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 よく勘違いされることだが。
 阿達史緒は別に家出をしているわけではない。
 いや、「こんな家、出てってやる」的な暴言を吐いて来たのだから、この場合立派な家出になるのかもしれない。
 父親は社長という肩書きを持ち、昔からあまり顔を合わせていた記憶はない。それが普通だと思っていたし、逆に放っておかれたことが性格形成の中で良い役割を果たしたのではないかと思っている。少しの辛かったことと、忘れられない記憶があるけど、それでもあの家にいたからこそ七瀬司や関谷篤志と出会えたこと、父親に感謝している。自分は幸せなのだと、ちゃんと知っていた。感謝している父親だからこそ、2年前のあの時の言葉を、今も許せずにいるのだ。
 史緒が言うには、今の状況は親公認の(承認が必要なこと事体、彼女には不本意なのだが)名実共に自活よ、となるらしい。が、その自活と引き換えに阿達政徳は一つの条件を提示した。多分それが、家出と自活との境をわけるものなんだと思う。
 それは二月に一度のこの日。
 わざわざ丸の内まで出向いて、父親と顔を合わせなければならない。何のことは無い、自分の置かれている状況を再確認させられるだけだ。最後にはここに戻らなければならないのだと、言い聞かされるだけ。もちろん、史緒には父の元に帰る気など毛頭無い。拒み続けるけれど。
 それならいっそのこと本当に父親の前から逃げてしまえばいい。それは本当に正論で、史緒自身そうしても全く構わないのだけど、でも、そうもできない理由があった。
 あの家に縛られているのは、自分一人ではないから。


 アダチ本社のビルを出た後、史緒は皇居外苑日比谷通りを歩き東京駅に向かっていた。
 阿達政徳の皮肉交じりの嫌味をさんざん聞かされて、少しばかりの口答えもして、やっと外に出たのだ。少し落ち着く為に皇居前広場で休もうと思った。
 いい天気だった。2月の風は冷たいけど、暖かい太陽の日差しの中ではそれすらも気持ち良い。堀を覗き込むと、水鳥が水飛沫を飛ばしていた。広場のなかでは自転車を乗り回す小学生が声をあげている。史緒も、ベンチに座って日に当たっていこう、と歩き始めたとき、背後から声がかかった。
 軽い、車のクラクションの音。
「お姉さん、乗って行きませんか」
 丁寧な口調だが陳腐な文句だ。史緒は目を丸くして思わず笑いそうになった。思い直して軽蔑の眼差しを送ろうかと思った。それもやめて、ふざけないでください、と言おうと思った。が、最終的には穏やかな声で振り返らずに言う。
「遠慮しておきます。どこに連れて行かれるかわかったもんじゃないし」
「ちゃんと送った後は退散しますよ。まだクビになりたくはありませんから。それに、今から電車に乗ると帰宅ラッシュに巻き込まれるのでは?」
 その自信ありげにふざける言葉に、史緒はそっと振り返る。
 黒のセダンの傍らに立っていたスーツの男は軽く手を振った。
 お互いの目が合うと、とうとう史緒は我慢できずに、口の端を上げて嬉しそうに苦笑した。
「・・・負けました。事務所まで、お願いします」
 その言葉を聞いて一条和成も笑った。そして左手で助手席のドアを音も無く開ける。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
 背筋を伸ばしそう言う姿は堂にいったものだ。しなやかに差し伸ばされた手に、史緒は自分の左手を重ねた。
 史緒がシートに落ち着くのを見届けてから、丁寧にドアが閉まる。一条が車の前から運転席に回り込む間に、史緒は髪に隠れている両耳の、赤い石のイヤリングをさり気なくはずした。その何気ない動作に一条が気づくはずもなかった。
 一条が運転席に乗り込み、イグニッションを回しギアをロゥに入れた。サイドブレーキを外すと、車はゆっくりと走り始めた。

 一条和成は今年で27歳になる。職業は社長秘書である。誰の、とは言うまでもない。
「今日もまた、社長との交渉は決裂ですか。扉の外まで聞こえましたよ」
 窓の外の景色がオフィス街から抜け出したころ、一条が前方に顔を向けたまま口を開いた。
 史緒は感情を込めないよう努力して答える。
「私は交渉しに来ているつもりはないわ。断りにきているの、ただそれだけよ」
「社長の要求は、史緒さん一人の問題ではないでしょう?」
「・・・・・・」
 それが問題なのよね。史緒は息をついた。
 関谷篤志、そして七瀬司。彼らも史緒と同様、阿達政徳に問題を突きつけられている人間なのだ。
 阿達政徳の要求は一言で済む。関谷篤志と結婚して会社を継ぐこと。
 そんな時代錯誤的な発言を、戦前の絶対的権限を持つ家長のような態度で言ってくるものだから、つい史緒も言い返してしまう。
 誰でも、どんな人とでも、本気で言い合うというのは疲れるものだ。それが喧嘩腰の会話ならなおさら。自分のことだけならまだしも、父親との話し合いの内容には、篤志と、それから司も関わってくる。いつもの史緒の柄ではないが、本気にならざるを得ない。
(しょうがない、か・・・)
 数年後もこの場所にいる為に。
 これくらいの困難は当たり前なのかもしれない。

