キ/BR/PRE
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都内某所。八月一日、午前九時四五分─────。
長壁知己は指定された建物の前に立っていた。
「PREDAWN」の店長に貰ったメモと見比べ、間違いないことを確認する。
(「noa音楽企画事務所」……?)
一応、元業界人の知己としては、知らないはずが無い名前だ。
何故、こんな所に呼び出されなければならないのだろう。不審に思うのは当然だった。
ガラスの自動ドアをくぐると、そこそこに広いロビーが広がっていた。右手には受付があり、知己はとりあえずそこへ向かうことにする。
(…あれ)
受付には先客が居た。後ろ姿で女性とわかる。多分十代だろう。そして何より目を引いたのは、隣の大きな楽器。
(弦バス?)
弦楽器特有の形、茶色のソフトカバー、そしてあの大きさ。
知己にとって馴染みが無いわけではない楽器が置かれていた。多分、その女性のものだろう。それにしても、あの楽器は長さ一八〇cm以上あるのに、身長一五五cm程度の人間、しかも女性が扱うには大変な楽器だと思うのだが。
とりあえず知己はその女性の後ろに並んだ。受付で交わされる会話が耳に入ってきた。
「すみません。コレ、見せれば通していただけるとうかがったのですけど」
(!)
女性が受付に差し出したものは、知己が現在右手に持っているものと、全く同一のものだった。
「はい、三階の三四会議室です。エレベーターでどうぞ」
丁寧な受付嬢の対応に彼女は頭を下げた。それから、よいしょ、と楽器を肩に抱える。やはりかなり大変そうだが、楽器の扱いには慣れているように見えた。
「…おい」
知己は思わず声をかけていた。
「え?」
振り返った彼女は、化粧っ気はなく活発そうな雰囲気を持っていた。突然呼びかけた知己に対する不信感は無い。知己は自分が持ち込んだメモを見せた。
「持とうか?
行き先は同じらしいから」
彼女はメモを見て少し驚いた表情を見せる。次に目的が同じだと分かると、知己と目を合わせて人懐っこい笑顔を見せた。
「ありがとう。でも遠慮します」
はっきり断わられたわけだ。そのことに知己は少々意外に感じた。彼女の表情には変わらず不信感はない。遠慮されているわけでもなさそうだ。知己には断わられた理由が分からなかった。
「重いだろ?
…」
「うん。でも、自分で扱えない楽器を相棒に選ぶなって、先生の教えだから」
何故だか嬉しそうに微笑んで言う。
彼女の発言を逆に言い換えるなら、相棒に選んだ楽器は自分で扱えなければならない、ということになる。でもそれは、知己の手助けを断わる理由にはならない。
…しかし彼女には、もしかしたら彼女なりの戒めがあるのかもしれない。
知己はちょっと言葉に悩んで、
「へえ。厳しくて、いい先生みたいだな」
と、言った。それに対し彼女は過敏な反応を示した。
「でしょ?
でしょ?
私もそう思う。……尊敬してる、自慢の先生なの」
まるで自分のことのように、口元をほころばせて嬉しそうに微笑む。知己もその笑顔につられて笑った。
二人はエレベーターホールまで来ると、一度立ち止まった。
ポーンという音と共に一つのボックスが開き、背広を着た中年男性が数人降りてきたところだった。いかにも会議が終わった後、というような風景である。あまり自分の周囲では見慣れない光景に知己と女性は顔を合わせて小さく笑い合った。
人間が降りきって無人になったエレベーターのドアを知己は素早く抑え、彼女に早く乗るよう動作で示した。重い楽器を運びながらもエレベーターにたどり着き、知己も中に入って扉は閉められ、そのまま「3」のボタンを押した。
「ありがと。私、片桐実也子」
一息ついて改めて自己紹介。
「長壁知己」
片桐実也子は自分が十九歳であることを述べた。知己はその年代の女性と会話する機会など全くないが、実也子の人柄はそれを感じさせない。もしかしたら実也子のほうが、知己くらいの年代と話をすることに慣れているのかもしれなかった。
「おさかべ…、って、長い壁って書くほう?」
「ああ」
実也子は、むー、と少しの間考え込むと、知己を仰いで真面目な顔で言った。
「じゃあ、”長さん”、かな」
どうやら呼び方を検討していたようだ。そして決定されたらしい。
「…何でそーなるんだよ」
命名された初めてのあだ名に、知己はくすくすと笑い出した。
「まあまあ、気にしない、気にしない」
一方、実也子は長さん長さんと繰り返し呟いている。慣らしているようだ。
「あ、ねぇ。もしかしてそっちもPREDAWNで引っかかったクチ?
作曲家一人の名前尋ねただけなのに、楽器持ってこいって。何なのかな? 一体。…あれ?
でも持ってないね」
「ああ。俺がそこそこに経験ある楽器って、ドラムスだから。さすがに持ち歩きはできないだろ?」
「あはは。それはそうだねー」
チン。エレベーターは三階にたどり着いた。
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