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 東京都**区─────。

「噂になってますよ。慎也が美人と付き合ってるって」
 夏休み初日、コーヒーカップを片手にわざとさり気なく言ったのは二十一歳の山田裕輔だった。
 向かいに座る日阪慎也は二十六歳。二人は某市にある音大生で同級生である。祐輔の地元は神奈川で、明日帰省予定なので顔の見納めとばかりに悪友同士グラスを傾けていたのだ。
「……………発信源は?」
 かなりの沈黙の後(追いつめる為に祐輔は何も言わなかった)、慎也はトーンの低い声で尋ねた。答えは分かっていたが言わずにはいられなかった。
「もちろん、沙耶です」
「あの女…」
 祐輔の回答の後、恨みがましく慎也が吐いた“あの女”とは、祐輔の彼女であり、そして慎也の妹でもあった。
 沙耶も祐輔と学科は違うものの大学の同期である。そして前述した通り祐輔と慎也は同級生である。ということはつまり慎也は五歳離れた妹と同級生だということであり、それは少なからず慎也の悩みの種でもあった。
「ロリコン疑惑が晴れて一安心、とも言ってました」
「何であいつが安心するんだよ」
「いつ犯罪をおかすか、気が気じゃなかったんじゃないですか?」
「あのなぁっ!」
 ばんっ、とテーブルを叩いて凄んで見せても、通用させるには相手は慎也の弱みを知り過ぎていた。
「……言っとくけどなぁ、あの子は当時七歳だったけど、計算すれば現在二十三歳っ。おまえらより年上なんだぞ? 誰がロリコンだっ」
 ロリコン疑惑とは。
 慎也の部屋の一画には、十六年前、『天才』と騒がれたピアニストのスクラップ記事が無数、壁に貼ってある。その天才ピアニストとはわずか七歳の少女だ。慎也は十三歳のとき同じコンクールに出場したことがあり、そのときの少女の演奏にかなりのショックを受けたという。
 しかしそのコンクールを境に、少女は音楽界から消えた。
 そのときからずっと、慎也はその少女を探し続けているのだ。
 十六年もの執着に、ロリコンというレッテルを貼られても不思議じゃない。
「で。その美人と付き合い始めて、女の子のことは吹っ切れた、と?」
 次のからかいネタを捕まれたわけだ。
「言っとくけど、付き合ってるわけじゃねーぞ。別に」
「……へーえ」
 にやり、と祐輔が笑うのを見て、ようやく慎也は墓穴を掘ったことに気付いた。片思いネタはさらに遊ばれやすいものだ。
「それよりっ! おまえ、明日っから帰省すんだろ? 休み中に沙耶に変な虫ついても知らねーぞ」
 見え見えではあるが強引に話を逸らそうとした慎也。しかし祐輔は真正面にその台詞を受け止め、
「ご心配なく」
 寸分の揺るぎもない声色で言った。慎也は返す言葉がなかった。
 友人と妹が恋人同士、というのも複雑な心境ではあるのだ。しかもその二人が最強のコンビであるものだから慎也の立場は例え年長者であっても危ういものと言える。
 妹は大人しい部類に入る性格だが気が弱いとは言えない。口数が少なく何を考えているのか分からないところがある。一方、祐輔は見ての通り意地と性格が悪く、不特定多数と付き合う人間ではないが不思議と周囲から信頼されているふしがあった。
 変わり者である二人を引き合わせたのは慎也自身だが、最強コンビをつくらせてしまったことに後悔することもあるのだ。

「そーいや、進路希望調査あったじゃん? 祐輔、何て書いた?」
「"ぴあの教室のせんせい"」
 棒読みで即答された。
「本気なのか?」
 慎也は声を荒げた。否定的な声だった。
 「ピアノ教室の先生」が悪いわけじゃない。立派な職業だ。ただ、山田祐輔は学部内にその名が知れ渡っている程の腕の持ち主で、今秋選考会が行われるDAAD(ドイツ学術交流会)の給費留学生の候補に挙がっている一人でもある。
 惜しい、と思ってしまうのは自分の思考が俗っぽいからだろうか。
 慎也の言いたいことはわかっているようで、祐輔は苦笑した。
「気の乗らないことって、長くは続かないでしょう?」
「まさか、沙耶と離れるのが嫌で留学したくない、なんて言うなよ」
 かなり冗談で言ったつもりだが祐輔は肯定した。
「それもありますけど、何より"演奏家"として食べていくつもりがないだけです。…もっとも、僕が興味を持つくらい楽しませてくれる環境だったら話は別ですが」
「でもなぁ…」
「…」
 ふと、祐輔の表情が変わる。何かに気を取られたようだった。目を見開いて、心なしか首をもたげた。
「祐輔?」
「シっ!」
 黙るように右手で指示される。祐輔らしくないその勢いに慎也は沈黙を決め込み、祐輔の次の言葉を待った。
 たっぷり三十秒後。
「……この曲」
「え?」
「今、流れてる曲。有線…? …いや、違います、よね」
 どうやら祐輔は店内のBGMに気を止めたらしい。慎也はあまり気にしていなかったが、かなり小さい音で曲が流れていた。この時間は込み入り時で、人の喧燥のほうがうるさく聞えるのだ。
 祐輔はその曲を聴いて、何やら考え込んでいた。

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