 昔、史緒は流されそうになったことがある。
 篤志なら、いいか。そう思った。けどその選択は、史緒が近寄りたくもないあの家に、篤志をも縛り付けることになる。それは絶対に避けなければならないことだった。
 篤志と司は関係無い。巻き込まないでほしい。
 実質上、阿達政徳と関係があるのは実子である史緒だけなのだから。
 そう、別の言い方をすれば、阿達政徳が重きを置いているのは続柄であると言える。子供の頃、史緒は比較的放任で育てられていた。それは、阿達政徳から見たとき実子という続柄を持つ人間が他に居たからだ。後継問題は彼らに委ねられていた。しかし彼らが居なくなったとたん、そのお鉢は史緒に回ってきた。少しの血の繋がりを理由に、篤志をも巻き込んで。
 従う義務はないはず。
 半端な反発ではない。父の傲慢と身勝手さに、反抗しなければならない。それに。
(あの家には帰りたくないの)
 ただ、それだけの理由。だけど、それが全て。
 窓の外を見ていた史緒は胸が熱くなるのを感じた。少しだけ、泣き言を言いたくなったのかもしれない。小さく、口を開いた。
「・・・一条さん」
「はい」
「もしかしたら、・・・・・・。もし、私が一人だったなら、私は、父さんに従っていたかもしれない」
 一条は運転中だったにもかかわらず、隣の史緒の顔を凝視してしまった。史緒は、まっすぐ正面を睨むように見つめていた。
「・・・・・・」
 驚いた。
 一条と同様、史緒の昔を知っている七瀬司は何とも思わないのだろうか。
この変貌ぶりに。
 一人だったなら、従っていたかもしれない。
 一人ではないから、従うわけにはいかない。
 昔の史緒はこういう考え方をするような人間ではなかった。少なくとも一条が知る限りは。



 一条和成が阿達史緒に初めて会ったのは、彼女が小学生の時だった。あの頃の彼女は本当に放任されていて、登校拒否児であった娘に対して両親は何も言わなかった。多分、登校拒否の事実さえ知らなかったのだろう。両親はほとんど家には帰らなかったから。けれどそんな時、阿達政徳は娘に世話係りをあてがった。それが一条和成だった。
 はじめて会った時、この子はどこかおかしいのではないかと思った。憔悴した、いつも何かに脅えているような表情、無口で、たまに爆発したように泣いていた。何が少女をこんなにしたのだろう。当時の一条には、彼が来る少し前に何かあったらしい、という程度のことしか知らされなかった。ただ、少女は、月一に訪れる異国の友人と、どこからか拾ってきた黒猫には、ぎこちない笑みを見せていた。
 そんな生活から立ち直ったと思ったら、今度は勉学に励みはじめた。貪るように本を読みはじめた。ただ点数を取る為だけの勉強ではなく、そう、生きる為の、糧。けれどあれは、純粋な知識欲や向学心とは違うように一条には思えた。少女の中の何かが、切羽詰まったような感情を掻き立てているのではないか。一度だけ、一条は尋ねたことがあった。何故そんなにがむしゃらに知識を取り入れるんです?
(一人で生きていくから。誰にも、頼らずに)


 声を立てないように笑っている一条に目ざとく気づき、史緒はその横顔を見た。
「一条さん?」
 この隣の人物がその少女のなれの果て。可愛げがない性格はそのままだが、考え方はえらい成長ぶりではないか。
 史緒の勘繰りを適当にごまかすと、一条は話題を逸らした。
「確か、お仲間は6人に増えたのでしたね」
「ええ。・・・あなたのことだから全員調べてあるんでしょうけど」
「そうでもありません。一人だけ、資料が揃わない方がいらっしゃいます」
「島田三佳、ね」
「そのとおりです」
「あの子もいろいろ複雑だから。・・・確か、一条さんは会ったことがあるのよね」
「2年前でしたか、一度だけ」
 なかなか利発そうな方でしたね、という言葉を飲み込んだ。素直に生意気だって言えばいいのに、と笑われるような気がしたから。
「実際、驚いてますよ。史緒さんがあんなに沢山の方々と行動していることには」
「私もよ。少なくても3年前は想像できなかったわ」
 彼らと会うまでは、自分がこんなふうに誰かといるなんて、思いもしなかった。
 そして、望んでもいなかったはず。

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