キ/BR/PRE
≪2/9≫
東京都**区─────。
「理江さん!
久しぶりぃ」
七月二十日、ランチタイムのカフェで再会した旧友に手を振ったのは十九歳の片桐実也子だった。
待ち合わせ場所を指定したのは実也子のほう。ここは七十年代風の昔気質の店。マニア的なファンも多く、十八時以降にはバーになる為幅広い年齢層が入り交じる場所だった。
店の名前は「PREDAWN」といった。
「やあ、実也。半年ぶりだっけ」
木田理江は二十二歳。数年前都内で出会ってからは、気が向いては相手を呼び出してお茶する間柄だ。実也子とは年が離れているが気兼ねなく話ができる友人であり、姉のような存在でもある。
焦茶色のパンツスーツと、背中までのびる黒髪。その髪をかきあげる指先と、煙草をくわえる唇だけは赤くて艶やかさをかもし出していた。実也子が「かっこいーっ」と騒いでしまうのも無理はない。
「元気でやってる?
あれ?
君ってまだ高校生?」
理江はアイスコーヒーを飲んで一息つくと実也子に尋ねた。
「ううん。この春、めでたく卒業したんだよー。誕生日もきてもう十九歳。大人になったでしょ?」
指を組んで科をつくり、ウィンクして見せた。そんな実也子を冷めた目で見て理江は呟く。
「そのわりには、ぜんっぜん、色気ないね」
「ガーンッ。ひどいよ、それー」
実也子はたははは、と苦笑する。
それに合わせて、理江も目を細めて笑った。実也子の変わらぬ様子を確認して、安心して笑った。
「…おしゃれする暇もないか。忙しいもんね。毎週毎週、週末には東京に通ってさ」
「……」
理江の言葉に実也子の表情が曇った。気付かずに理江は話を続ける。
「それとも、高校卒業したんならもうこっちに居るの?
センセイのところに住んでるとか?」
「理江さん…」
「君がこっちに通い始めたのって、十三のときだっけ?
六年間も、ご苦労だね、ほんと。でもやっと音楽だけに打ち込む生活が始まるってことかな?」
理江の手が無意識に煙草へのび、赤い唇から白い煙が吐かれた。
実也子のことを語る口調には激励と期待が含まれていて、そのことが余計に実也子の胸を痛くした。
「ごめん、理江さん。…私、やめたの」
さりげなく言おうとしたつもりなのだろうが、その表情には痛々しさが残ってしまった。
「……?」
「やめたの。先生のところ」
目を見開いて見据える理江に、実也子は苦笑してみせた。理江は、信じられない、と口の形だけで呟いた。
「なにそれ」
聞いてないわよっ、と吐き捨てる。
「あのセンセイ、君を破門させたのっ?
それとも他の七人が何か画策したとか?」
「違うよ。私から、やめるって言ったの」
「信じらんない」
「ホントだってば」
「それ、いつのこと?」
「二ヶ月前。五月。…だからもう、こっちにもあんまり来てないの。今回は理江さんに会う為に早起きして電車に乗ったんだよ」
知らせるのが遅くなってゴメンね、と実也子は頭を下げた。
そう言われると理江としては深くつっこめない。想像以上に動揺している自分を抑え付けるために深呼吸をして、椅子に背をかけた。
「…今は何してるの?」
「来年、地元の大学を受験しようと思ってる。現在受験浪人中。あと稼業の手伝い。…今まで全然そんなことできなかったから、散々わがまま言って困らせてきたから恩返しも含めて。両親とか、弟とか、最近会話する機会が増えてさ、楽しいよ」
やはり痛々しさが残る表情だけど、でも、家族のことを話す実也子の笑顔はどこか吹っ切れたようにも見えた。
新しい幸せな時間を見つけた、自然に込み上げる微笑みは嘘ではない。
はーっ、と思い切り溜め息をついた後、右手を大きく広げ、その手で顔を隠し、理恵はくすくすと笑い出した。
「あんた、今までセンセイのところで音楽一筋だったもんねー」
(…二ヶ月前のことじゃ、まだ聞き出すのは無理か)
六年間続けてきたことを自らやめたというのだ。しかも半年前に会った実也子は不動の意志を持った瞳で、将来を語っていたにもかかわらず。この半年の間に、何が実也子を変えさせたのか。
「…でも、さ。実也。楽器は続けていくんでしょ?」
理江の言葉に実也子は軽く吹き出した。
「それがね、笑っちゃったよ、私。先生の所、飛び出したときは"もうやめる"とか言ってたのに一週間後にはもう弓を握ってた。日課って怖いねぇ」
「あははっ、なんだそりゃ」
二人は一緒になって笑った。が。
「─────…」
ふいに、実也子は顔をあげた。意識の先はすでに理江との会話ではなく、別のことに向けられていた。
「実也?」
「……」
実也子は店内に視線を巡らせて、自分が何に気を止めたのかを確認する。
「理江さん」
無意識に呟く。多分、理江の返答など期待していないだろう。
それでも、尋ねてしまう。
どうして自分が、こんなにもこれを気にかけているかさえも知らずに。
「……この曲、何?」
≪2/9≫
キ/BR/PRE