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 事務所の建物内に入ると、司の持つ杖に仕事はなくなる。馴れた場所では、彼は危なげなく、感覚だけでその足を進めることができた。これはかなり特異なことのはずだ。最初はハラハラ見守っていた健太郎だが、今ではごく当たり前のこととして受けとめていた。
 そして階段を昇り、「A.co.」と書かれた事務所のドアを、健太郎が開けようとした、その時のことだった。
「だからあんたのこと嫌いだっていうのよっ!!」
(・・・・・っ)
 突然、耳に穴を開けそうな声が聞こえた。健太郎は驚いて、一度掴んだノブを反射的に離す。
「今の声・・・」
 ドアの内側からだった。健太郎は司を振り返る。司は何もかもわかっている様子で肩をすくめた。またか、とでも言うように苦笑している。
(・・・)
 健太郎も声の主はわかっていた。が、内心驚きが勝る。こういうことは、初めてではないのだけれど。
 確認するかのように、誰に宛てたでもない疑問を、健太郎は呟いた。
「祥子・・・・・?」
 その疑問に答える代わりに、司の手が健太郎の腕を引いた。そのせいでバランスを崩し、後ろによろける。一歩退いて、体勢を整えた時。
 バタン!
 危うくドアと壁にサンドイッチされるところだった。この時初めて、健太郎は司の行動の意味を知る。司は近付く足音を聴き、彼女の性格からこういう結果になると判断し、健太郎を退がらせたのだ。,
 激しい音をたてて開かれたドアは、力余って壁を叩き、反動でもう一度閉まった。
 そしてそこには想像通りの人物が立っていた。三高祥子である。その表情は形容しがたい怒りをたたえていた。
「・・・・」
 祥子は司と健太郎を一瞥する。その視線だけで、健太郎は思わず道を開けてしまった。その健太郎の横を、祥子が無言で通り過ぎた時。
「祥子、外に出るなら上着を持っていったほうがいいよ」
 げっ、と健太郎は思ったがもう遅い。司の何気ない一言は祥子の神経を逆撫でする。寒いからと気をきかせるのはわかるが、この場合逆効果だと、司は気付かないのだろうか。
(もしわざとなら、それこそ悪趣味だ)
 そうでないことを願う。・・・そう願いたい。
 司の言葉に反応し、祥子は振り返る。ツカツカと歩み寄り、苦々しく一語一語はっきりと一言。
「お気遣いありがとう」
「どういたしまして」
 さらりと司が返す。祥子は我慢できないとでも言うように、踵を返し、今度は走ってこの場から立ち去った。
 健太郎は同情の念を祥子に送っていたが、ふと思い立って、その姿を追う。
 その気配に気づいたのか司が声をかけた。
「ケン?」
「すぐ戻る」
 簡潔にそう答えて、健太郎は通ったばかりの廊下を、再び戻っていった。
 司は一人残されて溜め息をついた。
「・・・いいフォロー役になるかな。彼は」
 悪意のある言い方ではない。微かに唇に笑みを浮かべて、司は呟いた。
 ところで、祥子と言い合っていたのは誰か。
 司は当然すぎるほどわかっている。
 祥子と史緒の関係は複雑だ。健太郎がうまく間に入ってくれればいいけれど。司はそう思う。
 祥子から見れば史緒の側に立つ司が、慰めの言葉でもかけたりしたら、さっきの十倍の言葉と声量で怒鳴り返されるだろう。だからさっきのような物言いをした。それが最適だと、司は経験から知っていた。
 ノックを2回、事務所のドアを開けた。
「史緒? 今、祥子が出てったけど・・・」
 司が事務所に入るとやはり阿達史緒がいた。
「司」
 かけよってくる声で、島田三佳もいることに気づく。それを受け止めて、挨拶程度の言葉を交わした。
「コートが残ってるでしょ? また帰ってくるわよ」
「いや、そうじゃなくて・・・」
 祥子に用があるならその時に言ったら? と、論点のずれてる史緒の言葉に司は脱力する。
「今度は何を言って祥子を怒らせたんだい?」
「喧嘩じゃないわ。いつもの会話よ」
 史緒は平然と言う。
 三佳はこの部屋に居たわけだから、一部始終を見ている。司は意見を求めたが、三佳は小さく囁いただけだった。
「あの二人に関しては口出ししたくない」
「・・・・・・」
 この場合祥子を気の毒に思うべきなのか、それとも史緒の性格に呆れるべきなのか。
 この二人の言い合い(どちらかというと、祥子が一方的)はいつものことだ。こういう風にしか、二人の関係が成り立たないことを、司と三佳も知っている。
 しかしそれでも司は、少しだけ、祥子を気の毒に思った。
 どんなに祥子が熱くなっていても、史緒は本気ではないから。
 これは決して、同情ではない。

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