」
「もうね、ひとミミ惚れ。聴いた途端、ぴしっとハマった。カレシにも言われた、珍しーって」
「香子のカレシはどんなん聴いてんの?」
「今はB.R.に大ハマり中」
そこでまた、圭は声を抑えて笑った。
B.R.(ビーアール)というのは、最近話題になっている正体不明のロックバンドである。
「そいつ、B.R.のボーカルは女だって思いこんでるんだけどさ、私は男の子だと思うんだよね。声変わり前ならあれくらいの声でもおかしくないじゃん?」
「俺も男だと思ってたな。歌詞の一人称が“僕”だし」
「私もそう言ったらね? “それは作詞作曲のKanonが男だからだ”って論破されちゃった。まぁ、正解を知ることはできないんだけどさ」
「だな」
と、何故かそこでも圭は声を噛み殺すように笑っていた。
───まぁ、そんなこんなで圭が中学3年の冬、いろいろあって、いろいろバレた。そのとき、圭は少し遠い存在になってしまったけど、今でもたまに私たちは顔を合わせている。
ただ、圭は今も、ひーちゃんのことを教えてはくれない。
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キ/BR/Lの歌